第四章 瑠璃色の戦姫
殿下の天幕に、将たちが集められたのは、その朝のうちだった。
天幕の中央に、粗い木の卓が据えられていた。卓の上には、緩衝地帯の地図が広げられている。丘と川と、北西の森。帝国の陣と、こちらの陣。駒代わりの小石が、いくつも並べられていた。
殿下が上座に立ち、その右に侯爵が、左に公爵がいた。神殿騎士の隊長と、近衛の古参たちが、その周りを囲んでいる。
私とフィンは、天幕の入口の内側に控えていた。
「黒地に銀の星。瑠璃色の髪」
殿下が、斥候の言葉を繰り返した。
「間違いあるまい。帝国の皇帝の姉。美しき戦乙女フェルミナだ」
天幕の中が、静まり返った。
「九十年前、フェリシアで我が軍を押し返し、返す刀で王都の目前まで攻め上った女だ。……あのとき、我は、祖父の陣の端に立って、ただ見ていることしかできなかった」
殿下は、地図の上の北西の森を、指先で叩いた。
「あの女の前に、何人が立ち、何人が倒れたか。我は、この目で見ている」
誰も、口を開かなかった。
公爵が、髭を撫でながら、低く唸った。
「で、どうする。あれが出てきたら、俺の銀でも止まらんぞ」
「止めずともよい」
殿下は、言った。
「あの女には、当たるな。前衛は、あの女が来たら道を開けよ。無理に止めようとすれば、死体が増えるだけだ。……あれを止めうるのは、侯爵の連奏のみ」
殿下は、侯爵を見た。
侯爵は、地図を見下ろしたまま、頷いた。
「支度には、まだ日がかかる。陣を描く場所を決め、術師たちの息を揃え、それに見合うだけの晶素を用意せねばならん」
侯爵の目が、ちらりと、天幕の外に向いた。
陣の後ろに並べられた、幌を掛けた荷車のほうへ。
「それまでは、あの女を好きに歩かせることになる」
「好きに歩かせる、だと」
公爵が、卓を叩いた。
「その間に、俺の兵が何人死ぬ」
「少なくはない」
侯爵は、静かに答えた。
「だが、半端に撃った連奏で仕留め損ねれば、もっと死ぬ。あの女は、一度撃たれた術を二度は喰らわん。撃つなら、一度で終わらせねばならん」
公爵は、何か言い返そうとして、口を閉じた。
太い指が、卓の縁を掴んでいた。
その晩、侯爵の天幕から戻ってきたフィンは、いつになく口数が少なかった。
焚き火の前に座り込んで、左の掌を見つめていた。
「今日は、何を習った」
「岩です」
フィンは、掌を地面に向けた。
足もとの土が、ごとりと鳴った。掌ほどの大きさの石の板が、土の中から迫り出してきた。
「炎で攻めるより先に、身を守る術を覚えろって。……それから」
フィンは、石の板を見下ろしたまま、言った。
「あの女と出会ったら、戦うな、逃げろって。侯爵様、今日は何度も、そればかり言うんです」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
「侯爵様の手、震えてました」
フィンは、小さな声で言った。
「御前会議のときと、同じ震え方でした。扉の内側から、僕にも見えたんです」
私は、何も言わなかった。
石の板は、焚き火の光の中で、しばらくそこに立っていた。
それから、ぼろりと崩れて、土に還った。
◇
瑠璃色の髪の女が、最初に姿を見せたのは、三日後の昼だった。
帝国の軍勢は、いつものように北西の森から出てきた。
けれど、いつもとは違っていた。
ばらばらではなかった。
黒い群れが、森の縁で足を止めていた。旗と旗が、一列に並んでいた。蝙蝠も、薔薇も、牙も、三日月も。先を争っていたはずの旗が、揃って、何かを待っていた。
その列の前に、一人だけ、歩み出てきた者がいた。
遠かった。
丘の上の殿下の傍らから見ても、豆粒ほどの大きさでしかなかった。
それでも、分かった。
背が高い。長い髪を、一つに束ねている。黒い革の軽装。馬には乗っていない。武器も、手にしていない。ただ丸い小盾を一つ携えて。
散歩でもするように、草の海の中を、こちらへ向かって歩いてくる。
後ろの軍勢は、動かなかった。
一人だった。
本当に、一人だけだった。
「……舐めおって」
近衛の誰かが、呟いた。
殿下は、何も言わなかった。
細剣の柄を握る手が、白くなっていた。
前衛から、術が放たれた。
宮廷の術師たちの、揃った詠唱。光の線が土を走り、陣を描き、無数の光の矢が、空へ打ち上げられた。
矢は、弧を描いて、歩いてくる女の上に降り注いだ。
女は、足を止めなかった。
片手を、軽く上げた。
その手の周りに、光が集まった。
一瞬だった。
術師たちが数十人がかりで詠唱した光の量を、女は、瞬き一つの間に、たった一人で集めていた。
光が、放たれた。
女の頭上に、薄い膜が広がった。
光の矢が、膜に触れて、弾けて消えた。一本残らず。
女は、そのまま歩き続けていた。
膜の下で、髪の一筋も乱していなかった。
術師の列から、どよめきが上がった。
「……撃て」
術師の長が、叫んだ。
「撃ち続けろ! 奴とて、無限には集められん! いずれ結晶に」
「ならぬ」
侯爵の声が、術師の長を遮った。
「あれは、リッチだ。いくら撃とうと、奴の身体は結晶にならん。……撃つだけ、こちらが削れる」
侯爵は、金錦の旗杖を握りしめていた。
旗が、風に鳴っていた。
それでも、侯爵は、旗杖を掲げなかった。
まだ、その時ではなかった。
女が、前衛にたどり着いた。
ドワーフの重装兵たちが、殿下の命に従って、左右に道を開こうとしていた。
間に合わなかった。
女が、左の腕を振った。
左の腕には、小さな丸い盾が括りつけられていた。掌ほどの大きさしかない。表面は黒く、その黒の中に、無数の小さな光の粒が瞬いている。
その盾の中から、何かが引き抜かれた。
大槌だった。
女の身の丈ほどもある柄に、樽のような鉄の頭がついている。どう見ても、あの小さな盾に収まる大きさではない。
女は、それを片手で振り回した。
ドワーフの一人が、銀の盾で受けた。
盾ごと、吹き飛んだ。
後ろにいたドワーフを巻き込んで、三人が、丘の斜面を転がり落ちていった。
「銀には、術が通りにくいんだろ」
女の声が、戦場に響いた。
よく通る、豪快な声だった。遠くまで届いて、丘の上の私にまで聞こえた。
「知ってるよ。抜いてやれなくもねえが、殴ったほうが早え」
女は、笑っていた。
楽しそうに。
心の底から、楽しそうに。
女は、ドワーフの隊列の中を、歩いて抜けた。
大槌が振るわれるたびに、銀の鎧が凹み、ひしゃげ、人が宙に舞った。ドワーフたちの斧槍が、女の背に、脇に、脚に叩きつけられる。
女は、それを、避けもしなかった。
斧槍の刃が、女の革の軽装を裂いた。その下の蒼白な肌に、浅い傷が走った。
それだけだった。
女は、傷に目もくれず、大槌を振り続けた。
銀の鎧を着たドワーフが、あの女の前では、子供のように見えた。
「押せ! 押し返せ!」
公爵の声が、隊列の奥から響いた。
公爵自らが、斧槍を構えて、女の前に躍り出た。
女は、公爵を見て、にやりと笑った。
「よう、髭の。今日のはまた一段と出来のいい斧だな」
公爵の斧槍が、唸りを上げて振り下ろされた。
女は、大槌の柄で、それを受けた。
鉄と鉄がぶつかる音が、丘を震わせた。
公爵の足が、地面にめり込んだ。
女の足は、動かなかった。
女は、片手で大槌を支えたまま、もう片方の手で、公爵の兜を軽く叩いた。
公爵の身体が、横に吹き飛んだ。
「悪ぃな。今日は、髭に用はねえんだ」
女は、大槌を肩に担いだ。
それから、丘の上を見上げた。
殿下の旗を。
いや。
その旗の下にいる、私を。
「黒髪」
女が、言った。
遠かった。
それでも、女の金色の目が、まっすぐに私を捉えているのが分かった。
「いるじゃねえか」
◇
女が、丘を駆け上がってきた。
速かった。
人の足ではなかった。獣でもなかった。草の海が、女の足もとで裂けるように割れていく。
「近衛! 殿下をお守りしろ!」
古参の騎士が叫んだ。
近衛たちが、殿下の前に壁を作った。
私も、殿下の前に出ようとした。
殿下の手が、私の肩を掴んだ。
「待て」
殿下の声が、低かった。
「あの女の狙いは、そなただ。……我の前に立てば、我ごと潰される」
「では、どうせよと」
「離れよ。我から、離れて戦え」
殿下は、私の肩を突き放した。為政者としては正しい判断だった。
「死ぬな、クルシマ・カリン」
殿下の目が、一瞬だけ、私の顔を見た。
すぐに逸れた。殿下はそういう決断ができる人だ。
私は、殿下の傍らを離れて、丘の斜面を駆け下りた。
近衛に上がってから、私は殿下の左の斜め後ろ、半歩下がったところにしか立ったことがなかった。誰に命じられた位置でもない。斬りかかる者がいれば殿下より先に私の肩に当たる、その場所に勝手に立ち続けてきた。
斜面を下りながら、背中のその場所だけが、風の通り道のように冷えていた。
近衛の壁から、術が放たれた。
近衛の騎士たちは、剣も術も使う。十人ほどが一斉に、光の刃を、礫を、炎を、女へ撃ち込んだ。
女は、足を止めずに、片手を振った。
光が、女の手の周りに集まった。放たれた。また集まった。また放たれた。
息をつく間もなかった。
一つ撃つたびに、次の光がもう集まっている。女の周りに、赤い結晶の槍が、雨のように生まれては飛んでいく。十、二十、三十。
近衛の術は、一つ残らず撃ち落とされた。撃ち落とされなかった女の槍が、近衛の盾に、鎧に、突き刺さった。
あれだけ撃てば、ヴァンパイアなら、とうに腕が結晶になっている。
女の瑠璃色の髪は、毛先の一本まで、艶やかなままだった。
侯爵の真っ白な髪の毛先が、燭台の火の中で瞬いていたのを、私は思い出した。
大結晶使いと呼ばれる人ですら、生涯をかけて、少しずつ結晶に削られていく。
あの女は、何も削られていなかった。
女は、近衛の壁の手前で、方向を変えた。
私のほうへ。
迷いもなく。
私は、目を閉じた。
開けた。
世界が、二重になった。
女が、そこにいる。
その少し前に、透けた女がいる。大槌を振りかぶっている。透けた軌跡が、私の頭の上へ落ちてくる。
私は、半歩ずれた。
本物の大槌が、私の横の地面を叩き割った。
土が、噴き上がった。
女が、目を丸くした。
「お」
さらに足を引いて身をかがめる。
露出の多い鎧だ。隙間を狙うのは簡単に見えた。
大槌を振り下ろした直後の女の脇腹へ剣を滑らせる。
影が見える。
女の身体が、大槌を手放し、後ろへ跳ぶ軌跡。
見えたがこの姿勢では対処に限界がある。
右手を離して左手一本で切っ先を伸ばす。
銀線が瞬く。
女は、槍一本ぶんほど後ろに着地していた。
手放した大槌が、地面に突き刺さったまま、柄を揺らしていた。
「……へえ」
女は、自分の脇腹を見下ろした。
革の軽装が、一筋、裂けていた。
その下の肌には、傷一つなかった。
「今の、見えてたろ。オレが槌を振る前に、もう避けてた」
女は、顔を上げた。
金色の瞳が、焚き火の中で爆ぜる火の粉のように、輝いていた。
「面白えな、お前」
女が、左手の盾に、右手を突っ込んだ。
不思議な光景だった。文字通り盾に手を突っ込んだのだ。
ぬるりと小盾から引き抜かれたのは、長い槍だった。
呆気にとられたのは束の間、女の姿が消えた。
影は見えた。
透けた槍の穂先が、私の喉へ。
首を傾ける。
本物の穂先が首の横を通り過ぎた。風圧で、髪が数本、宙に舞った。
次の影。
穂先が引かれ、石突きが私の脇腹へ。
身体を捻る。
次。
槍が消えた。いつの間にか女の手には双つの短剣が握られていた。
両肩を狙った牙突が左右同時に放たれる。
半身になると影の隙間に身体を滑り込ませる。
次。
短剣が消えた。長柄の斧。
次。
斧が消えた。鎖のついた鉄球。
次。次。次。
影は、見えていた。
一つ残らず、見えていた。
けれど、影が見えてから本物が来るまでの間が、どんどん短くなっていく。
エドガーのときは、影を見てから、ゆっくりと歩けるほどの間があった。
薔薇の旗の男のときは、踏み込むだけの間があった。
今は、ない。
影が見えた瞬間に、もう、本物がそこにある。
女の身体は、読めなかった。
私は、ずっと、人の身体を読んで戦ってきた。重心の置き方。肩の力み。足の指の向き。道場で、祖父に叩き込まれた。どんな相手でも、動く前には、必ず身体のどこかが教えてくれる。
でもそれは得物が決まっているからだ。得物が決まっていれば自ずと攻撃の方法も防御も定まってくる。その中の最適解を考えれば、少しの予備動作から動きを予想するのは難しくない。
しかし彼女に得物は決まっていない。
そう動けるから、動いているだけだった。
それに合う獲物が選ばれているだけだ。
やりづらい。そう思った。
それでも、私は、躱し続けた。
躱しながら、誘った。
わざと、右の肩を開けた。
女の影が、その隙に吸い寄せられる。
開けた肩の、半寸先へ。
すーっと左足を軸に右脚を引くと同時に剣を引き下ろす。
私のいた場所がぽっかり空いて女の手が空を裂く。
引き下ろす刃の先には女の手首。
手応えがあった。
しかし浅い。
刃筋が皮一枚を切り裂き、女の手首に細い赤い線が走る。
引ききった力を逃がすように、左足を軸にくるりと回転しながら一足分距離を取る。
女が、動きを止めた。
自分の手首を、見下ろした。
赤い線から、血が一滴、盛り上がって、草の上に落ちた。
女は、長いこと、その一滴を見ていた。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
笑っていなかった。
さっきまでの、楽しそうな笑みが、消えていた。
「……今の」
女の声が、低くなっていた。
「今の、誘いだよな。わざと隙を見せて、オレに打たせた」
私は、答えなかった。
女は、私の顔を、穴が開くほど見つめていた。
「その誘い方」
女は、言った。
「当たらねえのに、ずっとこっちを見てて。隙を見せたかと思えば、それが罠で。腹の立つ顔で、こっちの手の内を全部見透かしたみたいに」
女の手が、震えていた。
怒りではなかった。
もっと別の、熱いものだった。
「九十年前にも、いたんだよ。お前みたいなのが」
私は、息を止めた。
「黒い髪の。槍一本で、オレの術を片っ端から散らしやがった。最後まで、一発もまともに当たらなかった。オレを散々おちょくって、腹の立つ顔で笑いやがって」
女は、口の端を吊り上げた。
また、笑っていた。
さっきよりも、ずっと獰猛に。
獰猛で恐ろしいのに、なぜか美しいと思った。
「お前、あいつと同じ匂いがする」
九十年前の、黒髪の勇者。
冬至の祭りの夜、人混みの向こうへ消えた、フードの背中。肩の力の抜けすぎた、あの歩き方。
腹の立つ顔で笑う、と女は言った。
何となく彼に重ねてしまった。笑う前に、鼻から短く息が抜ける。右の口の端だけが先に上がって、左が追いつく頃にはもう次の悪ふざけを思いついている。叱られると、目を逸らして耳の後ろを掻く。
女が言っていないところまで、頭の中で勝手に埋まっていった。埋めるのを止められなかった。
九十年も前の話だ、と、あのとき自分に言い聞かせた。三年前に消えた人のはずがない、と。
今も、そう思った。
思おうとした。
その一瞬の迷いが、影を見る目を、曇らせた。
女の影が、見えなかった。
いや、見えた。確かに目はその姿を追っていた。
けれど、遅かった。
女の手に、いつの間にか、一振りの大剣が握られていた。女の身の丈を超える、分厚い鉄の塊のような剣だった。それを何の小細工もなく横薙ぎにする。
その剣が、真横から、私の胴へ迫っていた。
躱す場所が、なかった。
影の軌跡が、私の周りのすべてを塞いでいた。
受けるしか、なかった。
私は、剣を立てた。
剣と剣を、打ち合わせないこと。
祖父の声が、頭の奥で聞こえた。
お前は、女だ。子供だ。力がない。正面から受ければ、剣ごと折られる。
分かっていた。
それでも、受けるしかなかった。
鉄の塊が、私の剣にぶつかった。
腕が、肩が、背骨が、軋んだ。足が、地面から浮いた。
私の身体は、剣ごと、横に吹き飛ばされた。
草の上を、何度も転がった。
止まったとき、口の中に、鉄の味が広がっていた。
左の脇腹が、焼けるように痛んだ。息を吸うたびに、何かが軋む。
それでも、剣は、まだ手の中にあった。
私は、剣を支えに、立ち上がろうとした。
女が、目の前にいた。
大剣は、もう手になかった。
女は、私の剣の刀身を、左手で掴んでいた。
素手で。
刃が、女の掌に食い込んでいた。血が、刀身を伝って、私の手元まで流れてきた。
女は、それを気にも留めていなかった。
「いい剣だな」
女は、言った。
私の剣は、近衛に上がったときに、殿下から下賜されたものだった。ヴァルムハイムのドワーフが打った、細身の長剣。刀身に、流れるような波の紋が浮いている。騎士団の支給品よりも、ずっと手に馴染んだ。
「持ち主の癖が、ちゃんと染みてる。力で打ち合うための剣じゃねえ。……受け流すための剣だ」
女の左腕の、小さな黒い盾が、私の剣の刀身に触れた。
刀身が、盾の表面の星空の中に、沈んでいった。
水に沈むように。
音もなく。
私の手の中で、柄が、ふっと軽くなった。
次の瞬間には、柄ごと、剣が消えていた。
私の手の中には、何もなかった。
「もらっとく」
女は、言った。
私は、空になった手を見ていた。
それから、女を見上げた。
女は、私を見下ろしていた。
金色の瞳が、笑っていた。
「今のお前じゃ、まだ足りねえ」
女は、言った。
「あいつは、もっと腹が立った。もっと、どうしようもなかった。……お前も、そのうち、そうなるかもな」
女は、しゃがみ込んで、私と目の高さを合わせた。
「だから、今日は殺さねえ。剣は預かっといてやる。次に会うとき、返してほしけりゃ、取りに来い」
女の掌から流れた血が、私の頬に一滴、落ちた。
冷たい血だった。
「その剣で、相手してやるよ」
「カリンさん!」
フィンの声がした。
丘の斜面を、フィンが駆け下りてくるのが見えた。
左手を、女に向けて突き出していた。
掌に、青白い炎が宿っていた。
「離れろ!」
蒼い炎が、放たれた。
まっすぐに、女の背中へ。
女は、振り向きもしなかった。
背を向けたまま、右手を肩越しに後ろへ伸ばした。
蒼い炎が、その掌に、ぶつかった。
炎は、女の掌の中で、握り潰されるように消えた。
女の掌から、細い煙が一筋、立ち上った。
女は、立ち上がって、振り返った。
自分の掌を見た。
皮膚が、わずかに焦げていた。
「……へえ」
女は、フィンを見た。
「坊主も、いい火だ。芯がある。誰に習った」
フィンは、答えなかった。
答えられなかったのだろう。左手を突き出したまま、肩で息をしていた。
女は、フィンの顔を、しばらく見ていた。
それから、その後ろに目をやった。
丘の上から、近衛の騎士たちが駆け下りてきていた。その先頭に、白い馬に乗った殿下がいた。腰の細剣を、抜き放っていた。
女の目が、その細剣の上で、止まった。
「……サルヴィナの剣か」
女は、呟いた。
「懐かしいもん持ってきやがったな」
女は、殿下の顔を見た。
それから、興味をなくしたように、目を逸らした。
「あれは、持ってるやつが違うと、ただの剣だ」
女は、盾を括りつけた左腕を、軽く振った。
それから、私を見下ろした。
「またな、黒髪」
女は、踵を返した。
来たときと同じように、散歩でもするように、草の海の中を歩いて、北西の森へ帰っていった。
誰も、その背中を追わなかった。
追えなかった。
女の背中が森の縁に届いたとき、そこで待っていた黒い群れが、一斉に動き出した。
旗が、揃って前へ倒された。
ばらばらではなかった。一つの獣のように、草の海を渡ってくる。あの女が歩いた道を、なぞるように。
崩れたドワーフの隊列に、その群れがなだれ込んでいくのが見えた。
誰かが、退け、と叫んでいた。殿下の声だったのかもしれない。
私は、立ち上がろうとした。
脇腹が、軋んだ。
視界の端が、暗く滲んだ。
最後に見たのは、私を抱え上げるフィンの顎の線と、その向こうで、川のほうへ下がっていく味方の旗だった。
その日、こちらの陣は、川の向こうまで下がった。
ふた月かけて守った丘を、半日で失った。
◇
目を覚ますと、天幕の中だった。
救護の天幕だった。布の天井が、ランタンの灯りで、橙色に染まっている。
歌が、聞こえていた。
すぐ近くで。
私の枕元で。
顔を動かすと、リエルがいた。
私の胸の上に、両手を置いていた。見えない目を閉じて、細く、澄んだ声で、歌っていた。
リエルの掌から、淡い光が零れていた。光は、私の脇腹に染み込んで、軋んでいた骨を、ゆっくりと元の形に戻していく。
私は、何も言わずに、その歌を聞いていた。
歌が、終わった。
リエルが、目を開けた。
「……カリン」
声が、震えていた。
「起きていらっしゃるの?」
「起きている」
リエルの顔が、くしゃりと歪んだ。
それから、私の胸の上に、顔を伏せた。
「わたくし、カリンの傍を離れるなと、言われましたのに。わたくしのほうが、離れていましたわ」
リエルの肩が、震えていた。
「カリンが運ばれてきたとき、息の音が、とても、とても小さくて」
「もう、大丈夫だ」
「大丈夫ではありませんわ」
リエルは、顔を上げた。
見えない目から、涙が零れていた。
「あばらが、三本も折れていましたのよ。わたくしが歌わなかったら」
そこまで言って、リエルは、ふと言葉を切った。
私の脇腹に、もう一度、そっと手を当てた。
指先で、骨の形を確かめるように、なぞった。
「……おかしいですわ」
リエルは、首を傾げた。
「もう、ほとんど繋がっておりますの。わたくし、まだ半分も歌っておりませんのに。ほかの兵の方々なら、三晩は歌い続けなければならない傷ですのに」
私は、何も言わなかった。
三日で消えた、エドガーの槍の傷。
並んだ二つの数字。
伸びない髪。
ひとつずつなら、何でもないことだった。
「君の歌が、よく効いたのだろう」
私は、言った。
リエルは、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「そういうことにして差し上げますわ」
リエルが付き人に連れられて出ていったあとで、フィンが天幕に入ってきた。
フィンの顔は、泣き腫らしたように赤かった。
泣いてはいなかった。たぶん、泣くのを堪えすぎたのだろう。
「……すみません」
フィンは、枕元に膝をついて、言った。
「間に合いませんでした。僕の炎、あの人に、素手で握り潰されました」
「焦げていた」
「え?」
「あの女の掌が、焦げていた。君の炎は、届いていた」
フィンは、目を瞬かせた。
それから、唇を噛んで、うつむいた。
「……届いただけです」
「私の剣は、届きもしなかった」
私は、天幕の天井を見上げた。
布の天井に、ランタンの灯りが揺れていた。
空になった手を、握って、開いた。
手のひらに、柄の感触が、まだ残っていた。
「殿下からいただいた剣を、取られた」
「……はい」
「取りに来い、と言われた」
フィンが、顔を上げた。
「その剣で相手をしてやる、と」
私は、手のひらを握った。
あの女の影は、見えていた。
見えていて、届かなかった。
見えることと、届くことは、違う。
そんな当たり前のことを、私は、この世界に来て初めて、身体で知った。
「フィン」
「はい」
「負けた」
フィンは、何も言わなかった。
ただ、私の枕元に膝をついたまま、動かなかった。
天幕の外で、夜風が、草の海を渡っていく音がしていた。
◇
翌日、殿下が救護の天幕を訪れた。
私は、もう起き上がれるようになっていた。救護の兵が、信じられないという顔で、私の脇腹を何度も検めていた。
殿下は、寝台の脇に立って、私の肩のあたりを見ていた。
「剣を、失ったそうだな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
殿下は、言った。
「あの女と刃を交えて、生きて戻った者は、九十年前にも、ほとんどおらぬ。……剣は、代わりを用意させる」
殿下は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「あの女は、そなたを、あの勇者と同じ匂いがすると言ったそうだな」
私は、顔を上げた。
殿下は、やはり、私の顔を見ていなかった。
けれど、その目は、何か遠いものを見ていた。
「九十年前の、黒髪の勇者」
殿下は、呟いた。
「我は、あの男をよく知っている」
殿下の声には、何の色もなかった。
懐かしさも、憎しみも。
ただ、平らだった。
「……よく似ている、とは、我は思わぬ」
殿下は、そう言って、踵を返した。
天幕の入口で、一度だけ、足を止めた。
「あの男は、最後に、この国を捨てた。……そなたは、捨てるな」
それだけ言って、殿下は出ていった。
私は、閉じた天幕の入口を、しばらく見ていた。
この国を捨てた。
九十年前の勇者が、この国を捨てた。
そんな話は、どの昔話にも、なかった。
捨てるな。
入口の布が揺れやむまで、その一言を口の中で転がしていた。揺れがやんでからも転がしていた。丘の上で聞いた死ぬなと並べて、どちらがより低い声だったかを確かめるように何度も。
ここにいろ、と言われたのと同じだと思った。この国に。殿下の右の後ろに。そう思うと脇腹の軋みが少し遠のいた。
最後に聞いた声を擦り切れるまでなぞる癖は、あのアパートの台所でついたものだった。気づいて、私は寝台の上で膝を抱え直した。
殿下と入れ違いに、地響きのような足音がした。
天幕の入口の布が、乱暴に持ち上がった。
頭に白い布を巻いた公爵が、身を屈めて入ってきた。
「おう、生きとったか、嬢ちゃん」
「公爵こそ」
「兜が凹んだだけだ。中身は、元から凹んどる」
公爵は、布の上から自分の頭を叩いて、顔をしかめた。
それから、寝台の脇にどかりと腰を下ろした。
「聞いたぞ。剣を、あの女に持っていかれたそうだな」
「はい」
「うちの職人が打った剣だ」
公爵は、太い指で、髭をしごいた。
「あれを、あの女は、いい剣だと言ったそうだな」
「はい」
「……そうか」
公爵は、しばらく黙っていた。
それから、髭の中で、にやりと笑った。
「腹は立つが、褒められたのは悪い気がせんな」
公爵は、立ち上がった。
天幕の入口で、振り返った。
「嬢ちゃん。この戦が終わったら、一度、ヴァルムハイムに来い。お前の手に合う一振りを、俺が打ってやる。あの女が、盗む気も起きんくらいのをな」
「考えておきます」
「今度は、考えるだけで済ますなよ」
公爵は、笑いながら出ていった。
足音が、地響きのように遠ざかっていった。
その夜、私は、陣の外れに一人で立っていた。
腰が、軽かった。
近衛に上がってから、一日も離したことのなかった重みが、そこになかった。
振り返ると、陣の真ん中に立てた王家の旗の根もとで、小さな火がいくつも揺れていた。
浅い素焼きの皿に油を張り、灯心を一本ずつ立てたものだった。兵たちが一人、また一人とやってきては、皿を置いて膝をつき、しばらくして去っていく。丘にいた頃には、一つもなかった。
「聖堂の灯明の代わりです」
見張りの兵が、私の視線に気づいて言った。
「王都なら、戦のあいだは大聖堂の前に灯を上げて、兵の無事を頼むんです。ここには聖堂がないから、王家の旗に。旗の下には殿下がおられるし、殿下の腰にはサルヴィナ様の剣がありますから」
丘を失った晩から、皿は増える一方なのだという。
数えかけて、やめた。運び出せた者たちは川のこちら側で黄昏を待って送られたと、フィンに聞いていた。丘に残してきた者は、送られてもいない。
灯の前で、誰も主神の名は口にしていなかった。
持ってるやつが違うと、ただの剣だ。
あの女の声が、耳の奥でした。膝をついている兵の背中に向かって、それを言う気にはなれなかった。油の焦げる匂いが、夜風に乗って薄く流れてきた。
北西の森の上に、月が出ていた。
森の向こうに、あの女がいる。
私の剣を持って。
取りに来い、と言った。
次に会うときは、その剣で相手をしてやる、と。
私は、空の手を、握りしめた。
剣と剣を、打ち合わせないこと。
祖父の教えを、私は、あの女の前で破った。破るしかなかった。躱す場所を、すべて塞がれたからだ。
目を閉じて、あの女の動きを、一つずつ思い返した。
影は、見えていた。見えてから、躱していた。
あの女の手首に、浅い傷を一筋つけられたのは、左の肩を開けて誘ったときだけだった。
あのときだけは、見てから動いたのではなかった。
読んでいた。
見えるようになってから、私は、読むことをやめていたのかもしれない。
祖父に叩き込まれたのは、見ることではない。読むことだ。
あの女は、考えて動いてはいなかった。そう動けるから、動いていた。
ならば、あの身体に動けないようには、動かない。どれほど速くとも、次の一手が届く先は限られている。
絞れるはずだった。
肉眼で読むだけでは、間に合わない。影を見るだけでも、間に合わない。
影が見せてくれる一手の、その次を読む。
まだ、形にはならなかった。
けれど、見えた道が一本もないときの答えは、たぶん、そのあたりにある。
懐の奥で、あの結晶塊が、重く感じられた。
月の光の下で、北西の森は、黒く静まり返っていた。
(第四章 了)




