↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
越境者の足跡  作者: 野良野良猫
二.割れた仮面
PR
15/32

第四章 瑠璃色の戦姫

 殿下の天幕に、将たちが集められたのは、その朝のうちだった。

 天幕の中央に、粗い木の卓が据えられていた。卓の上には、緩衝地帯の地図が広げられている。丘と川と、北西の森。帝国の陣と、こちらの陣。駒代わりの小石が、いくつも並べられていた。

 殿下が上座に立ち、その右に侯爵が、左に公爵がいた。神殿騎士の隊長と、近衛の古参たちが、その周りを囲んでいる。

 私とフィンは、天幕の入口の内側に控えていた。

「黒地に銀の星。瑠璃色の髪」

 殿下が、斥候の言葉を繰り返した。

「間違いあるまい。帝国の皇帝の姉。美しき戦乙女フェルミナだ」

 天幕の中が、静まり返った。

「九十年前、フェリシアで我が軍を押し返し、返す刀で王都の目前まで攻め上った女だ。……あのとき、我は、祖父の陣の端に立って、ただ見ていることしかできなかった」

 殿下は、地図の上の北西の森を、指先で叩いた。

「あの女の前に、何人が立ち、何人が倒れたか。我は、この目で見ている」

 誰も、口を開かなかった。

 公爵が、髭を撫でながら、低く唸った。

「で、どうする。あれが出てきたら、俺の銀でも止まらんぞ」

「止めずともよい」

 殿下は、言った。

「あの女には、当たるな。前衛は、あの女が来たら道を開けよ。無理に止めようとすれば、死体が増えるだけだ。……あれを止めうるのは、侯爵の連奏のみ」

 殿下は、侯爵を見た。

 侯爵は、地図を見下ろしたまま、頷いた。

「支度には、まだ日がかかる。陣を描く場所を決め、術師たちの息を揃え、それに見合うだけの晶素を用意せねばならん」

 侯爵の目が、ちらりと、天幕の外に向いた。

 陣の後ろに並べられた、幌を掛けた荷車のほうへ。

「それまでは、あの女を好きに歩かせることになる」

「好きに歩かせる、だと」

 公爵が、卓を叩いた。

「その間に、俺の兵が何人死ぬ」

「少なくはない」

 侯爵は、静かに答えた。

「だが、半端に撃った連奏で仕留め損ねれば、もっと死ぬ。あの女は、一度撃たれた術を二度は喰らわん。撃つなら、一度で終わらせねばならん」

 公爵は、何か言い返そうとして、口を閉じた。

 太い指が、卓の縁を掴んでいた。

 その晩、侯爵の天幕から戻ってきたフィンは、いつになく口数が少なかった。

 焚き火の前に座り込んで、左の掌を見つめていた。

「今日は、何を習った」

「岩です」

 フィンは、掌を地面に向けた。

 足もとの土が、ごとりと鳴った。掌ほどの大きさの石の板が、土の中から迫り出してきた。

「炎で攻めるより先に、身を守る術を覚えろって。……それから」

 フィンは、石の板を見下ろしたまま、言った。

「あの女と出会ったら、戦うな、逃げろって。侯爵様、今日は何度も、そればかり言うんです」

 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。

「侯爵様の手、震えてました」

 フィンは、小さな声で言った。

「御前会議のときと、同じ震え方でした。扉の内側から、僕にも見えたんです」

 私は、何も言わなかった。

 石の板は、焚き火の光の中で、しばらくそこに立っていた。

 それから、ぼろりと崩れて、土に還った。

            ◇

 瑠璃色の髪の女が、最初に姿を見せたのは、三日後の昼だった。

 帝国の軍勢は、いつものように北西の森から出てきた。

 けれど、いつもとは違っていた。

 ばらばらではなかった。

 黒い群れが、森の縁で足を止めていた。旗と旗が、一列に並んでいた。蝙蝠も、薔薇も、牙も、三日月も。先を争っていたはずの旗が、揃って、何かを待っていた。

 その列の前に、一人だけ、歩み出てきた者がいた。

 遠かった。

 丘の上の殿下の傍らから見ても、豆粒ほどの大きさでしかなかった。

 それでも、分かった。

 背が高い。長い髪を、一つに束ねている。黒い革の軽装。馬には乗っていない。武器も、手にしていない。ただ丸い小盾を一つ携えて。

 散歩でもするように、草の海の中を、こちらへ向かって歩いてくる。

 後ろの軍勢は、動かなかった。

 一人だった。

 本当に、一人だけだった。

「……舐めおって」

 近衛の誰かが、呟いた。

 殿下は、何も言わなかった。

 細剣の柄を握る手が、白くなっていた。

 前衛から、術が放たれた。

 宮廷の術師たちの、揃った詠唱。光の線が土を走り、陣を描き、無数の光の矢が、空へ打ち上げられた。

 矢は、弧を描いて、歩いてくる女の上に降り注いだ。

 女は、足を止めなかった。

 片手を、軽く上げた。

 その手の周りに、光が集まった。

 一瞬だった。

 術師たちが数十人がかりで詠唱した光の量を、女は、瞬き一つの間に、たった一人で集めていた。

 光が、放たれた。

 女の頭上に、薄い膜が広がった。

 光の矢が、膜に触れて、弾けて消えた。一本残らず。

 女は、そのまま歩き続けていた。

 膜の下で、髪の一筋も乱していなかった。

 術師の列から、どよめきが上がった。

「……撃て」

 術師の長が、叫んだ。

「撃ち続けろ! 奴とて、無限には集められん! いずれ結晶に」

「ならぬ」

 侯爵の声が、術師の長を遮った。

「あれは、リッチだ。いくら撃とうと、奴の身体は結晶にならん。……撃つだけ、こちらが削れる」

 侯爵は、金錦の旗杖を握りしめていた。

 旗が、風に鳴っていた。

 それでも、侯爵は、旗杖を掲げなかった。

 まだ、その時ではなかった。

 女が、前衛にたどり着いた。

 ドワーフの重装兵たちが、殿下の命に従って、左右に道を開こうとしていた。

 間に合わなかった。

 女が、左の腕を振った。

 左の腕には、小さな丸い盾が括りつけられていた。掌ほどの大きさしかない。表面は黒く、その黒の中に、無数の小さな光の粒が瞬いている。

 その盾の中から、何かが引き抜かれた。

 大槌だった。

 女の身の丈ほどもある柄に、樽のような鉄の頭がついている。どう見ても、あの小さな盾に収まる大きさではない。

 女は、それを片手で振り回した。

 ドワーフの一人が、銀の盾で受けた。

 盾ごと、吹き飛んだ。

 後ろにいたドワーフを巻き込んで、三人が、丘の斜面を転がり落ちていった。

「銀には、術が通りにくいんだろ」

 女の声が、戦場に響いた。

 よく通る、豪快な声だった。遠くまで届いて、丘の上の私にまで聞こえた。

「知ってるよ。抜いてやれなくもねえが、殴ったほうが早え」

 女は、笑っていた。

 楽しそうに。

 心の底から、楽しそうに。

 女は、ドワーフの隊列の中を、歩いて抜けた。

 大槌が振るわれるたびに、銀の鎧が凹み、ひしゃげ、人が宙に舞った。ドワーフたちの斧槍が、女の背に、脇に、脚に叩きつけられる。

 女は、それを、避けもしなかった。

 斧槍の刃が、女の革の軽装を裂いた。その下の蒼白な肌に、浅い傷が走った。

 それだけだった。

 女は、傷に目もくれず、大槌を振り続けた。

 銀の鎧を着たドワーフが、あの女の前では、子供のように見えた。

「押せ! 押し返せ!」

 公爵の声が、隊列の奥から響いた。

 公爵自らが、斧槍を構えて、女の前に躍り出た。

 女は、公爵を見て、にやりと笑った。

「よう、髭の。今日のはまた一段と出来のいい斧だな」

 公爵の斧槍が、唸りを上げて振り下ろされた。

 女は、大槌の柄で、それを受けた。

 鉄と鉄がぶつかる音が、丘を震わせた。

 公爵の足が、地面にめり込んだ。

 女の足は、動かなかった。

 女は、片手で大槌を支えたまま、もう片方の手で、公爵の兜を軽く叩いた。

 公爵の身体が、横に吹き飛んだ。

「悪ぃな。今日は、髭に用はねえんだ」

 女は、大槌を肩に担いだ。

 それから、丘の上を見上げた。

 殿下の旗を。

 いや。

 その旗の下にいる、私を。

「黒髪」

 女が、言った。

 遠かった。

 それでも、女の金色の目が、まっすぐに私を捉えているのが分かった。

「いるじゃねえか」

             ◇

 女が、丘を駆け上がってきた。

 速かった。

 人の足ではなかった。獣でもなかった。草の海が、女の足もとで裂けるように割れていく。

「近衛! 殿下をお守りしろ!」

 古参の騎士が叫んだ。

 近衛たちが、殿下の前に壁を作った。

 私も、殿下の前に出ようとした。

 殿下の手が、私の肩を掴んだ。

「待て」

 殿下の声が、低かった。

「あの女の狙いは、そなただ。……我の前に立てば、我ごと潰される」

「では、どうせよと」

「離れよ。我から、離れて戦え」

 殿下は、私の肩を突き放した。為政者としては正しい判断だった。

「死ぬな、クルシマ・カリン」

 殿下の目が、一瞬だけ、私の顔を見た。

 すぐに逸れた。殿下はそういう決断ができる人だ。

 私は、殿下の傍らを離れて、丘の斜面を駆け下りた。

 近衛に上がってから、私は殿下の左の斜め後ろ、半歩下がったところにしか立ったことがなかった。誰に命じられた位置でもない。斬りかかる者がいれば殿下より先に私の肩に当たる、その場所に勝手に立ち続けてきた。

 斜面を下りながら、背中のその場所だけが、風の通り道のように冷えていた。

 近衛の壁から、術が放たれた。

 近衛の騎士たちは、剣も術も使う。十人ほどが一斉に、光の刃を、礫を、炎を、女へ撃ち込んだ。

 女は、足を止めずに、片手を振った。

 光が、女の手の周りに集まった。放たれた。また集まった。また放たれた。

 息をつく間もなかった。

 一つ撃つたびに、次の光がもう集まっている。女の周りに、赤い結晶の槍が、雨のように生まれては飛んでいく。十、二十、三十。

 近衛の術は、一つ残らず撃ち落とされた。撃ち落とされなかった女の槍が、近衛の盾に、鎧に、突き刺さった。

 あれだけ撃てば、ヴァンパイアなら、とうに腕が結晶になっている。

 女の瑠璃色の髪は、毛先の一本まで、艶やかなままだった。

 侯爵の真っ白な髪の毛先が、燭台の火の中で瞬いていたのを、私は思い出した。

 大結晶使いと呼ばれる人ですら、生涯をかけて、少しずつ結晶に削られていく。

 あの女は、何も削られていなかった。

 女は、近衛の壁の手前で、方向を変えた。

 私のほうへ。

 迷いもなく。

 私は、目を閉じた。

 開けた。

 世界が、二重になった。

 女が、そこにいる。

 その少し前に、透けた女がいる。大槌を振りかぶっている。透けた軌跡が、私の頭の上へ落ちてくる。

 私は、半歩ずれた。

 本物の大槌が、私の横の地面を叩き割った。

 土が、噴き上がった。

 女が、目を丸くした。

「お」

 さらに足を引いて身をかがめる。

 露出の多い鎧だ。隙間を狙うのは簡単に見えた。

 大槌を振り下ろした直後の女の脇腹へ剣を滑らせる。

 影が見える。

 女の身体が、大槌を手放し、後ろへ跳ぶ軌跡。

 見えたがこの姿勢では対処に限界がある。

 右手を離して左手一本で切っ先を伸ばす。

 銀線が瞬く。

 女は、槍一本ぶんほど後ろに着地していた。

 手放した大槌が、地面に突き刺さったまま、柄を揺らしていた。

「……へえ」

 女は、自分の脇腹を見下ろした。

 革の軽装が、一筋、裂けていた。

 その下の肌には、傷一つなかった。

「今の、見えてたろ。オレが槌を振る前に、もう避けてた」

 女は、顔を上げた。

 金色の瞳が、焚き火の中で爆ぜる火の粉のように、輝いていた。

「面白えな、お前」

 女が、左手の盾に、右手を突っ込んだ。

 不思議な光景だった。文字通り盾に手を突っ込んだのだ。

 ぬるりと小盾から引き抜かれたのは、長い槍だった。

 呆気にとられたのは束の間、女の姿が消えた。

 影は見えた。

 透けた槍の穂先が、私の喉へ。

 首を傾ける。

 本物の穂先が首の横を通り過ぎた。風圧で、髪が数本、宙に舞った。

 次の影。

 穂先が引かれ、石突きが私の脇腹へ。

 身体を捻る。

 次。

 槍が消えた。いつの間にか女の手には双つの短剣が握られていた。

 両肩を狙った牙突が左右同時に放たれる。

 半身になると影の隙間に身体を滑り込ませる。

 次。

 短剣が消えた。長柄の斧。

 次。

 斧が消えた。鎖のついた鉄球。

 次。次。次。

 影は、見えていた。

 一つ残らず、見えていた。

 けれど、影が見えてから本物が来るまでの間が、どんどん短くなっていく。

 エドガーのときは、影を見てから、ゆっくりと歩けるほどの間があった。

 薔薇の旗の男のときは、踏み込むだけの間があった。

 今は、ない。

 影が見えた瞬間に、もう、本物がそこにある。

 女の身体は、読めなかった。

 私は、ずっと、人の身体を読んで戦ってきた。重心の置き方。肩の力み。足の指の向き。道場で、祖父に叩き込まれた。どんな相手でも、動く前には、必ず身体のどこかが教えてくれる。

 でもそれは得物が決まっているからだ。得物が決まっていれば自ずと攻撃の方法も防御も定まってくる。その中の最適解を考えれば、少しの予備動作から動きを予想するのは難しくない。

 しかし彼女に得物は決まっていない。

 そう動けるから、動いているだけだった。

 それに合う獲物が選ばれているだけだ。

 やりづらい。そう思った。

 それでも、私は、躱し続けた。

 躱しながら、誘った。

 わざと、右の肩を開けた。

 女の影が、その隙に吸い寄せられる。

 開けた肩の、半寸先へ。

 すーっと左足を軸に右脚を引くと同時に剣を引き下ろす。

 私のいた場所がぽっかり空いて女の手が空を裂く。

 引き下ろす刃の先には女の手首。

 手応えがあった。

 しかし浅い。

 刃筋が皮一枚を切り裂き、女の手首に細い赤い線が走る。

 引ききった力を逃がすように、左足を軸にくるりと回転しながら一足分距離を取る。

 女が、動きを止めた。

 自分の手首を、見下ろした。

 赤い線から、血が一滴、盛り上がって、草の上に落ちた。

 女は、長いこと、その一滴を見ていた。

 それから、ゆっくりと、顔を上げた。

 笑っていなかった。

 さっきまでの、楽しそうな笑みが、消えていた。

「……今の」

 女の声が、低くなっていた。

「今の、誘いだよな。わざと隙を見せて、オレに打たせた」

 私は、答えなかった。

 女は、私の顔を、穴が開くほど見つめていた。

「その誘い方」

 女は、言った。

「当たらねえのに、ずっとこっちを見てて。隙を見せたかと思えば、それが罠で。腹の立つ顔で、こっちの手の内を全部見透かしたみたいに」

 女の手が、震えていた。

 怒りではなかった。

 もっと別の、熱いものだった。

「九十年前にも、いたんだよ。お前みたいなのが」

 私は、息を止めた。

「黒い髪の。槍一本で、オレの術を片っ端から散らしやがった。最後まで、一発もまともに当たらなかった。オレを散々おちょくって、腹の立つ顔で笑いやがって」

 女は、口の端を吊り上げた。

 また、笑っていた。

 さっきよりも、ずっと獰猛に。

 獰猛で恐ろしいのに、なぜか美しいと思った。

「お前、あいつと同じ匂いがする」

 九十年前の、黒髪の勇者。

 冬至の祭りの夜、人混みの向こうへ消えた、フードの背中。肩の力の抜けすぎた、あの歩き方。

 腹の立つ顔で笑う、と女は言った。

 何となく彼に重ねてしまった。笑う前に、鼻から短く息が抜ける。右の口の端だけが先に上がって、左が追いつく頃にはもう次の悪ふざけを思いついている。叱られると、目を逸らして耳の後ろを掻く。

 女が言っていないところまで、頭の中で勝手に埋まっていった。埋めるのを止められなかった。

 九十年も前の話だ、と、あのとき自分に言い聞かせた。三年前に消えた人のはずがない、と。

 今も、そう思った。

 思おうとした。

 その一瞬の迷いが、影を見る目を、曇らせた。

 女の影が、見えなかった。

 いや、見えた。確かに目はその姿を追っていた。

 けれど、遅かった。

 女の手に、いつの間にか、一振りの大剣が握られていた。女の身の丈を超える、分厚い鉄の塊のような剣だった。それを何の小細工もなく横薙ぎにする。

 その剣が、真横から、私の胴へ迫っていた。

 躱す場所が、なかった。

 影の軌跡が、私の周りのすべてを塞いでいた。

 受けるしか、なかった。

 私は、剣を立てた。

 剣と剣を、打ち合わせないこと。

 祖父の声が、頭の奥で聞こえた。

 お前は、女だ。子供だ。力がない。正面から受ければ、剣ごと折られる。

 分かっていた。

 それでも、受けるしかなかった。

 鉄の塊が、私の剣にぶつかった。

 腕が、肩が、背骨が、軋んだ。足が、地面から浮いた。

 私の身体は、剣ごと、横に吹き飛ばされた。

 草の上を、何度も転がった。

 止まったとき、口の中に、鉄の味が広がっていた。

 左の脇腹が、焼けるように痛んだ。息を吸うたびに、何かが軋む。

 それでも、剣は、まだ手の中にあった。

 私は、剣を支えに、立ち上がろうとした。

 女が、目の前にいた。

 大剣は、もう手になかった。

 女は、私の剣の刀身を、左手で掴んでいた。

 素手で。

 刃が、女の掌に食い込んでいた。血が、刀身を伝って、私の手元まで流れてきた。

 女は、それを気にも留めていなかった。

「いい剣だな」

 女は、言った。

 私の剣は、近衛に上がったときに、殿下から下賜されたものだった。ヴァルムハイムのドワーフが打った、細身の長剣。刀身に、流れるような波の紋が浮いている。騎士団の支給品よりも、ずっと手に馴染んだ。

「持ち主の癖が、ちゃんと染みてる。力で打ち合うための剣じゃねえ。……受け流すための剣だ」

 女の左腕の、小さな黒い盾が、私の剣の刀身に触れた。

 刀身が、盾の表面の星空の中に、沈んでいった。

 水に沈むように。

 音もなく。

 私の手の中で、柄が、ふっと軽くなった。

 次の瞬間には、柄ごと、剣が消えていた。

 私の手の中には、何もなかった。

「もらっとく」

 女は、言った。

 私は、空になった手を見ていた。

 それから、女を見上げた。

 女は、私を見下ろしていた。

 金色の瞳が、笑っていた。

「今のお前じゃ、まだ足りねえ」

 女は、言った。

「あいつは、もっと腹が立った。もっと、どうしようもなかった。……お前も、そのうち、そうなるかもな」

 女は、しゃがみ込んで、私と目の高さを合わせた。

「だから、今日は殺さねえ。剣は預かっといてやる。次に会うとき、返してほしけりゃ、取りに来い」

 女の掌から流れた血が、私の頬に一滴、落ちた。

 冷たい血だった。

「その剣で、相手してやるよ」

「カリンさん!」

 フィンの声がした。

 丘の斜面を、フィンが駆け下りてくるのが見えた。

 左手を、女に向けて突き出していた。

 掌に、青白い炎が宿っていた。

「離れろ!」

 蒼い炎が、放たれた。

 まっすぐに、女の背中へ。

 女は、振り向きもしなかった。

 背を向けたまま、右手を肩越しに後ろへ伸ばした。

 蒼い炎が、その掌に、ぶつかった。

 炎は、女の掌の中で、握り潰されるように消えた。

 女の掌から、細い煙が一筋、立ち上った。

 女は、立ち上がって、振り返った。

 自分の掌を見た。

 皮膚が、わずかに焦げていた。

「……へえ」

 女は、フィンを見た。

「坊主も、いい火だ。芯がある。誰に習った」

 フィンは、答えなかった。

 答えられなかったのだろう。左手を突き出したまま、肩で息をしていた。

 女は、フィンの顔を、しばらく見ていた。

 それから、その後ろに目をやった。

 丘の上から、近衛の騎士たちが駆け下りてきていた。その先頭に、白い馬に乗った殿下がいた。腰の細剣を、抜き放っていた。

 女の目が、その細剣の上で、止まった。

「……サルヴィナの剣か」

 女は、呟いた。

「懐かしいもん持ってきやがったな」

 女は、殿下の顔を見た。

 それから、興味をなくしたように、目を逸らした。

「あれは、持ってるやつが違うと、ただの剣だ」

 女は、盾を括りつけた左腕を、軽く振った。

 それから、私を見下ろした。

「またな、黒髪」

 女は、踵を返した。

 来たときと同じように、散歩でもするように、草の海の中を歩いて、北西の森へ帰っていった。

 誰も、その背中を追わなかった。

 追えなかった。

 女の背中が森の縁に届いたとき、そこで待っていた黒い群れが、一斉に動き出した。

 旗が、揃って前へ倒された。

 ばらばらではなかった。一つの獣のように、草の海を渡ってくる。あの女が歩いた道を、なぞるように。

 崩れたドワーフの隊列に、その群れがなだれ込んでいくのが見えた。

 誰かが、退け、と叫んでいた。殿下の声だったのかもしれない。

 私は、立ち上がろうとした。

 脇腹が、軋んだ。

 視界の端が、暗く滲んだ。

 最後に見たのは、私を抱え上げるフィンの顎の線と、その向こうで、川のほうへ下がっていく味方の旗だった。

 その日、こちらの陣は、川の向こうまで下がった。

 ふた月かけて守った丘を、半日で失った。

            ◇

 目を覚ますと、天幕の中だった。

 救護の天幕だった。布の天井が、ランタンの灯りで、橙色に染まっている。

 歌が、聞こえていた。

 すぐ近くで。

 私の枕元で。

 顔を動かすと、リエルがいた。

 私の胸の上に、両手を置いていた。見えない目を閉じて、細く、澄んだ声で、歌っていた。

 リエルの掌から、淡い光が零れていた。光は、私の脇腹に染み込んで、軋んでいた骨を、ゆっくりと元の形に戻していく。

 私は、何も言わずに、その歌を聞いていた。

 歌が、終わった。

 リエルが、目を開けた。

「……カリン」

 声が、震えていた。

「起きていらっしゃるの?」

「起きている」

 リエルの顔が、くしゃりと歪んだ。

 それから、私の胸の上に、顔を伏せた。

「わたくし、カリンの傍を離れるなと、言われましたのに。わたくしのほうが、離れていましたわ」

 リエルの肩が、震えていた。

「カリンが運ばれてきたとき、息の音が、とても、とても小さくて」

「もう、大丈夫だ」

「大丈夫ではありませんわ」

 リエルは、顔を上げた。

 見えない目から、涙が零れていた。

「あばらが、三本も折れていましたのよ。わたくしが歌わなかったら」

 そこまで言って、リエルは、ふと言葉を切った。

 私の脇腹に、もう一度、そっと手を当てた。

 指先で、骨の形を確かめるように、なぞった。

「……おかしいですわ」

 リエルは、首を傾げた。

「もう、ほとんど繋がっておりますの。わたくし、まだ半分も歌っておりませんのに。ほかの兵の方々なら、三晩は歌い続けなければならない傷ですのに」

 私は、何も言わなかった。

 三日で消えた、エドガーの槍の傷。

 並んだ二つの数字。

 伸びない髪。

 ひとつずつなら、何でもないことだった。

「君の歌が、よく効いたのだろう」

 私は、言った。

 リエルは、しばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。

「そういうことにして差し上げますわ」

 リエルが付き人に連れられて出ていったあとで、フィンが天幕に入ってきた。

 フィンの顔は、泣き腫らしたように赤かった。

 泣いてはいなかった。たぶん、泣くのを堪えすぎたのだろう。

「……すみません」

 フィンは、枕元に膝をついて、言った。

「間に合いませんでした。僕の炎、あの人に、素手で握り潰されました」

「焦げていた」

「え?」

「あの女の掌が、焦げていた。君の炎は、届いていた」

 フィンは、目を瞬かせた。

 それから、唇を噛んで、うつむいた。

「……届いただけです」

「私の剣は、届きもしなかった」

 私は、天幕の天井を見上げた。

 布の天井に、ランタンの灯りが揺れていた。

 空になった手を、握って、開いた。

 手のひらに、柄の感触が、まだ残っていた。

「殿下からいただいた剣を、取られた」

「……はい」

「取りに来い、と言われた」

 フィンが、顔を上げた。

「その剣で相手をしてやる、と」

 私は、手のひらを握った。

 あの女の影は、見えていた。

 見えていて、届かなかった。

 見えることと、届くことは、違う。

 そんな当たり前のことを、私は、この世界に来て初めて、身体で知った。

「フィン」

「はい」

「負けた」

 フィンは、何も言わなかった。

 ただ、私の枕元に膝をついたまま、動かなかった。

 天幕の外で、夜風が、草の海を渡っていく音がしていた。

            ◇

 翌日、殿下が救護の天幕を訪れた。

 私は、もう起き上がれるようになっていた。救護の兵が、信じられないという顔で、私の脇腹を何度も検めていた。

 殿下は、寝台の脇に立って、私の肩のあたりを見ていた。

「剣を、失ったそうだな」

「申し訳ありません」

「謝るな」

 殿下は、言った。

「あの女と刃を交えて、生きて戻った者は、九十年前にも、ほとんどおらぬ。……剣は、代わりを用意させる」

 殿下は、しばらく黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。

「あの女は、そなたを、あの勇者と同じ匂いがすると言ったそうだな」

 私は、顔を上げた。

 殿下は、やはり、私の顔を見ていなかった。

 けれど、その目は、何か遠いものを見ていた。

「九十年前の、黒髪の勇者」

 殿下は、呟いた。

「我は、あの男をよく知っている」

 殿下の声には、何の色もなかった。

 懐かしさも、憎しみも。

 ただ、平らだった。

「……よく似ている、とは、我は思わぬ」

 殿下は、そう言って、踵を返した。

 天幕の入口で、一度だけ、足を止めた。

「あの男は、最後に、この国を捨てた。……そなたは、捨てるな」

 それだけ言って、殿下は出ていった。

 私は、閉じた天幕の入口を、しばらく見ていた。

 この国を捨てた。

 九十年前の勇者が、この国を捨てた。

 そんな話は、どの昔話にも、なかった。

 捨てるな。

 入口の布が揺れやむまで、その一言を口の中で転がしていた。揺れがやんでからも転がしていた。丘の上で聞いた死ぬなと並べて、どちらがより低い声だったかを確かめるように何度も。

 ここにいろ、と言われたのと同じだと思った。この国に。殿下の右の後ろに。そう思うと脇腹の軋みが少し遠のいた。

 最後に聞いた声を擦り切れるまでなぞる癖は、あのアパートの台所でついたものだった。気づいて、私は寝台の上で膝を抱え直した。

 殿下と入れ違いに、地響きのような足音がした。

 天幕の入口の布が、乱暴に持ち上がった。

 頭に白い布を巻いた公爵が、身を屈めて入ってきた。

「おう、生きとったか、嬢ちゃん」

「公爵こそ」

「兜が凹んだだけだ。中身は、元から凹んどる」

 公爵は、布の上から自分の頭を叩いて、顔をしかめた。

 それから、寝台の脇にどかりと腰を下ろした。

「聞いたぞ。剣を、あの女に持っていかれたそうだな」

「はい」

「うちの職人が打った剣だ」

 公爵は、太い指で、髭をしごいた。

「あれを、あの女は、いい剣だと言ったそうだな」

「はい」

「……そうか」

 公爵は、しばらく黙っていた。

 それから、髭の中で、にやりと笑った。

「腹は立つが、褒められたのは悪い気がせんな」

 公爵は、立ち上がった。

 天幕の入口で、振り返った。

「嬢ちゃん。この戦が終わったら、一度、ヴァルムハイムに来い。お前の手に合う一振りを、俺が打ってやる。あの女が、盗む気も起きんくらいのをな」

「考えておきます」

「今度は、考えるだけで済ますなよ」

 公爵は、笑いながら出ていった。

 足音が、地響きのように遠ざかっていった。

 その夜、私は、陣の外れに一人で立っていた。

 腰が、軽かった。

 近衛に上がってから、一日も離したことのなかった重みが、そこになかった。

 振り返ると、陣の真ん中に立てた王家の旗の根もとで、小さな火がいくつも揺れていた。

 浅い素焼きの皿に油を張り、灯心を一本ずつ立てたものだった。兵たちが一人、また一人とやってきては、皿を置いて膝をつき、しばらくして去っていく。丘にいた頃には、一つもなかった。

「聖堂の灯明の代わりです」

 見張りの兵が、私の視線に気づいて言った。

「王都なら、戦のあいだは大聖堂の前に灯を上げて、兵の無事を頼むんです。ここには聖堂がないから、王家の旗に。旗の下には殿下がおられるし、殿下の腰にはサルヴィナ様の剣がありますから」

 丘を失った晩から、皿は増える一方なのだという。

 数えかけて、やめた。運び出せた者たちは川のこちら側で黄昏を待って送られたと、フィンに聞いていた。丘に残してきた者は、送られてもいない。

 灯の前で、誰も主神の名は口にしていなかった。

 持ってるやつが違うと、ただの剣だ。

 あの女の声が、耳の奥でした。膝をついている兵の背中に向かって、それを言う気にはなれなかった。油の焦げる匂いが、夜風に乗って薄く流れてきた。

 北西の森の上に、月が出ていた。

 森の向こうに、あの女がいる。

 私の剣を持って。

 取りに来い、と言った。

 次に会うときは、その剣で相手をしてやる、と。

 私は、空の手を、握りしめた。

 剣と剣を、打ち合わせないこと。

 祖父の教えを、私は、あの女の前で破った。破るしかなかった。躱す場所を、すべて塞がれたからだ。

 目を閉じて、あの女の動きを、一つずつ思い返した。

 影は、見えていた。見えてから、躱していた。

 あの女の手首に、浅い傷を一筋つけられたのは、左の肩を開けて誘ったときだけだった。

 あのときだけは、見てから動いたのではなかった。

 読んでいた。

 見えるようになってから、私は、読むことをやめていたのかもしれない。

 祖父に叩き込まれたのは、見ることではない。読むことだ。

 あの女は、考えて動いてはいなかった。そう動けるから、動いていた。

 ならば、あの身体に動けないようには、動かない。どれほど速くとも、次の一手が届く先は限られている。

 絞れるはずだった。

 肉眼で読むだけでは、間に合わない。影を見るだけでも、間に合わない。

 影が見せてくれる一手の、その次を読む。

 まだ、形にはならなかった。

 けれど、見えた道が一本もないときの答えは、たぶん、そのあたりにある。

 懐の奥で、あの結晶塊が、重く感じられた。

 月の光の下で、北西の森は、黒く静まり返っていた。


(第四章 了)

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。