第三章 緩衝地帯
戦闘描写が詰まらなかったので改稿しています
草の下に、骨があった。
陣を張った翌朝、天幕の杭を打ち直していた兵が、それを掘り当てた。黄ばんだ肋骨が一本。土に半ば溶けかけて、指で押すとぼろりと崩れた。
誰の骨かは、分からなかった。人族のものか、魔族のものか。
兵は、しばらく骨を見下ろしていた。それから、黙って土を被せ直し、少し離れたところに杭を打った。
「ここは、ずっと戦場だったそうです」
隣で、フィンが言った。
「五百年前の大戦のときも。九十年前のときも。緩衝地帯って、そういう意味なんですね。どっちの国にもならない土地」
私は、目の前に広がる野を見渡した。
ゆるやかな丘が、波のように幾重にも連なっている。背の低い草が一面を覆い、ところどころに、崩れた石垣の跡が顔を出していた。北西の地平に、黒い森の線が見える。その向こうが、フェリシアだ。
丘と丘の間を、浅い川が一本、蛇行していた。水は澄んでいて、川底の丸い石まで見えた。
風が吹くと、草の海が一斉に波打った。
きれいな土地だった。
その下に、何百年分の骨が埋まっている。
私は、フィンが杭を打つのを手伝った。
杭の先が、土の中で、何か硬いものに当たった。
引き抜くと、先端に、小さな石の欠片が刺さっていた。
半ば透き通った、淡い色の欠片だった。朝の光を受けて、ほんのわずかに、虹のような色を返した。
私は、それを指先でつまんで、しばらく見ていた。
それから、土に戻した。
懐の奥で、もう一つの欠片が、重く感じられた。
◇
陣を張って六日目の朝も、夜明けの鐘で陣が目を覚ました。
天幕と天幕の間で兵たちが東を向き、露を含んだ草に膝をついた。私は杭のそばに立ったまま、鐘の余韻が草の海に吸われていくのを聞いていた。王都の兵舎で三年見てきた朝と、そこまでは同じだった。
違ったのは、そのあとだった。
殿下が白い馬で陣の中を抜けていくと、膝を上げたばかりの兵たちが道の両側でもう一度頭を垂れた。蹄の音が近づくと顔を上げ、殿下の腰で揺れる藤色の鞘のほうへ額を向ける。鞘が前を過ぎるまで、誰も目を逸らさなかった。拝むというより、顔を見せているように見えた。
「女神様に、顔を覚えてもらうんです」
隣にいた若い兵が、少し照れたように言った。
「戦で死んでも、迷わずに見つけてもらえるように。うちの祖父さんも、九十年前の戦でこうしたって」
東を向いて膝をついていたときより、兵たちはずっと長く額を上げていた。
殿下は前を向いたまま、一度も振り返らなかった。女神は何も応えぬと言った人の背中に、朝の光がまっすぐ当たっていた。
帝国の軍勢が姿を見せたのは、その朝のうちだった。
北西の森の線から、黒い染みが滲み出してきた。
染みは、見る間に広がった。丘の稜線を越え、草の海を黒く塗り潰しながら、こちらへ流れてくる。
近づくにつれて、染みの中身が見えてきた。
兵だった。
大半は、徒歩の兵だった。粗末な革の鎧に、槍や斧を担いでいる。姿は人に近いが、どこか獣じみていた。尖った耳の者。毛深い腕の者。口元から牙を覗かせる者。瞳に色のない者。
下級魔族だ。
ヴァンパイアが、飼っていたあらゆる種族の女に産ませた子らの、そのまた子ら。母の血によって、姿も力もまるで違う。フェリシアで、何度も見た顔だった。
その黒い群れのあちこちに、色の違う点が散っていた。
馬に乗った者たちだった。
金色の髪。青白い肌。仕立てのいい黒い軍装。
ヴァンパイアだ。
一人一人が、自分の旗を掲げていた。蝙蝠。薔薇。牙。三日月。旗の数だけ、家があるのだろう。旗と旗の間は、ばらばらに離れていた。並んで進むというより、互いに先を争っているように見えた。
「統制が、ないな」
丘の上で、殿下が呟いた。
殿下は、白い馬の上から、帝国の軍勢を見下ろしていた。腰には、あの細剣が吊られている。私とフィンは、殿下の馬の両脇に控えていた。
「あれが、帝国の軍だ」
殿下は、言った。
「ヴァンパイアの一人一人が、己の手勢を率いて、勝手に戦う。誰が一番多く首を取るか。誰が一番大きな術を撃つか。奴らにとって、戦は狩りの品評会のようなものだ」
「それで、勝てるのですか」
私は、訊いた。
殿下は、少しだけ口の端を上げた。
「勝てる。奴らは、それで勝ってきた」
最初の術は、黒い群れの先頭から放たれた。
先頭を駆けていたヴァンパイアの一人が、馬上で片手を掲げた。
その手の周りに、光の粒が集まり始めた。
多かった。
フェリシアの館で、エドガーが槍を生んだときよりも、ずっと多い。光の粒は渦を巻き、膨れ上がり、ヴァンパイアの頭上に、赤く燃える巨大な塊を作った。
それが、放たれた。
赤い塊は、弧を描いて空を渡り、こちらの前衛の真ん中に落ちた。
地面が、揺れた。
土と草と、人が、宙に舞った。
遅れて、轟音が丘を越えてきた。
「……品がない」
殿下が、眉ひとつ動かさずに言った。
「あれだけ集めて、あれだけしか結べぬ。半分は、宙に散っておる」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
こちらの前衛の後ろに、深緑の長衣の列があった。宮廷の術師たちだ。
その列から、声が上がった。
低く、揃った声だった。一人の声ではない。数十人の声が、一つの旋律のように重なっている。詠唱だ。
術師たちの足もとの土に、光の線が走った。線は複雑に絡み合い、円を描き、円の中に紋様を描き、一瞬のうちに巨大な陣を形作った。
陣が、輝いた。
前衛の頭上に、薄い光の膜が広がった。
次に飛んできた赤い塊が、その膜にぶつかった。
膜は、揺れた。たわんだ。
けれど、破れなかった。
赤い塊は、膜の表面を滑るように逸れて、誰もいない草地に落ちた。
前衛から、歓声が上がった。
「エルフの術は、細工物だ」
殿下は、言った。
「集める力では、ヴァンパイアに遠く及ばぬ。だが、結ぶ力が違う。少ない晶素を、無駄なく、正しい形に結ぶ。……あれが、我らの祖が残したものだ」
殿下の声に、わずかに、誇りのようなものが混じっていた。
前衛同士が、ぶつかった。
下級魔族の群れが、こちらの前衛に雪崩れ込んだ。
前衛の中心に立っていたのは、ドワーフの重装兵たちだった。
背丈は、下級魔族の胸ほどしかない。けれど、銀の鎧に包まれた身体は、岩のように動かなかった。下級魔族の槍が、斧が、その鎧に叩きつけられる。火花が散る。それでも、ドワーフたちは一歩も退かなかった。
そして、斧槍を振るった。
一振りで、二人、三人が吹き飛んだ。
下級魔族の一人が、至近距離から術を放った。小さな光の礫が、ドワーフの銀の兜に当たって弾けた。ドワーフは、首を一振りして、何事もなかったように斧槍を振り下ろした。
ドワーフの武具の多くは、鈍い銀色をしていた。ミスリルという金属だと、騎士団の座学で聞いたことがある。どの金属よりも結晶術を通しにくく、生半可な術は表面で散らしてしまうのだという。
あれが、結晶術の才に乏しい種族の戦い方なのだろう。
術で勝てないなら、術を浴びても倒れない身体で戦う。
野太い声が、前衛の中から響いた。
「押せ押せぇ! 小僧どもに、ヴァルムハイムの銀を食わせてやれ!」
あの公爵の声だった。
赤茶色の髭が、兜の下から覗いていた。公爵自らが、前衛のど真ん中で斧槍を振るっていた。
◇
戦が動いたのは、昼を過ぎた頃だった。
前衛の右手の丘で、光が爆ぜた。
ヴァンパイアが三人、手勢を率いて、こちらの右翼を回り込んできていた。ドワーフの隊列の端を、赤い術がまとめて吹き飛ばしていく。
右翼が崩れた。
崩れた穴に、黒い群れが流れ込んでくる。その先に、殿下のいる丘があった。
「来るか」
殿下は、細剣の柄に手をかけた。
それから、私とフィンを見た。
いや、私の肩のあたりを見た。
「近衛。右翼の穴を塞ぐ。ついて来い」
殿下が、馬の腹を蹴った。
近衛騎士たちが、一斉に続いた。
私も、フィンも、馬を駆った。
丘を駆け下りた先で、ヴァンパイアの一人と向き合った。
若い男だった。見た目は、二十歳そこそこ。金色の髪を後ろで結び、薔薇の紋章の旗を背負っていた。馬を降り、自分の手勢の先頭に立って、剣を抜いている。
男は、私を見て、笑った。
「黒髪」
男は、言った。
「聞いているぞ。エドガーを討った、黒髪の女騎士。お前か」
私は、答えなかった。
「エドガーは、我が家とは犬猿の仲でね。死んでくれて清々したが、人族の女に討たれたとあっては、ヴァンパイアの名折れだ。……お前の首を持ち帰れば、水の都で、さぞ持て囃されるだろう」
男の手に、光が集まり始めた。
私は、目を閉じた。
それから、開けた。
世界が、二重になった。
男が、そこに立っている。
その少し前に、透けた男がいる。片手を突き出している。その手から、透けた軌跡が伸びている。赤い刃の群れ。扇のように広がって、私の胸と、首と、膝を狙っている。
軌跡と軌跡の間に、細い道があった。
軌跡を追って本物の男が、手を突き出される。
私は、もう、その延長線の上にいた。
男が笑みを浮かべるのが見えた。
赤い刃が放たれた。
私は右脚を引き、半身になる。
刃と刃の隙間を、身体が抜けた。
男の笑みが、凍りついた。
半身になった身体を、引いた右脚で押し出す。
一投足で間合いを詰め、下段の切っ先が喉元へ跳ね上がった。
嫌な影が見えた。
男の剣が、私の剣を払う軌跡。
間違いなく打ち負ける軌跡だった。
稽古で覚えた身体が自然と剣を引く。
男の剣が、空を切った。
空を切った剣の内側に、男の喉がくる。
私の切っ先が吸い込まれる。
男が、膝をついた。
喉を押さえた指の間から、赤いものが溢れていた。
何か言おうとしていた。
言葉には、ならなかった。
薔薇の旗が、男の背から滑り落ちて、草の上に広がった。
男の手勢の下級魔族たちが、足を止めていた。
主の倒れた姿を、呆然と見ていた。
それから、一人が、悲鳴を上げて逃げ出した。
一人が逃げると、残りも続いた。
◇
二人目は、牙の紋章の旗の、中年の女だった。
女は、私を見るなり、距離を取った。賢い、と思った。近づけば斬られると、一目で分かったのだろう。ただ彼女の顔に怯えの色があったのは間違いない。
だからだろう。女は、遠くから術を撃ち続けた。
一つ、二つ、三つ。
特に剣を構える必要も感じなかった。
歩みを揺らして軌道から外れれば事足りる。
四つ、五つ、六つ。
女の顔が引きつり、怯えの色が濃くなる。
逃げればいいのにと、他人事のように思った。
七つ目を撃とうとして、女は、さっきよりも多くの光を集めた。いや集めすぎていた。
光の粒が、女の手のまわりで渦を巻き、膨れ上がり、女の腕を這い上がっていく。
事実として結晶化という現象は知っていても目の当たりにしたのは初めてだった。
すーっと色が抜けたかと思うと
毛先がパキパキと音を立てながら砕けた。
そして指先も同様に色が抜ける。
白く、硬く、透き通っていく。
指から手首へ。手首から肘へ。
影の中の女は、術を放たなかった。
放つ前に、腕が、結晶になっていた。
女が、自分の手を見た。
悲鳴が上がった。
女は、残った手で、結晶になった腕を掻きむしった。
爪が、結晶の表面で滑った。
私は、そこで目を逸らした。
最後まで、見なかった。
見なくても、影が、もう教えてくれていた。
◇
右翼の穴は、塞がった。
殿下の近衛と、立て直したドワーフの隊列が、流れ込んだ黒い群れを押し返していた。
殿下は、馬上で細剣を振るっていた。
巧かった。
術と剣を、一つの流れの中で使い分けている。左手で光の盾を張り、敵の術を受け止め、その陰から細剣で突く。細剣は、何度下級魔族の鎧を貫いても、刃こぼれ一つしていなかった。
女神は応えぬ、と殿下は言った。
それでも、あれは、ただの剣ではなかった。
◇
フィンは、私から少し離れたところで戦っていた。
剣が、炎を纏っていた。
フェリシアの館で、初めて見たときよりも、炎は太く、明るくなっている。フィンは、その炎の剣で、下級魔族の槍を焼き切り、斧を弾いていた。
けれど、三人目のヴァンパイアが、フィンの前に立った。
三日月の紋章の旗の、痩せた男だった。
男は、フィンの炎を見て、鼻で笑った。
「その程度か、坊や」
男の手から、赤い結晶の壁が迫り出した。フィンの炎の剣が、その壁に叩きつけられる。
炎が、散った。
壁は、びくともしなかった。
フィンの身体が、衝撃で弾き飛ばされた。
嫌な影が見えた。
背筋が冷たくなり私は、そちらへ駆ける。
男が、倒れたフィンに向けて、結晶の槍を放つ軌跡。
間に合わない。
そう思った瞬間、フィンが、倒れたまま左手を突き出した。
青白く爆ぜる炎が、その掌に宿った。
それが、弾かれたように放たれ、男の槍の穂先を叩いた。
槍が、わずかに逸れた。
フィンの頬を掠めて、地面に突き刺さった。
わずかだった。
けれど、私には、それで十分だった。
私は、男の背後に回り込んでいた。
男の首が落ちたあと、フィンは、しばらく地面に座り込んでいた。
頬の傷から、血が一筋、流れていた。
「……すみません」
フィンは、言った。
「僕の炎、全然、効きませんでした」
「最後のは、効いた」
「最後のは、たまたまです」
フィンは、自分の手を見下ろしていた。
「剣を取るには間に合わない。だから手から直接撃とうと思ったんです。弾かれないようにうんと固く結んで。王都の空き地で、あの槍の人に言われたんです。簡単な術でも固く結べば、やわな大規模術式より強力だって」
フィンは、左の掌を開いたり閉じたりしていた。
「でも、あんな色の炎、今まで一度も出したことないです。どうやって出したのか、自分でも分からない」
フィンは、悔しそうに唇を噛んだ。
私は、手を差し出した。
フィンは、その手を取って、立ち上がった。
立ち上がったフィンの背は、やはり、私より高かった。
◇
その日の戦は、夕暮れ前に終わった。
帝国の軍勢は、北西の森へ退いていった。退くときも、ばらばらだった。旗と旗が、それぞれの方向へ散っていく。追う必要はない、と殿下は言った。
勝った、と兵たちは言った。
陣のあちこちで、歓声が上がっていた。
私は、歓声の中を歩いた。
誰かが、私の肩を叩いた。知らない騎士だった。
「黒髪の! 見てたぞ! ヴァンパイアを、二人も!」
別の兵が、私の名を呼んだ。
また別の兵が、私に向かって、拳を掲げた。
私は、頷いて、通り過ぎた。
喉を押さえた若い男の指の間から、溢れていたもの。
結晶になっていく腕を、掻きむしっていた女の爪。
それらは、歓声の中でも、消えなかった。
それでも、剣を握っていた手は、震えていなかった。
あの地下室を、見たからだろう。
近衛の天幕に戻る途中で、救護の天幕の前を通った。
天幕の中から、歌が聞こえていた。
細く、澄んだ声だった。言葉は分からない。古い言葉なのだろう。けれど、その旋律は、フェリシアの館の地下で聞いたものと、同じだった。
天幕の入口から、中を覗いた。
地面に敷かれた布の上に、傷ついた兵たちが並んでいた。その真ん中に、白い衣の小さな人影が立っていた。
リエルだった。
両手を胸の前で組み、見えない目を閉じて、歌っていた。
リエルの身体から、淡い光が零れていた。光は、天幕の中に満ちて、兵たちの傷の上に降り積もっていく。裂けた肉が、閉じていく。折れた骨が、元の形に戻っていく。
兵たちは、泣いていた。
痛みが消えていく安堵で。あるいは、その光の美しさに。
寝かされたまま胸の上で両手を重ねている者がいた。声は出ていなかった。唇の形だけが、サルヴィナ様、と動いた。その次に、殿下、と動いた。
天幕のどこを見ても、主神の名をなぞる唇はなかった。
リエルの顔は、動かなかった。
人形のように整った顔で、ただ、歌っていた。
私は、入口に立ったまま、その歌が終わるのを待った。
歌が終わった。
リエルが、目を開けた。
それから、ふっと、入口のほうに顔を向けた。
「カリン?」
見えないはずの目が、まっすぐに私を捉えていた。
「足音で、分かりましたわ」
リエルの顔が、ぱっと明るくなった。
いつもの、弾むような笑顔だった。
「今日は、たくさんお喋りできますかしら。わたくし、四つ目の願いを、叶えていただかないといけませんもの」
付き人たちが、天幕の奥から、咎めるような目で私を見ていた。
私は、リエルに歩み寄った。
「少しだけなら」
「少しだけでも、嬉しいですわ」
リエルは、私の手を探り当てて、握った。
その手は、冷たかった。
歌い終えたばかりの手は、いつも、ひどく冷たかった。
◇
侯爵が近衛の天幕を訪れたのは、その晩のことだった。
私とフィンは、天幕の前で焚き火を囲んでいた。フィンは上衣を脱いで、頬と腕の傷を洗っていた。傷はリエルの歌でほとんど塞がっていたが、乾いた血がこびりついていた。
足音がして、顔を上げると、侯爵が立っていた。
深緑の長衣の術師を二人、後ろに従えていた。あの金錦の旗は、持っていなかった。
フィンが、慌てて立ち上がった。
「こ、侯爵様」
「よい。座っておれ」
侯爵は、焚き火の向こうに立ったまま、フィンを見下ろした。
「今日、右翼の丘で、蒼い炎を撃った若い騎士がいたと聞いた。そなたか」
「……はい」
「見せてみよ」
フィンは、戸惑ったように私を見た。
私は、何も言わなかった。
フィンは、左手を前に差し出した。
目を閉じた。掌の上に、光の粒が集まり始める。集まった光が、渦を巻き、炎になった。
赤い炎だった。
揺らぎながら、掌の上で頭ほどにも膨らんでいる。
「昼間の色を出してみよ」
フィンは、眉を寄せた。
炎が、揺らいだ。芯のあたりがわずかに青みを帯びかけて、すぐにまた赤く膨らんだ。
何度やっても、同じだった。
侯爵は、黙ってそれを見ていた。
やがて、言った。
「もうよい」
フィンが、炎を消した。肩で息をしていた。
「放つ力は、悪くない」
侯爵は、言った。
「むしろ、良い。ヒューマンにしては、驚くほどだ。量もとてもヒューマンのそれとは思えん。……だが、結びが雑だ。集めたものを、形にせぬまま、力任せに放っておる。あれでは、晶素の半分を宙に捨てているようなものだ」
昼間、殿下が帝国のヴァンパイアに言ったのと、同じ言葉だった。
「昼間の蒼炎は、死にかけて、たまたま結べたにすぎん。たまたまでは、次は死ぬ」
フィンの顔が、赤くなった。
それから、ゆっくりと、うつむいた。
侯爵は、焚き火の縁を回って、フィンのほうへ歩いてきた。
フィンの前で、足を止めた。
そのとき、侯爵の目が、フィンの胸元に落ちた。
上衣を脱いだフィンの首から、鎖が一筋、下がっていた。その先で、くすんだ銀の円盤が、焚き火の光を受けて揺れていた。
止まり木の、梟。
侯爵は、それを見ていた。
シルフェリオの回廊でも、侯爵は、同じものを見ていた。あのときは、一息ほどの間だった。
今は、もっと長かった。
「……騎士よ」
侯爵の声が、わずかに低くなった。
「生まれは、どこだ」
「え?」
「生まれ育った土地だ」
「あ、はい。南の、レーンベルという村です。森の中の、小さな村で」
フィンは、少しだけ言い淀んだ。
「……もう、ありませんけど。四年前に、盗賊に焼かれて」
侯爵は、答えなかった。
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
侯爵は、フィンの胸元のペンダントから、ゆっくりと目を上げた。
フィンの顔を見た。
白に近い金の髪。緑の目。
侯爵の緑の目と、同じ色の目だった。
侯爵は、長いこと、フィンの顔を見ていた。
まるで、そこに、誰か別の人の面影を探しているように。
それから、目を逸らした。
夜空を見上げた。
世界樹の枝葉が遠いこの野では、星がよく見えた。
「レーンベル、か」
侯爵は、呟いた。
それだけだった。
「明日から、夜に一刻、わしの天幕に来い」
侯爵は、夜空を見上げたまま言った。
フィンが、目を丸くした。
「え……?」
「結び方を教えてやる。あのような無様な術を、王家の近衛が振るうなど、見ておれん」
侯爵は、それだけ言うと、踵を返した。
外套の裾が翻って、その下に、短剣の柄が一瞬だけ覗いた。柄頭に彫られた銀の梟が、焚き火を映して、ちかりと光った。
止まり木に止まった、梟だった。
フィンの胸で揺れている、バルトの形見と、同じ形に見えた。
梟の紋など、この国にはいくらでもあるのかもしれない。そう思おうとしたが、うまくいかなかった。
後ろの術師たちが、顔を見合わせていた。
侯爵の背中が、焚き火の光の届かない闇の中へ、消えていった。
フィンは、しばらく立ち尽くしていた。
それから、ゆっくりと、私のほうを振り返った。
頬が、紅潮していた。
「カリンさん。今の、聞きました? 侯爵様が、僕に。大結晶使いの、侯爵様が」
「聞いた」
「どうしよう。僕、何を持っていけばいいんでしょう。帳面? 筆? 手土産とか、いるんでしょうか」
フィンは、子供のようにはしゃいでいた。
私は、焚き火を見つめていた。
侯爵が、フィンのペンダントを見ていたときの顔。
あれは、何だったのだろう。
あれは、罪を問われても揺れなかった人の顔ではなかった。
御前会議で、弟子を失った話をしていたときとも、違った。
もっと、柔らかいものだった。
私には、読めなかった。
ただ、行くな、とは言えなかった。
フィンの顔を見たら、言えなかった。
「手土産はいらない」
私は、言った。
「真面目に聞けばいい。君は、それが一番得意だろう」
フィンは、大きく頷いた。
◇
それから、ひと月が過ぎた。
帝国の軍勢は、何度も森から出てきた。
そのたびに、ばらばらに攻め寄せ、ばらばらに退いていった。こちらの前衛は、ドワーフの鋼と、エルフの陣で、それを受け止め続けた。
私は、殿下の傍らで戦った。
立つのは、いつも殿下の左の斜め後ろだった。細剣を振る右腕の邪魔にならず、光の盾の届かない背の側を塞げる位置だ。ある朝、若い近衛がそこに馬を入れていた。私は何も言わずに馬を寄せ、相手の馬の鼻先が退くまで動かなかった。誰に決められた持ち場でもなかった。
不寝番も、頼まれないうちに引き受けるようになった。三晩に一度が、二晩に一度になった。殿下の天幕の入口に立っていると、夜はただ黒いだけで、何も考えずに済んだ。
ヴァンパイアを、何人か斬った。
数えるのは、途中でやめた。
陣の兵たちは、私を「陽炎」と呼ぶようになった。揺らめくばかりで、どんな術も当たらないから、という意味らしい。
陣の飯は、ひどかった。
固く焼きしめた黒いパンと、塩漬けの干し肉。それを湯で戻しただけの、味のない汁。毎日、朝も晩も、それだった。
陣を張って三日で、私は口数が減った。
五日で、フィンが私に話しかけなくなった。
最初の戦から一日おいた夕方、私は川へ下りた。
浅瀬の石の陰に、銀色の魚が群れていた。剣の鞘で追い込み、手で掬った。十尾ほど獲れた。
陣に戻って腸を抜き、塩を振った。野で摘んだ香りの強い草を腹に詰めた。火を熾す前に塩をもうひとつまみ取って、焚き火を囲む石の縁に置いた。レーンベルで覚えた手つきは、もう考えるより先に指が動く。
焚き火の周りに串を立てた。
脂が落ちて、火がじゅっと鳴った。
私は串を返した。焦げかけた皮が串に貼りついて、少し破れた。
香ばしい匂いが、近衛の天幕の周りに広がった。
最初に寄ってきたのは、フィンだった。次に、近衛の騎士たちが。
最後に、地響きのような足音がした。
「おう、何だ、この匂いは」
赤茶色の髭が、焚き火の向こうから覗いていた。兜を脱いだ公爵だった。
私は、黙って串を一本差し出した。
公爵は、それを受け取り、髭ごと齧りついた。
しばらく、黙って噛んでいた。
それから、目を丸くした。
「……美味えな、おい」
公爵の目が、焚き火の石の縁に残った塩の粒に落ちた。
「イグナル様にも先に出したか。律儀なこった。どうりで火の通りがいい」
公爵は、二本目に手を伸ばした。
「嬢ちゃん、騎士なんぞやめて、うちの領で店を出さんか。ヴァルムハイムには、湯の湧く宿がいくらでもある。湯上がりにこいつを出したら、客が列を作るぞ」
「考えておきます」
私は、真顔で答えた。
公爵は、腹を抱えて笑った。
笑い声は、御前会議の間で聞いた、地の底から響くような声と同じだった。けれど、あのときとは、まるで違って聞こえた。
その晩から、近衛の焚き火には、時おり、髭の公爵が顔を出すようになった。
公爵が来る前に、私は一番形のいい一尾を脇へ除けておいた。
身をほぐして、小骨を一本ずつ指で抜いた。リエルの目では、骨は見えない。抜いた身を広い葉に載せ、冷めないうちに葉の四隅を折り込んで、草の茎で結んだ。
結び目を作ったところで、指が止まった。
角を折る順番も、結び目を左に寄せる癖も、日本の台所で毎朝弁当を包んでいた手つきと同じだった。茎をほどいて、結び直した。指は、また同じ形に結んだ。
私はそのまま包みを持って、神殿騎士の天幕まで歩いた。付き人に渡すだけで、リエルの顔は見られなかった。
それからも、川で魚が獲れた日には、そうした。
捕虜を見たのは、その頃だった。
戦のあと、逃げ遅れた下級魔族たちが、縄をかけられて陣の外れに集められていた。
その中に、少年がいた。
フィンより、いくつか年下に見えた。色のない瞳をしていた。口元から、小さな牙が覗いていた。
少年は、膝を抱えて、震えていた。
私は、水の入った革袋を、少年の前に置いた。
少年は、それを見て、私を見た。
それから、ひったくるように革袋を掴んで、喉を鳴らして飲んだ。
飲み終えると、革袋を両手で抱えたまま、小さな声で言った。
「……旦那様が、行けって」
誰に言うともなく。
「行かないと、母さんが、売られるって」
少年の手を見た。
剣の胼胝ではなかった。鍬の柄を握り続けた者の、平たく厚い胼胝だった。
「情けは要らんぞ、黒髪の」
通りがかった騎士が、私に言った。
「あれも魔族だ。放っておけば、いずれ牙を剥く」
私は、何も言わなかった。
立ち上がって、少年に背を向けた。
あの地下室を見た。
だから、これは正しい戦だ。
そう思いながら、歩いた。
背中で、少年が、革袋を抱えたまま、まだ震えている気配がしていた。
翌朝、捕虜たちは後方へ送られていった。
どこへ送られたのかは、知らない。
フィンは、毎晩、侯爵の天幕に通った。
その前の半刻は、私と剣を合わせるのが決まりになった。剣は私に、術は侯爵に。フィンが自分でそう決めた。
戻ってくるのは、いつも夜更けだった。疲れ切った顔で、けれど、目だけは光っていた。
「今日は、晶素の流れ方を教わりました。集めた光を、すぐに剣に乗せるんじゃなくて、一度、身体の中で一本の糸みたいに撚るんだそうです」
「糸」
「はい。侯爵様は、紡ぎ車みたいなものだって。太い綿のままじゃ、強い布は織れないって。それから、炎だけに頼るな、とも言われました。岩も、風も、雷も、撚り方が違うだけで、根っこは同じなんだそうです」
フィンは、焚き火の前で、自分の手のひらを見つめていた。
手のひらの上に、小さな炎が灯った。
炎は、以前よりもずっと小さかった。
けれど、揺らいでいなかった。
芯のあたりが、青く澄んでいた。
半月後の戦で、フィンは、ヴァンパイアを一人、自分の手で討った。
相手の結晶の壁を、左の掌から放った蒼い炎で、壁ごと撃ち抜いたのだという。
私は、その場を見ていなかった。殿下の傍らで、別のヴァンパイアと斬り結んでいた。
あとで、近衛の騎士たちが、口々にその話をしていた。
あの炎は、エルフの術師のようだった、と。
いや、あれは侯爵閣下の術の筋だ、と。
フィンは、その話を聞きながら、照れくさそうに頭を掻いていた。
私は、その横顔を見ていた。
村の森で、茂みの陰から私を見ていた少年が、そこにいた。
同時に、もう、どこにもいなかった。
その晩も、フィンは侯爵の天幕へ向かった。
天幕の入口の布が上がったとき、中の灯りが、一瞬だけ外に漏れた。
灯りの中で、侯爵が、フィンを迎えていた。
その顔は、御前会議の間で見たどの顔とも違っていた。
私は、見なかったことにした。
◇
戦場に来て、ふた月が過ぎた頃だった。
夜明け前、斥候が一騎、陣に駆け込んできた。
殿下の天幕の前で、斥候は馬から転げ落ちるように降りた。私は、その日の不寝番として、天幕の入口に立っていた。
「殿下に、急ぎのお知らせを」
斥候の顔は、土気色だった。
殿下が、天幕の中から出てきた。軍装の上着を、肩に引っかけただけの姿だった。
「申せ」
「森の向こうの帝国の陣に、新しい旗が入りました」
斥候は、息を切らしながら言った。
「黒地に、銀の星の旗です。それと……」
斥候は、一度、言葉を呑み込んだ。
「髪の長い女が、一人。陣の先頭で、馬にも乗らず、歩いておりました。背の高い、髪の……」
斥候は、そこで唾を飲み込んだ。
「瑠璃色の髪の、女でした」
殿下の顔から、表情が消えた。
肩に引っかけていた上着が、足もとに滑り落ちた。
殿下は、それを拾おうとしなかった。
北西の空を、見ていた。
森の向こうの空が、夜明けの色に、わずかに白み始めていた。
「……来たか」
殿下は、呟いた。
九十年前、フェリシアで我が軍を押し返した、あの女が。
御前会議の間で、殿下はそう言った。
私は、殿下の横顔を見た。
殿下の手が、腰の細剣の柄を、強く握りしめていた。
固まる前に、目を逸らす。書類を揃える。耳の先が赤くなる。
私が殿下の分類に書き込んだ、どの項目にも、当てはまらない顔だった。
私は、北西の空に目をやった。
夜明けの光が、森の線を、黒く縁取っていた。
その向こうに、何かがいた。
見えるはずもないのに。
影など、まだ、どこにもないのに。
背中の産毛が、ひとりでに逆立っていた。
(第三章 了)




