第二章 宣戦
その使者は、東から来た。
世界樹の枝に残っていた雪が、ようやく緩み始めた頃だった。木漏れ日の中を、溶けた雫がきらきらと降ってくる。王城の石畳は、朝のうちはいつも濡れていた。
その朝、私は殿下の供をして、謁見の間の扉の脇に立っていた。
近衛に上がって、半年が経つ。
仕事の大半は、立っていることだった。殿下の後ろに立ち、殿下の行く先の扉の脇に立ち、殿下が書類を読む間は執務室の隅に立つ。道場で朝から晩まで素振りをしていた頃に比べれば、楽なものだ。
楽だが、退屈ではなかった。
立っていると、人の動きがよく見える。誰がどちらの足に重心を乗せて話すのか。誰が嘘をつくときに指先を動かすのか。
客が退がったあとで、殿下は時おり、書類から目を上げずに訊いてくる。
「どう見た」
私は、見たとおりに答える。あの男は、話している間ずっと、右の踵が扉のほうを向いていた。早く帰りたかったのでしょう。あの女は、数字を口にするときだけ、瞬きが増えた。
殿下は、それを聞いて、満足そうに頷く。それから、手元の書類に何か書き足す。
次にその客が来たとき、殿下の応じ方は、前とは少しだけ違っている。
使われている、と思う。
悪い気はしなかった。
王城は、道場よりもずっと多くのことを教えてくれた。
扉が開き、使者が入ってきた。
灰色の長衣の男だった。白髪交じりの髪を短く刈り、指先にはインクの染みがこびりついている。胸元に、小さな徽章が縫い付けられていた。六本の塔が、横一列に並んだ意匠だ。
「セラディスの人ですね」
反対側の扉の脇から、フィンが小声で言った。
いつの間にか、フィンの声は低くなっていた。背も伸びて、並んで立つと、私が少し見上げる格好になる。村の森で会ったときは、目の高さが同じだったはずなのに。
「東の、塔の国か」
「はい。帝国とも王国とも国交があるのは、あそこだけですから。……だから、たぶん」
フィンは、そこで言葉を切った。
言わなくても、分かった。
使者は、玉座の前で膝をついた。老いた王の脇に、殿下が立っている。使者は、懐から黒い封書を取り出し、両手で捧げ持った。
封蝋には、翼を広げた竜が押されていた。
「エテルナ帝国皇帝より、ルンシア国王陛下への書状を、お預かりしております」
使者の声は、乾いていた。
「我が国は預かったものを、預かったままお届けするのみです。中身は存じません」
それだけ言って、使者は封書を侍従に渡した。
立ち上がり、一礼して、踵を返した。
扉の脇を通り過ぎるとき、使者は一度だけ、私の顔を見た。
黒い髪に、少しだけ目を留めたように見えた。
何も言わずに、使者は出ていった。
書状は、その場では開かれなかった。
殿下は封書を受け取ると、封蝋を指先でなぞった。それから、王と短く目を見交わした。
王は、何も言わなかった。
ただ、玉座の肘掛けを、指で一度だけ叩いた。
「御前会議を開く」
殿下が、侍従に告げた。
「西の侯爵を呼べ。公爵にも使いを。教会には、猊下の名代を寄越すよう伝えよ」
侍従たちが、慌ただしく散っていった。
殿下は、封書を手にしたまま、謁見の間を出た。私は、その半歩後ろについた。
回廊を歩きながら、殿下は一度も口を開かなかった。
けれど、封書を持つ指が、白くなるほど強く握られていた。
◇
夜の王城は、昼とはまるで違う顔をしていた。
世界樹の枝葉が月を隠すせいで、この都の夜は深い。回廊の燭台の灯りだけが、白い石の壁を橙色に染めている。窓の外は、墨を流したように黒かった。
御前会議の間は、王城の奥にあった。
細長い部屋だった。中央に、磨き込まれた樫の長卓が据えられている。壁には歴代の王の肖像が並び、その一番奥に、あの二枚のタペストリーの小さな写しが掛かっていた。細剣にすがる少女と、細剣を捧げ持つ若者。
長卓の上座に、王が座った。
その右に、殿下。
私は、殿下の椅子の斜め後ろに立った。フィンは、扉の内側で、剣の柄に手を添えて立っている。
席に着いた顔ぶれは、多くなかった。
殿下の向かいに、真っ白な髪の老人が座っていた。毛先が、燭台の火を受けて、細かく瞬いている。シルフェリオの回廊で会ったときと、同じ緑の目だった。
西の侯爵だ。冬の間は、宮廷の術師団を率いて王都に詰めているのだと聞いていた。
その隣に、樽のような男が座っていた。
背は、座っていても私の胸ほどしかないだろう。けれど、肩幅は大人二人分ほどもある。赤茶色の髭を胸まで伸ばし、太い三つ編みに編み込んでいた。卓の上に置かれた両手は、節くれ立って、あちこちに古い火傷の痕が白く残っている。
ドワーフだった。
背が低く、身体が岩のように分厚い。結晶術の才には乏しいが、その代わりに、どの種族よりも強い身体と、物を作る手を持つ。騎士団の座学で、そう教わった。ルンシアの東、火山の麓に領地を持ち、この国では公爵家として遇されている。
目の前の男が、その公爵なのだろう。王城で見かけるドワーフは多くない。
そして、長卓の末席に、白い法衣の老人がいた。
痩せた、背の曲がった老人だった。胸元に、細剣を象った銀の聖印を下げている。教会の、それも相当に高い位の聖職者だと、法衣の縁取りの金糸で分かった。
リエルを、「御方」と呼ぶ人たちの側の人だった。
王都の司祭の胸にあるのは、たいてい二本の槍を並べて立てた聖印だ。大聖堂で誓いを立てた日、節をつけて神話を語った白髪の司祭も、胸にそれを下げていた。この夜の老人が下げてきたのは、細剣のほうだった。
私は、その老人の手を見た。
指先が、ずっと、膝の上で数珠を繰っていた。
「読め」
王が、言った。
殿下が、封を切った。
黒い紙に、銀の墨で文字が書かれていた。殿下は、それを卓の上に広げ、低い声で読み上げ始めた。
「エテルナ帝国皇帝、レヴィン・エテルノスより、ルンシア国王、ジークハルト・アルセリア・ルンシアへ」
殿下の声は、平らだった。
「先頃、エドガー・メルヴェイン監察官の戯れが度を越したようだ。世にかわり誅してもらえたようで感謝している。さて、その査察官の館より以下のものが見つかった。ルンシア王国の侯爵、オズヴァルド・シルフェリオ・ルンシアの封蝋ある書簡、十七通。並びに、十余年にわたる取引の帳簿。それによれば、西の侯爵は、そちらの王国の臣民を対価にフェリシアを通じて帝国の民の亡骸を石ころとして買い集めているようだ」
公爵の髭が、ぴくりと動いた。
私は、侯爵の顔を見た。
侯爵は、目を閉じていた。
「人族は、五百年前と同じ罪を、今なお犯している。我が同胞の亡骸を切り刻み、燃料として燃やしている。帝国は、これを見過ごさぬ」
殿下は、そこで一度、息を継いだ。
「よって、ここに求める。三十日のうちに、西の侯爵の身柄を帝国へ引き渡せ。期日を過ぎてなお応じぬときは、エテルナ帝国は、ルンシア王国に宣戦を布告する。同胞の亡骸を辱めた罪を、兵をもって問う」
殿下は、書状を卓の上に置いた。
書簡の写しが、何枚か添えられていた。写しの隅に、封蝋の形が丁寧に描き写されている。
金糸を織り込んだ、旗の形だった。
最初に口を開いたのは、公爵だった。
「侯爵」
地の底から響くような声だった。
「今のは、真か」
侯爵は、目を開けた。
「聞こえておったよ、公爵」
「なら、答えろ。亡骸を買い集めていた、と書いてあった。魔族の骸を、切り刻んで売り買いしていたと。俺たちドワーフの領では、そんな取引は聞いたこともないぞ」
公爵の拳が、卓の上で固く握られていた。
「死んだ者の骨を、炉にくべる。それは、鍛冶の道に反する。いや、人の道に反する。相手が魔族であってもだ」
侯爵は、すぐには答えなかった。
公爵の拳を、しばらく見ていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
年の割に、がっしりとした身体だった。真っ白な髪の毛先が、燭台の火の中で、細かな光を散らしていた。
「陛下。殿下。そして公爵。一つだけ、申し上げたい」
王が、目で促した。
侯爵は、卓の上の黒い紙に、指先を置いた。
「これは、帝国が差し出した紙だ。見つかった場所は、フェリシアの、ヴァンパイアの館。あの国がどういう国かは、ここにおる皆が知っておろう。封蝋など、いくらでも彫れる。帳簿など、いくらでも書ける」
公爵が、何か言いかけた。
侯爵は、それを手のひらで制した。
「だが、わしはこれを、偽りだと言い張るつもりはない」
部屋が、しんとした。
「わしの領の膿は、わしが絞り出してきた。去年も、西海岸で一番の商家の当主を裁いた。奴隷の売り買いに手を染め、魔族と文を交わしていた男だ。その男を暴いたのは、そこにおる二人の近衛だ」
侯爵の緑の目が、殿下の肩越しに私を見た。
それから、扉の内側に立つフィンを見た。
「それでもまだ膿が残っておるというなら、それは、わしの目が曇っておったということだ。わしの不徳だ」
頭の中で、いくつもの言葉が浮かんだ。
約束いただいた主への献上品。
向こうの外務大臣とも、話はついておる。
獄中で倒れた、と侯爵は言った。持病があったらしい、と。
港で縄を引かれていくとき、アーロンは侯爵の顔を見上げて笑っていた。
シルフェリオの回廊では、一本の糸に繋がらなかった言葉たちだった。
今は、繋がっていた。
黒い紙の上に描き写された、金糸の旗の封蝋が、その糸だった。
私は、殿下の背中を見た。
殿下の左の手が、椅子の脇に置いた革の書類入れの上に、載っていた。
去年の夏、叙勲のあとの執務室で、殿下が預かると言った手紙の束。三日月を咥えた蛇の封蝋。あの手紙が、その中に入っているのかどうか、私は知らない。
けれど、殿下の指は、書類入れの留め金に触れていた。
触れたまま、動かなかった。
「疑惑もよい。疑義もよい」
侯爵は、言った。
「わしは、それから逃げるつもりはない。戦が終わったなら、この首、公爵の前にでも、帝国の前にでも、好きなところに差し出そう」
侯爵は、部屋の一人一人の顔を、順に見ていった。
王を。殿下を。公爵を。教会の老人を。
誰の目も、避けなかった。
誰の目にも、怯まなかった。
「しかしな」
侯爵は、黒い紙を、指先で軽く叩いた。
「すでに我らは、選択を突きつけられたのだ」
こつ、と乾いた音がした。
「三十日。奴らが我らに与えたのは、考えるための時ではない。膝を折るか、剣を取るか。それを選ぶための時だ」
侯爵の声は、低く、よく響いた。
「わし一人の首で済むと思うか。……この書状が求めておるのは、わしの首ではない。ルンシアの膝だ。一度折った膝は、二度とは伸びぬ。次は、王家のどなたかの首を寄越せと言うてくる。その次は、西の港を。その次は、この都を」
誰も、答えなかった。
「帝国は、同胞の亡骸を辱めた、と言う」
侯爵は、長卓に両手をついた。
「では、問おう。奴らがフェリシアで飼っている人族、あれは何だ」
部屋が、静まり返った。
「フェリシアの人族は、帝国の餌だ。家畜だ。子を産ませ、育て、血を搾る。飽きれば売る。死ねば捨てる。五百年、奴らはそうしてきた。そして今も、そうしている」
侯爵は、黒い紙に目を落とした。
「わしは、使節として帝都にも足を踏み入れたことがある。夜の宮殿は、美しかった。だが、その地下で何が飼われているかは、ここで口にするのも憚られる。フェリシアなど、あれに比べれば、まだ庭先よ。……そこにおる近衛の娘も、その庭先の一つを見たはずだ。査察官の館の、地下で」
私の喉が、ひとりでに鳴った。
冷たい石の床。
裸のまま、手足を縛られた、小さな身体。
虚ろに開いたままの目。
赤い髪紐。
侯爵の指先が、黒い紙の端を押さえていた。
その指が、わずかに震えていた。
「奴らは、強い。我らが生涯をかけて磨いた術を、奴らは生まれ持った身体ひとつで踏み越えてくる。故に我らには、対抗する術が要る」
震えは、すぐに止まった。
燭台の火を映した緑の目に、一瞬だけ、怒りとは違う色がよぎった気がした。
それが何なのか、私には読めなかった。
「わしは、三百年、戦場に立ってきた」
侯爵は、顔を上げた。
「その間に、弟子を何人も失った。魔族の術の前に立ち、それを押し返そうとして、限りを越えて術を撃ち、わしの目の前で、結晶になっていった。まだ若い者たちだった。……奴らは、我らの亡骸を燃料にしたと言って怒る。では、生きたまま血を啜られて死んだ我らの子らは、誰に怒ればよい。我らを守るために結晶となった、あの弟子たちは」
侯爵の緑の目に、燭台の火が映っていた。
その火は、揺れていなかった。
侯爵は、公爵のほうを向いた。
「公爵。そなたらの祖は、先の大戦で、勝てぬと知りながら、最後まで槌を置かなかったと聞く」
公爵の髭が、震えた。
侯爵は、教会の老人を見た。
「猊下の名代殿。救済の女神様は、なにゆえ、歌うことをやめて剣となられた」
老人の数珠が、止まった。
そして、侯爵は、王を見た。
「陛下。陛下の御身には、建国の勇者様の血が流れておられる」
王は、何も言わなかった。
ただ、侯爵を見返していた。
「魔族を、根絶やしにせねばならぬ」
侯爵は、言った。
「一匹残らずだ。祖の代から続くこの因縁を、我らの代で断つ。建国の勇者様が成し遂げられなかったことを、我らが成し遂げる。わしは老いた。だが、この老骨に残った最後の一滴まで術に変えて、奴らに叩きつけてくれよう。……二度と、我らの子らが餌にされぬように」
誰も、何も言わなかった。
公爵は、握っていた拳を、いつの間にか緩めていた。髭の中で、唇を噛んでいた。
教会の老人は、聖印に手を当てて、目を閉じていた。
殿下は、前を見ていた。
私は、自分の拳が固く握られていることに気づいた。
侯爵は、公爵の問いに、最後まで答えなかった。
書簡が偽りだとは、一度も言わなかった。真だとも、言わなかった。
侯爵は、罪を犯したのか。
会議が始まったとき、この部屋にあったのは、その問いだった。
今は、違う。
ルンシアは、膝を折るのか。
問いが、すり替わっていた。すり替えたのは、侯爵だ。
私には、それが分かっていた。
分かっていて、それでも、すり替えられた問いのほうが、ずっと重かった。
あの地下室を見た。
あれを見たあとで、あれを作った者たちに膝を折る言葉を、私は持っていなかった。
「エルデリック」
王が、口を開いた。
しわがれた、けれどよく通る声だった。
「そなたは、どう見る」
殿下は、少しだけ間を置いた。
「侯爵の申す通りかと」
殿下の声は、揺れていなかった。
「帝国の狙いは、侯爵の首ではございません。首を差し出したところで、奴らは次の口実を探すだけです。帝国の皇帝は、祖の跡を継いだ若輩と侮られております。国の内にも、従わぬ者がいると聞きます。あの書状は、我らに宛てたものであると同時に、己の臣下に宛てたものでもある。戦をせねば、あの皇帝は立ち行かぬのです」
「では、戦は避けられぬと」
「避けられませぬ」
殿下は、きっぱりと言った。
「そして、戦となれば、リッチが出てまいります。九十年前、フェリシアで我が軍を押し返した、あの女が」
部屋の空気が、重くなった。
「リッチの結晶術に抗しうるのは、侯爵の連奏結晶術のみ。侯爵を欠いて、この戦は戦えませぬ」
殿下の手は、書類入れの上に載ったままだった。
最後まで、それを開かなかった。
王は、しばらく殿下の横顔を見ていた。
それから、侯爵を見た。
鋭い目だった。叙勲の日、玉座の上から私を見下ろしていたのと同じ目だった。
侯爵は、その目を、真正面から受け止めていた。
「……侯爵の首は、戦の後で考えればよい」
王は、それだけ言った。
侯爵は、黙って深く頭を下げ、席に戻った。
「ルンシアは、受けて立つ」
王が、言った。
静かな声だった。
けれど、その一言で、部屋の空気が決まった。
「帝国の書状には、書状で返す。侯爵は渡さぬ、とな。期日までに兵を集め、西へ出す。前線の指揮はエルデリック、そなたが執れ。侯爵は術師団を率いて、これに付け。公爵」
「……はっ」
「ヴァルムハイムの鎧と槍を、ありったけ寄越せ。それと、そなたの領の重装兵を」
公爵は、しばらく黙っていた。
それから、太い息を一つ吐いた。
「バルドール・ヴァルムハイム、承りました。……だが陛下、この戦が終わったら、さっきの話は、改めて聞かせていただく」
「よかろう」
王は、短く頷いた。
それから、長卓の末席に目を向けた。
「教会は、どうする」
白い法衣の老人が、ゆっくりと立ち上がった。
数珠が、しゃらりと鳴った。
「猊下の御言葉を、お伝えいたします」
老人の声は、細く、よく通った。
「教会は、神殿騎士の全隊をもって、この聖戦に加わる。そして」
老人は、一度言葉を切った。
「救済の女神の踊り子を、前線に出す」
殿下の肩が、わずかに揺れた。
「……あれを、戦場に?」
「殿下」
老人は、穏やかに微笑んだ。
「踊り子は、そのためにおるのです」
私は、息を止めていた。
殿下の手が、書類入れの上から離れて、膝の上で握られた。
何か言うかと思った。
殿下は、何も言わなかった。
王が、頷いた。
「女神の加護を」
「女神の加護を」
老人が、胸の聖印に手を当てて、深く礼をした。
数珠の音が、しばらく、耳の奥に残っていた。
◇
会議が終わったのは、夜半だった。
殿下を私室まで送った。
回廊を歩く間、殿下はやはり何も言わなかった。革の書類入れを小脇に抱え、燭台の灯りの間を、規則正しい歩幅で進んでいく。
私室の扉の前で、殿下は足を止めた。
扉に手をかけたまま、振り返らずに言った。
「クルシマ・カリン」
「はい」
「侯爵が、そなたらを証人と呼んだ」
「はい」
「不服か」
私は、少しだけ考えた。
「アーロンを捕らえたのは、事実です」
「そうだな」
殿下の指が、書類入れの縁を、強く掴んだように見えた。
「我は、この国の剣を、一本でも多く西へ持っていかねばならぬ。錆びていようと、曲がっていようとだ」
誰のことを言っているのかは、訊かなくても分かった。
「……戦が終われば、錆は落とす。必ずだ」
殿下の耳の先は、少しも赤くなっていなかった。
書類を揃える指も、そこにはなかった。
「リエルを、頼む」
それだけ言って、殿下は扉の向こうに消えた。
私は、閉じた扉の前で、しばらく立っていた。
リエルを、頼む。
頼まれた。殿下の口から、私の名のあとに続いた言葉だった。それを口の中で一度なぞり、もう一度なぞった。三度目をなぞろうとして、扉の向こうで椅子の脚が床を擦る音を聞いた。
呼ばれるかもしれない、と思って待っていた。
呼ばれはしなかった。回廊の燭台の芯が、じじ、と短く鳴った。
その音で、自分がどれだけ立っていたのかに気づいた。アパートの薄い戸の前で、外階段を上ってくる足音を待っていた夜と、ちょうど同じくらいの長さだった。
違う、と思った。あれとは違う。ここは扉が厚いし、待っていたのは足音ではない。
私は踵を返し、兵舎に戻った。
兵舎の裏手に、古い井戸がある。見習いの頃から、眠れない夜はそこで素振りをしていた。
井戸の縁に、フィンが座っていた。
「眠れないのか」
「カリンさんこそ」
フィンは、少しだけ笑った。
私は、フィンの隣に腰を下ろした。
石の縁は、夜露で冷たかった。見上げると、世界樹の枝葉の隙間から、星がいくつか覗いていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「戦争に、なるんですね」
やがて、フィンが言った。
「なる」
「僕、戦争って、よく分からないんです。村にいた頃は、昔話の中の話でした。お爺さんたちが、焚き火のそばで話してくれる、遠い話」
フィンは、自分の手のひらを見下ろした。
剣の柄にできた胼胝が、固く盛り上がっていた。
「でも、フェリシアで、ヴァンパイアと戦ったとき、少しだけ分かった気がしました。あれが、何百も、何千も来るんだって」
「怖いか」
「怖いです」
フィンは、正直に言った。
「でも、それより」
フィンは、手のひらを握った。
「村が焼けたとき、僕は、何もできませんでした。帰ったときには、もう全部、燃えてた。もし、魔族が西から攻めてきたら、ああいう村が、たくさん焼けるんですよね」
「そうだな」
「僕は、もう二度と、あれを見たくないです」
フィンの横顔は、村の森で会った少年の顔ではなかった。
顎の線が、少しだけ固くなっていた。
いつの間に、こんな顔をするようになったのだろう。
「侯爵様のこと、本当なんでしょうか」
フィンが、声を落とした。
「帝国の書状に書いてあったこと」
「分からない」
私は、嘘をついた。
分からない、というのは、半分だけ本当だった。証拠と呼べるものは、何も持っていない。あるのは、アーロンの笑みと、いくつかの言葉と、黒い紙の上の封蝋の形だけだ。
それを、フィンに話す気には、なれなかった。
話したところで、何も変わらない。王は、戦の後で考えると言った。殿下は、書類入れを開かなかった。
「でも、侯爵様は、アーロンを裁いた人ですよ」
「そうだな」
「それに、あの地下室のことを、あんなふうに怒ってくれた」
「そうだな」
私は、同じ言葉を繰り返した。
侯爵が何をしていたのか、私には分からない。
けれど、エドガーの館の地下で見たものは、本物だった。
あの冷たい床も。縛られた手足も。モモの泣き声も。
あれを作った者たちが、この春、西から攻めてくる。
「フィン」
「はい」
「私の剣は、ずっと、何のためにあるのか分からなかった」
フィンが、こちらを見た。
「道場で習った。家を継ぐために。誰かに見せるために。……誰かのために、振ってきたのだと思う。ずっと」
私は、腰の剣の柄に、手を置いた。
「でも、あの地下室で、分かった気がした。私の剣は、ああいうものを斬るためにある」
フィンは、しばらく黙って、私の顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「僕も、そう思います」
夜風が、井戸の縁を吹き抜けた。
私は、首の後ろで結んだ髪を、ほどいて結び直した。
指に絡む髪の長さは、この世界に来た日と、少しも変わっていなかった。
フィンの背は、あの日から、頭半分ほども伸びたのに。
そのことを、私は考えなかった。
考えないことに、もう慣れていた。
◇
リエルに会えたのは、それから五日後だった。
要求を退ける書状が帝国へ発ち、王都の空気は一晩で変わっていた。市場からは鉄の匂いがした。鍛冶屋の槌の音が、朝から晩まで途切れなかった。兵舎には、地方から集まってきた騎士たちの馬が溢れていた。
大通りの掲示板には、王の布告が張り出されていた。人だかりの中から、誰かが読み上げる声がした。帝国が、我らが大結晶使い、西の侯爵に言いがかりをつけ、戦を仕掛けてきた、と。
この世界でただ一人、大結晶使いの称号を許された人。宮廷の術師を束ね、この国の守りを支える英雄。市井の人々にとって、侯爵はそういう人だった。
布告の文面は、会議の間で聞いたものとは、少しだけ違っていた。
書簡のことも、帳簿のことも、どこにも書かれていなかった。
人だかりの端で、子供たちが木の枝を振り回していた。
「おれ、勇者!」
「じゃあ、おれ、リッチな!」
リッチ役の子が、両手を広げて吠えた。勇者役の子が、枝でその肩を叩いた。リッチ役の子は大げさに倒れて、笑い転げた。
私は、足を止めずに、その横を通り過ぎた。
大聖堂の前まで来ると、石段の脇に灯明が並んでいた。
素焼きの小皿に獣脂を張っただけの灯だ。昼の光の中では炎がほとんど見えず、皿の上の空気だけが細く揺れている。それが石段の端から端まで、何百と置かれていた。
灯を売る婆さんがいた。息子が西へ行くという女が一枚買い、火を移して石段に置いた。それから胸の前で両手を重ねた。雛鳥を包む形だった。
「戦に出る者の家はね、サルヴィナさまに灯をあげるんだよ」
婆さんは私の腰の剣を見上げて言った。
「雛が巣に帰ってくる道を、照らしてもらうのさ」
灯明の列は、正面の大扉へは向かっていなかった。石段の脇の小さな祭壇へ伸びている。細剣にすがる少女の像があり、その上に王家の旗が垂れていた。大扉の奥には二本の槍を立てた男がいるはずだったが、そちらへ額を下げていく者は少なかった。
国が危ういときには、とリエルが言っていた。冬至の夜の、焼き栗の匂いの中で。
その言葉のとおりになっていた。
あの夜に膝をついた老婆の孫は、まだ西の砦にいるのだろうか。灯明の熱が、外套の裾をかすかに温めて通り過ぎた。
教会の裏手の塀に沿って歩くと、歌が聞こえてきた。
言葉は聞き取れない。高く細い声が、塀の向こうから石の上を渡ってくる。塀の下の路地に、十人ほどが立ち止まっていた。荷を担いだ男も、赤子を抱いた女も、皆が塀のほうを向いて、同じように胸の前で手を重ねていた。誰も口をきかなかった。歌が途切れると、ようやく息を吐いて、めいめいの用事へ散っていった。
兵舎から、ほとんど走ってきた。昼の歌の刻に間に合わせるつもりだった。面会は歌のあとと決まっていて、急ぐ理由はどこにもなかったのに、鎧下の麻が背中に貼りついていた。
門をくぐったときには、歌はもう止んでいた。
教会の奥の中庭は、その喧騒から切り離されたように、静かだった。
小さな噴水の縁に、リエルが座っていた。
付き人たちは、回廊の陰で待っている。殿下の口添えで、半刻だけの面会が許されていた。
「カリン!」
私の足音を聞きつけて、リエルが顔を上げた。
見えない目が、まっすぐに私のほうを向いた。
「お待ちしておりましたわ。聞いてくださいまし。わたくしも、西へ参りますのよ」
弾むような声だった。
「カリンと、フィンさんと、ご一緒ですわ。また、旅ができますのね」
「旅ではない。戦だ」
「分かっておりますわ」
リエルは、くすくすと笑った。
「でも、わたくしにとっては、カリンと一緒に教会の外へ出られるなら、どちらでも同じですの」
私は、リエルの隣に腰を下ろした。
リエルが、私の手を探り当てて、握った。
小さな手だった。去年の夏と、少しも変わらない。
「カリン。お願いがありますの」
「何だ」
「わたくしの、やりたいことを、もう一つ増やしてもよろしいかしら」
「いくつでも増やせばいい」
「では」
リエルは、少しだけ首を傾げた。
「カリンのお国には、春に咲く花がありますかしら。カキのように、カリンのお国でしか、知られていないような」
私は、少し考えた。
「桜、という花がある」
「サクラ」
「木に咲く花だ。花びらは小さくて、薄い紅色をしている。一本の木に、数えきれないほど咲く。咲いてから散るまで、十日ほどしかない」
「十日だけ?」
「十日だけだ。だから、私の国の者は、その十日の間に、桜の木の下に集まって、弁当を広げる。酒を飲む。歌う」
「まあ」
リエルの顔が、ぱっと明るくなった。
「散るときは、どんな音がしますの?」
私は、答えに詰まった。
桜の散る音。
考えたことがなかった。
「……音は、しない」
私は、言った。
「ほとんど、しない。花びらが、風に乗って、雪のように降ってくるだけだ。肩や、髪や、手のひらの上に、音もなく積もる」
「音もなく」
リエルは、自分の手のひらを、空に向けて広げた。
噴水の飛沫が、いくつか、その上に落ちた。
「では、わたくしにも、分かりますわね。手のひらに、積もるのでしたら」
リエルは、手のひらを閉じた。
大切なものを、包み込むように。
「睫毛に花びらを一枚載せたまま、気づかずに歩いている奴がいた」
言ってから、言わなくていいことだと気づいた。
「家に着くまで、ずっとだ。教えてやらなかった」
なぜ教えなかったのかまでは、口に出さなかった。横を歩きながら、ずっとそれを見ていたことも。
リエルが、閉じた手のひらを膝に置いたまま、首を傾げた。
「レン様ですのね」
私は答えなかった。
噴水の飛沫が、手の甲に一粒落ちた。春の水は、まだ枝に残っていた雪の温度をしていた。
リエルは、それ以上訊かなかった。笑いもしなかった。
噴水の音がひとしきり続いたあとで、閉じた手を胸元へ引き寄せた。
「決めましたわ。五つ目は、サクラの木の下で、カリンのお弁当をいただくこと」
「この国には、桜はない」
「では、カリンが探してくださいまし。カキも、見つけてくださったのですもの」
リエルは、当たり前のことのように言った。
私は、少しだけ笑った。
「探そう」
「約束ですわよ」
「約束だ」
噴水の水音が、しばらく二人の間を満たしていた。
私は、リエルの横顔を見た。
白に近い金の髪が、木漏れ日の中で淡く光っていた。首元の黒い首飾りが、その白い肌の上で、ひどく目立っていた。
「リエル」
「なんですの?」
「戦場では、私の傍を離れるな」
リエルの指が、私の手の中で、ぴくりと動いた。
「君は、私が守る」
リエルは、すぐには答えなかった。
噴水のほうへ、見えない目を向けていた。
それから、言った。
「カリン」
静かな声だった。
いつもの弾むような響きが、どこにもなかった。
「戦では、わたくしも、人を殺しますのよ」
私は、リエルの顔を見た。
リエルは、笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、人形のように整った顔で、噴水の音を聞いていた。
叙勲の日、玉座の脇で、付き人に手を引かれて立っていたときと、同じ顔だった。
ほんの、一息ほどの間だった。
「……なんて」
リエルが、ふっと笑った。
「申しましたら、カリンは驚きますかしら?」
いつもの声だった。
いつもの、弾むような、子供のような声。
「わたくしは歌うだけですわ。皆さまの傷を治して、元気にして差し上げるの。フェリシアで、カリンの腕を治したみたいに」
「……そうか」
「そうですわ」
リエルは、私の手を、きゅっと握り直した。
それから、空いたほうの手の指先で、首元の首飾りに触れた。
触れて、すぐに離れた。
私は、何も訊かなかった。
訊かないでいてほしいと言われたことを、無理に訊くのは好きではなかった。
今でも、あのとき訊いておけばよかったのかどうか、分からない。
◇
王都を発ったのは、期日の三十日が過ぎた朝だった。
帝国の宣戦の書状は、その前の晩に、同じ灰色の長衣の使者が届けていった。
西の大門から、兵の列がどこまでも続いていた。
先頭を行くのは、近衛騎士団と、殿下の旗だった。
殿下の腰には、見慣れない剣が吊られていた。
細い剣だった。柄に白い石が嵌め込まれ、鞘には淡い藤色の糸で、雛鳥の羽のような模様が織り込まれている。玉座の背後のタペストリーで、少女がすがっていた剣と、同じ形をしていた。
救済の細剣。
建国の勇者の手で魔族を追い払ったという、女神そのものの剣だ。神殿の奥に祀られていたものを、この出陣のために、教会が殿下へ貸し与えたのだという。
「女神は、我には何も応えぬ」
私の視線に気づいたのか、殿下が、前を向いたまま言った。
「我が手にあっては、折れず、曲がらず、よく斬れる剣にすぎん。……それでも、兵はこれを見て奮い立つ。縁起物だ」
殿下は、細剣の柄を、軽く叩いた。
近衛騎士団の銀の鎧が、木漏れ日を受けて、波のように光っている。その後ろに、神殿騎士たちの白い外套。さらにその後ろに、ドワーフの重装兵たちが、地響きのような足音を立てて続いていた。背丈こそ低いが、全身を分厚い鋼の鎧で覆い、身の丈ほどもある斧槍を担いでいる。鎧の表面には、流れるような細工が施されていた。
列の中ほどに、宮廷の術師たちがいた。
揃いの深緑の長衣を纏い、それぞれに杖を携えている。その真ん中で、侯爵が白い馬に乗っていた。
侯爵の手には、一本の杖があった。
杖というより、旗竿だった。背の高い金属の竿の先に、金の糸で織られた旗が下がっている。風が吹くたびに、旗の表面が波打ち、木漏れ日を受けて眩しく光った。
金糸を織り込んだ、旗。
私は、その光から、目を逸らした。
術師団の後ろには、幌を掛けた荷車が何台も続いていた。どの荷車にも、術師が二人ずつ付き添っている。幌の縁から覗く木箱には、厳重に鉄の帯が巻かれ、侯爵家の封がされていた。
車輪が石畳を噛むたびに、箱の中で何かが、硬く澄んだ音を立てた。
何を積んでいるのかは、誰も口にしなかった。
通りの両側を、王都の人々が埋めていた。
花を投げる者がいた。手を振る者がいた。騎士の名を叫ぶ若い娘たちがいた。子供たちが、兵の列と並んで走っていた。
誰もが、笑っていた。
勝つと、信じているのだろう。
九十年前、黒髪の勇者が帝国を押し返したように。
殿下の馬の半歩後ろで、私は馬の手綱を握っていた。
列の後方、神殿騎士たちに囲まれた白い馬車の中に、リエルがいるはずだった。
その馬車の通るところだけ、歓声が途切れるのが背中で分かった。後ろから追ってくる声の波に、そこだけ穴が空く。花を投げていた手が止まり、白い幌に向かって胸の前で重ねられているのだろう。冬至の夜に、焼き栗の屋台の女がそうしたように。
フィンは、私の隣で、背筋を伸ばして馬に乗っていた。通りの娘たちの何人かが、フィンの名を呼んでいた。フィンは、そのたびに耳を赤くして、前だけを見ていた。
娘たちの声に混じって、誰かが、レン、と叫んだ。
首が先に動いた。
手綱を引いたつもりはなかった。馬が首を振り、石畳の上で足を乱した。人垣の中で、娘が一人、後ろの列の若い騎士に向かって伸び上がっていた。レンツ様、と今度ははっきり聞こえた。騎士が照れたように片手を上げ、娘たちが甲高く笑った。
私は馬の首を叩いて宥めた。手綱の革が、掌の中で湿っていた。春の陽が鎧の肩を温めているのに、そこだけが冷たかった。
「どうかしましたか」
フィンが、こちらを見ていた。
「馬が、花を踏みかけた」
嘘ではなかった。石畳には、投げられた花がいくらでも落ちていた。
「兄ちゃん、がんばれよー!」
小さな男の子が、叫んだ。
フィンが、驚いたように振り返った。
それから、少しだけ迷って、男の子に手を振り返した。
男の子は、跳び上がって喜んでいた。
大門のアーチの下に、王家の旗が一枚、地面すれすれまで垂れていた。
前を行く騎士たちが、くぐりざまに手を伸ばして、その裾に指先で触れていく。徒歩の兵は房を握って、すぐに離す。何千という手に撫でられてきたのだろう。裾の縁だけが擦り切れて、糸が毛羽立っていた。
「帰ってきたら、またこの旗の下をくぐれるように、って」
フィンが言った。手を伸ばして、裾に触れた。
「建国の勇者様の旗ですから。勇者様に、帰り道を約束するんです。村から兵隊に出る人も、出る前に村長の家の古い旗に触っていきました」
私は手を伸ばさなかった。旗の裾は、私の肩の高さで、通り過ぎる槍の穂先に揺らされていた。
大門をくぐる直前、私は一度だけ、振り返った。
王都アルセリアが、世界樹の枝葉の下に広がっていた。
白い石の街並み。尖塔の並ぶ王城。その上に、世界樹の枝が、巨大な天蓋のように覆いかぶさっている。春の若葉を透かした木漏れ日が、都のあちこちで、まだらに揺れていた。
初めてこの都を見たのは、三年半前の秋だった。
村を焼かれ、フィンと二人で、街道を歩いてきた。あのとき、この光を見て、きれいな国だと思った。
今でも、きれいだと思う。
私は、前に向き直った。
西へ。
モモの妹を殺した者たちの国へ。
正しい戦だと、信じていた。
信じて、疑わなかった。
少なくとも、あの春の私は。
落葉歴九百八十七年、春。
ルンシア王国は帝国の求めを退け、エテルナ帝国の宣戦を受けた。
王都を発った軍勢は、西の国境を越え、フェリシアとの境に広がる緩衝地帯へと向かった。
(第二章 了)




