第一章 陰の城にて
娘の誕生日は、晴れだった。
晴れ、というのは、ヴァンパイアにとってあまり嬉しい天気ではない。
帝都エテルノスは世界樹の北の麓に広がる都で、昼の大半を巨木の影の中で過ごす。それでも、夏の終わりの数日だけは、傾いた陽が枝葉の隙間を斜めに射して、都の西半分を容赦なく照らし出す。
よりにもよって、今日はその数日のうちの一日だった。
バルタザールは、屋敷の窓という窓に厚い帳を下ろさせ、中庭には布の天幕を三重に張らせた。それでも、天幕の継ぎ目から漏れる光が、芝の上に白い筋を描いていた。
その筋を、娘が裸足で跳び越えていた。
「父さま、見て! 光の線、踏まないで渡れるの!」
七つになった娘は、金色の髪を二つに結って、白い夏服の裾を翻していた。陽に当たれば肌が赤く腫れる。それを知っていて、娘は光の筋を踏まないように、ぎりぎりのところを跳んでいく。
「リーゼ、危ないから走るな」
「危なくないもん。踏まなきゃいいんだもん」
「踏んだら危ないだろう」
「踏まないもん」
屁理屈だ、とバルタザールは思った。
誰に似たのだろう。妻は、天幕の陰の長椅子で、口元を扇で隠して笑っている。
たぶん、自分だ。
学院にいた頃の自分なら、同じことを言っただろう。生まれたときから天才と持て囃され、何をやっても人より上手くできて、多少危ないことも踏まなければ危なくないと本気で思っていた。
踏んだことがなかったからだ。
帝都に上がって、学院で、自分より百も年下の子供に、正面から殴り倒されるまでは。
卓の上には、娘の好物が並んでいた。
甘く煮た赤い果実の菓子。蜂蜜を塗った薄焼きのパン。それから、硝子の杯に注がれた、とろりと赤い飲み物。人族の血を薄めて果汁で割った、子供用のものだ。
人族の血は、帝国では容易に手に入らない。上等な葡萄酒と同じく、祝いの席にだけ卓に上る贅沢品だった。
娘は光の筋を跳び越えるのに飽きると、卓に駆け寄って、杯を両手で持って一息に飲み干した。
口の周りが赤くなった。
妻が、布でそれを拭ってやった。
「父さま、今年は、ずっといてくれる?」
娘が、バルタザールの袖を引いた。
「去年は、途中でお城に呼ばれちゃったでしょう」
「今年は大丈夫だ」
バルタザールは、娘の頭を撫でた。
「陛下には、ちゃんと休みをいただいてある」
「ほんと?」
「本当だ」
言いながら、バルタザールは、ひと月前の執務室を思い出していた。
青白い灯りの下で、少年の姿をした主が、手紙の束の角を揃えていた。
祝ってやれ。それまでは、まだ余裕がある。
それまでは、だ。
バルタザールは、娘の頭を撫で続けた。
せめて今日だけは、何も考えずにいようと決めた。
使いが来たのは、夕刻だった。
天幕の外で、執事が申し訳なさそうに咳払いをした。
バルタザールは、目を閉じた。
それから、開けた。
娘が、膝の上で眠っていた。菓子を食べ過ぎて、光の筋を跳び過ぎて、疲れたのだろう。金色の髪が、バルタザールの腕に絡んでいた。
そっと娘を妻に預けて、立ち上がった。
「……旦那様」
「分かっている」
執事の差し出した封書には、皇帝の印が押されていた。
開くまでもなかった。
今宵、御前会議を開く。
それだけ書いてあるはずだった。
開いてみると、本当にそれだけ書いてあった。
妻が、娘の髪を撫でながら、バルタザールを見上げていた。
何も言わなかった。
何も言わないでくれることが、ありがたかった。
◇
馬車が坂を登りきると、宮殿が見えた。
帝都の南の外れ、世界樹に最も近い高台に、それは建っている。尖ったアーチに背の高い尖塔、ステンドグラスを多用した真っ黒な城。古いヴァンパイアの建築様式だ。影に埋もれた黒い城はそれ単体では彩りには欠けるが各所で青白い人工的な明かりが煌々と灯り、ステンドグラスの彩りを与え、城の美しい造形を浮かび上がらせる。闇の中に、光で描いた宮殿の輪郭だけが浮かんでいるように見えた。
中央の大塔は、七本の尖塔を従えていた。その根元から正門へ向かって、長い石の階段が真っ直ぐに下りている。階段の両脇には水路が切られ、灯りを映した水面が、光の帯を二本、坂の下まで運んでいた。
宮殿の背後には、世界樹の幹が夜空を塞ぐようにそびえていた。枝葉は闇に溶けて見えない。宮殿の光を受けた幹の根元だけが、ぼんやりと青く浮かんでいる。巨木の懐に抱かれて、光の城が眠らずにいた。
人族の王都は、陽の下で白く輝くと聞く。
帝国の宮殿は、闇の中でこそ輝く。
初めてこの光景を見たとき、バルタザールは、馬車の窓に額を押しつけたまま動けなかった。今でも、この坂を登るたびに、少しだけ息を詰める。
今夜は、その余裕もなかった。
宮殿の中は、昼よりも明るい。
我らの日常は夜にある。故に帝国の宮殿は、夜にこそ灯りを惜しまない。回廊の天井から下がる無数の結晶灯が、青白い光で石の床を満たしている。
回廊の突き当たりで、道は二つに分かれる。右へ折れれば御前会議の間だ。左は樹の根のほうへ下りていく古い階段で、その先まで歩いたことのある者は重臣の中にもほとんどいない。
階段の降り口の壁に、浮き彫りを削った跡がある。何が彫られていたのかは誰も知らない。鑿で平らにならされた石の上に、両の手で何かを抱えているような輪郭と、そこから下へ這っていく幾筋もの溝が、灯りの角度によってうっすらと浮かぶだけだ。学院でも教わらなかった。訊く者もいなかった。
帝国の者は神々をあまり拝まない。祈るより先に己の血に訊く種族だ。人族の国では家々の炉にまで神が座っているというが、この宮殿のどこを探しても像の一つも見当たらない。削られた壁の前を、重臣たちは今夜も目もくれずに通り過ぎていく。
バルタザールも、その一人だった。
御前会議の間は、宮殿の中央にあった。
円形の広間だった。天井は高く、黒い石の柱が等間隔に並んでいる。柱と柱の間には、帝国を構成する諸家の紋章旗が垂れていた。蝙蝠。薔薇。牙。月。
広間の中央に、黒曜石の円卓が据えられていた。
すでに、十数人のヴァンパイアの重臣たちが席に着いていた。
皆、金色の髪をしていた。青い瞳をしていた。蝋のように白い肌をしていた。ヴァンパイアという種族は、驚くほど姿形が似通っている。
純血を尊ぶ種族だからだ。血族は血族の内で婚を結び、外の血を厭う。何百年もそうしてきた末に、顔立ちまで似通ってしまったのだと、学院では教わった。
違うのは、身につけているものと、目の奥の色だけだ。
バルタザールが席に着くと、隣の老貴族が鼻を鳴らした。
「遅いぞ、若造」
「娘の誕生日でして」
「娘」
老貴族は、露骨に顔をしかめた。
バルタザールは、それ以上何も言わなかった。
上座は、まだ空いていた。
背の高い椅子だった。黒曜石に金の象嵌が施され、背もたれの頂には、翼を広げた竜の意匠が彫られている。
皇帝の座だった。
広間の奥の扉が開いた。
重臣たちが、一斉に立ち上がった。
少年が、入ってきた。
十四、五に見える。華奢な身体に、黒と金の礼装を纏っている。夜空を思わせる暗い瑠璃色の髪。死人のように蒼白な肌。金色に光る瞳。
リッチだった。
ヴァンパイアとは、まるで違う姿をしていた。
リッチは、世界樹が実らせた果実のうち、ヴァンパイアに次いで早く生まれた祖の末裔だという。数はごく少ない。この帝国には、三人いることになっている。皇帝と、その姉と、七十年近く前に「隠居」した祖と。祖の隠居先を知る者は、帝都のどこにもいない。それでも、その名と残る二人の力が、この国のすべてのヴァンパイアを従えている。
力で。
リッチの強さは、術の大きさそのものにあるのではない。ヴァンパイアにも勝る頑強な身体を持ち、そして、どれほど術を撃っても、身体が結晶になることがない。
他のどの種族も、術を使うたびに怯えるものを、リッチだけは知らずにいられる。強大な結晶術を、何の代償もなく、息をするように撃ち続けられる。
祖から受け継いだ、唯一無二の体質だった。
少年は、誰の顔も見ずに円卓の上座へ歩き、椅子に腰を下ろした。
片手を、軽く上げた。
重臣たちが、席に着いた。
その一連の動きの間、広間には衣擦れの音しかしなかった。
レヴィン・エテルノス。
この帝国の、三代目の皇帝だった。
◇
「始めよ」
少年の声は、見た目よりもずっと低かった。
宰相格の老貴族が立ち上がり、手元の書類を読み上げ始めた。
フェリシアの査察官、エドガー・メルヴェインの死。
ルンシアの教会の要人が慰霊のためにフェリシアを訪れ、その護衛の騎士に、査察官が討たれたこと。
その後、査察官の館を検めた結果、私室の隠し棚から、多数の書簡と帳簿が見つかったこと。
それらの書簡の中に、ルンシアの西の侯爵、オズヴァルド・シルフェリオ・ルンシアの封蝋が押されたものが含まれていたこと。
帳簿には、十余年にわたり、西の侯爵がフェリシアを通じて帝国の民の結晶体を買い集め、その代価として人族の奴隷を送り込んでいた記録が残されていたこと。
広間が、ざわめいた。
ざわめきは、すぐに怒声に変わった。
「人族が、我らの同胞の亡骸を!」
「燃料にしていたというのか!」
「五百年前と何も変わっておらん! あの劣等種どもは!」
重臣たちが、円卓を叩いて立ち上がった。
バルタザールは、座ったままだった。
その書簡の束を最初に読んだのは、自分だったからだ。
怒声が一巡したところで、少年が指先で円卓を一度だけ叩いた。
こつ、と乾いた音がした。
広間が、静まり返った。
「座れ」
重臣たちが、座った。
「怒るのはよい。だが、怒るだけならば子供でもできる」
少年は、円卓の上に広げられた書簡の一枚を、指先で引き寄せた。
金糸の旗の封蝋が、結晶灯の光を受けて鈍く光っていた。
「問う。これをもって、ルンシアに何を求めるか」
重臣たちが、顔を見合わせた。
最初に口を開いたのは、バルタザールの隣の老貴族だった。
「西の侯爵の首を。それと、賠償を」
「ルンシアが、侯爵の首を差し出すと思うか」
「……差し出さぬでしょうな。あの侯爵は王弟の血筋。ルンシアの結晶術の要でもある」
「では、どうする」
老貴族は、口を噤んだ。
別の重臣が、声を上げた。
「ならば、戦を」
その一言で、広間の空気が変わった。
誰もが、それを考えていた。
誰もが、最初に口に出すのを避けていた。
少年は、戦という言葉を口にした重臣を、しばらく見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
広間が、息を呑んだ。
「余は、戦を選ぶ」
少年は、書簡の束の上に、手のひらを置いた。
「人族は、我らの同胞の亡骸を辱めた。先の大戦の火種となったのと同じ罪を、五百年経ってもまだ犯している。これを見過ごせば、帝国は人族に侮られる。侮られた国は、いずれ喰われる」
一拍置いて、書簡の端を指先で弾いた。
「……どうやら、一度躾けてやらねば、奴らは慎みというものを覚えぬらしい」
少年の金色の瞳が、円卓を一巡した。
「そして、帝国の内にも、余を侮る者がいる」
誰も、目を合わせなかった。
「祖の影に隠れた子供。姉の庇護で玉座に座る飾り。そう囁く声が、余の耳にも届いている。特に、西の沿岸の方からな」
何人かの重臣が、身じろぎした。
西の沿岸。水の都アクアレイス。
その主が誰であるかを、この場で知らない者はいなかった。
◇
そのとき、広間の扉が叩かれた。
衛兵が、一通の書状を捧げ持って入ってきた。
「水の都より、ヴァイス・アクアレイス様の使いが参っております。御前会議に宛てた書状を、とのこと」
広間の空気が、また変わった。
少年は、表情一つ変えなかった。
「読め」
宰相格の老貴族が、書状を受け取った。封を切り、目を走らせ、それから、わずかに顔を強張らせた。
「……読み上げても、よろしいので」
「読め、と言った」
老貴族は、咳払いをした。
「皇帝陛下へ。我が血族の末席、エドガー・メルヴェインを、帝国の査察官としてフェリシアへ差し出したのは、帝都を信じればこそである。その者が、人族の騎士ごときに討たれたと聞き及ぶ。査察官の身を預かるは帝都の務め。劣等種の刃にかけさせるとは、帝都の監督の不行き届きと言わざるを得ぬ。また、エドガーが我が許へ献上する手筈であった品々も、ことごとく失われた。」
老貴族は、そこで一度言葉を切った。
額に、汗が滲んでいた。
「ルンシアを討つとあらば、我が水の都は兵を出す用意がある。ただしこの一件を鑑みるに、その戦の采配は、年若き陛下には荷が重かろう。経験ある者に任せるが賢明と、老婆心ながら申し添える。ヴァイス・アクアレイス」
広間が、凍りついた。
誰も、何も言わなかった。
言えなかった。
預けた血族を死なせたのは帝都の落ち度だ。だから償え。
その査察官が、フェリシアで何をして討たれたのかには、ひと言も触れずに。
皇帝への書状に、帝都の監督不行き届きと書く。損失の埋め合わせを求める。そして、戦の采配を寄越せと言う。
臣下が主に宛てて書く文面ではなかった。
バルタザールは、少年の顔を盗み見た。
少年は、微笑んでいた。
十四の少年の顔に浮かぶには、あまりにも静かな微笑みだった。
ひと月前、執務室で見たのと、同じ微笑みだった。
「使いに伝えよ」
少年は、言った。
「ヴァイス卿の申し出、確かに受け取った。水の都の兵は、ありがたく使わせてもらう。采配については、余が自ら執る。卿には、その老練な手腕で、余の采配を支えてもらいたい、と」
衛兵が、頭を下げて退いた。
少年は、何事もなかったかのように、円卓に向き直った。
「さて」
少年は、指先で円卓を叩いた。
「今の書状で、分かったことがある。ヴァイスは、この戦に乗る。己の兵を出すと言った。己の口でな」
何人かの重臣が、はっと顔を上げた。
「いずれにせよ東の玄関はあの忌々しいセラディスに閉ざされている以上、攻めるなら西からが妥当だ。いいではないか。道中で優秀な戦力が手に入る。戦場に出れば、奴の兵は余の采配に従う。従わねば、軍令違反として裁ける。……あの男を、余の盤の上に載せる、またとない機会だ」
少年の瞳が、結晶灯の光を受けて、金色に光った。
バルタザールは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
学院の中庭で、この少年に殴り倒されたときと、同じ感覚だった。
あのときも、少年は、同じ顔で笑っていた。
◇
会議が終わったのは、夜半を過ぎてからだった。
重臣たちが退出していく中で、バルタザールだけが呼び止められた。
皇帝の私室に通された。
ひと月前と同じ、窓のない執務室だった。書類の塔は、あのときよりもさらに高くなっていた。
少年は、執務机の向こうの椅子に深く身を沈めて、目を閉じていた。
会議の間の、あの張り詰めた気配は、どこにもなかった。
ただの、疲れた子供のように見えた。
「……座れ、バルタザール」
「では、失礼して」
バルタザールは、執務机の前の椅子に腰を下ろした。
学院の頃から、二人きりのときは、こうだった。
少年は、目を閉じたまま言った。
「リーゼは、いくつになった」
「七つです」
「祝えたか」
「半分ほどは」
「そうか」
少年は、目を開けた。
「すまなかったな」
バルタザールは、少しだけ驚いた。
この少年は、滅多に謝らない。
「……いえ。陛下のせいではありませんので」
「余のせいだ。余が、今夜と決めた」
少年は、机の上の書簡の束に目をやった。
「ヴァイスの書状は、明日には帝都中に知れ渡る。重臣どもの誰かが、必ず漏らす。そうなる前に、宣戦の意を固めておきたかった。あの男に、先に口を開かせるわけにはいかなかった」
「承知しております」
バルタザールは、溜息をついた。
「それにしても、見事なものでした。ヴァイス卿の無礼を、そのまま首輪に変えてしまわれた」
「あの男が、勝手に首を差し出しただけだ」
少年は、つまらなそうに言った。
しばらく、二人とも黙っていた。
結晶灯の青白い光が、書類の塔の影を壁に伸ばしていた。
やがて、少年が口を開いた。
「バルタザール。一つ、確かめておきたい」
「何なりと」
「あの蛇は、どこまで仕組んでいた」
バルタザールは、少しだけ間を置いた。
それから、正直に答えた。
「おそらく、ほとんど全てを」
少年は、黙って続きを待っていた。
「陛下が私に、エドガーの身辺を洗えとお命じになったのは、半年前のことでした。あの男が、ヴァイス卿への献上品を横流ししているという噂がありましたので。私は、フェリシアの事情に通じた者として、ヴォルグに探らせました」
「そこまでは、余も知っている」
「ええ。ですが、ヴォルグは、エドガーの私室の隠し棚までは辿り着けなかった。エドガーは用心深い男でしたから。館を空けることも、滅多になかった」
バルタザールは、額に手を当てた。
「そこへ、ルンシアの踊り子がフェリシアを訪れるという話が入ってきた。救済の女神の代行者。その血は、どんな美酒にも勝ると噂される娘です」
「エドガーが、欲しがらぬはずがない」
「ええ。そして、ヴォルグはそれを利用した。踊り子を餌に、エドガーを晩餐の間に釘付けにした。ルンシアの護衛と、エドガーが揉めている間に、ヴォルグの手の者が私室の隠し棚を破った」
少年は、目を細めた。
「つまり、踊り子の件は、陽動か」
「そういうことになります」
バルタザールは、深く息を吐いた。
「エドガーが踊り子の拐取に成功しようと、失敗しようと、ヴォルグにはどちらでもよかったのでしょう。成功すれば、ルンシアとの間に火種ができる。失敗して、エドガーが討たれれば、なお都合がいい。死人に口はありませんから。それに、帝国の貴族が人族の騎士に討たれたという事実そのものが、火種になる」
「ルンシアの騎士がエドガーを討つことまで、読んでいたと?」
「そこまでは、分かりません。ですが、あの蛇のことです。どちらに転んでも損をしない算段は、必ずつけていたはずです」
少年は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「余は、踊り子に手を出せとは命じておらぬ」
「ええ。私も、命じておりません」
「だが、結果は上々だ」
「……ええ」
バルタザールは、その言葉を否定しなかった。
否定できなかった。
この少年は、そういう皇帝だった。
手段を選ばない者を、手段として使う。その者が勝手に汚した手を、自分の手とは思わない。そして、その結果だけを、冷徹に受け取る。
学院の頃から、そうだった。
それが恐ろしいと思ったことは、何度もある。
それでも、この少年に付いていくと決めたのは、自分だった。
「ヴォルグには、どう報いる」
「今のところは、何も。あの男は、報酬を求めてきませんでした」
「それが一番恐ろしい」
「同感です」
少年は、机の上の書簡の束を、指先で軽く叩いた。
「あの蛇は、いずれ余の喉元にも牙を立てる。今のうちに、首輪をつけておけ」
「どうやって」
「それを考えるのが、そなたの仕事だ」
バルタザールは、天井を仰いだ。
家に帰りたい、と思った。
娘の寝顔が見たい、と思った。
「……承知いたしました」
◇
そのとき、執務室の扉が、蹴破られるように開いた。
「レヴィン!」
女の声だった。
豪快な、よく通る声だった。
バルタザールは、反射的に椅子から立ち上がった。
少年は、椅子に座ったまま、額に手を当てた。
戸口に、女が立っていた。
背が高かった。すらりと長い手足に、黒い革の軽装を纏っている。腰まで届く瑠璃色の長い髪を、無造作に一つに束ねていた。蒼白な肌に、金色の瞳。
少年と同じ色の髪と、同じ色の瞳だった。
けれど、その目の輝き方は、まるで違った。
少年の瞳が、冬の夜空に凍った星だとすれば、女の瞳は、焚き火の中で爆ぜる火の粉だった。
左の腕に、小さな丸い盾を括りつけていた。掌ほどの大きさしかない。表面は黒く、その黒の中に、無数の小さな光の粒が瞬いていた。
星空を、そのまま切り取ったような盾だった。
「姉上」
少年が、額に手を当てたまま言った。
「扉は、叩いてから開けるものです」
「叩いたぞ。足で」
女は、からからと笑った。
それから、執務室の中へ、大股で踏み込んできた。
バルタザールの横を通り過ぎるとき、その背中をばしんと叩いた。
「よう、バル坊。娘の誕生日だったんだって? 祝えたか?」
「……半分ほどは」
「そりゃ悪かったな! レヴィンの代わりに謝っとく!」
女は、また笑った。
バルタザールは、叩かれた背中の痛みに顔をしかめた。
骨に響く叩き方だった。本人は、軽く叩いたつもりなのだろう。
フェルミナ・エテルノス。
皇帝の姉。
この帝国に三人いるとされるリッチの、もう一人だった。
女は、執務机に両手をついて、少年の顔を覗き込んだ。
「聞いたぞ。戦をやるんだってな」
「……誰から」
「重臣どもが、回廊で大声で喋ってた。ルンシアを討つ、陛下が決められた、ってな」
少年は、目を閉じた。
深く、息を吐いた。
「明日までは、伏せておくつもりでした」
「無理だろ。あいつら、口に蓋がついてねえもん」
女は、にかっと笑った。
「で、いつだ? 明日か? 明後日か? オレは、いつでも行けるぞ」
「姉上」
「なんだよ」
「戦は、明日や明後日に始めるものではありません。兵を集め、糧を集め、道を整え、宣戦を布告してから始めるものです。少なくとも、半年はかかります」
「半年ぃ?」
女は、露骨に不満そうな顔をした。
「長えよ。オレ一人なら、今夜にでも国境を越えられるのに」
「だから、姉上には伏せておくつもりだったのです」
少年は、心底疲れたという顔で言った。
バルタザールは、笑いを噛み殺した。
この姉弟の会話を聞くのは、嫌いではなかった。
あの冷徹な皇帝が、この姉の前でだけは、ただの弟の顔になる。
女は、執務机の上に広げられた書簡の束に、目を留めた。
一枚を、無造作に摘み上げた。
「これが、証拠ってやつか」
「姉上、それは」
「読めるって。オレだって字くらい読める」
女は、書簡に目を走らせた。
その目が、途中で止まった。
書簡の一枚に、エドガーの死の顛末を記した報告書が挟まっていた。
「……エドガーを討ったのは、ルンシアの騎士」
女は、声に出して読んだ。
「若い女。黒髪。結晶術を使わず、剣のみで、エドガーの術をことごとく躱したという」
女の手が、止まった。
金色の瞳が、報告書の一行を、じっと見つめていた。
「黒髪」
女は、呟いた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
焚き火の火の粉のような瞳が、さっきよりもさらに強く、爆ぜていた。
「なあ、レヴィン」
「……何ですか」
「九十年前のこと、知ってるか。お前がまだ生まれてなかった頃だけどさ。オレが、ルンシアの王都まで攻め込んだ戦」
少年は、答えなかった。
答えなくても、知っていた。
帝国の誰もが、知っている話だった。
リッチの長女が、ルンシアの王都を目前にして、退いた戦。
たった一人の、黒髪の勇者に、退けられた戦。
「あいつも、結晶術を使わなかった」
女は、言った。
「槍一本で、オレの術を片っ端から散らしやがった。散々オレをおちょくって、腹の立つ顔で笑いやがって。最後まで、一発もまともに当たらなかった」
女は、報告書を握りしめた。
紙が、くしゃりと音を立てた。
「その黒髪の女騎士は、あいつと同じ匂いがする」
女は、笑った。
心の底から、楽しそうに。
「会いてえなあ」
◇
女が嵐のように去っていったあと、執務室には、しばらく沈黙が落ちていた。
少年は、椅子に深く沈み込んだまま、天井を見上げていた。
「……バルタザール」
「はい」
「姉上の首にも、首輪をつけておけ」
「無理です」
「知っている」
少年は、目を閉じた。
「言ってみただけだ」
バルタザールは、今度こそ、笑いを堪えきれなかった。
少年も、目を閉じたまま、口の端をほんの少しだけ上げた。
それから、また、あの静かな顔に戻った。
「宣戦の布告は、春とする」
少年は、言った。
「冬の間に兵を集め、糧を集め、道を整えよ。フェリシアを足場にする。あの蛇にも、働いてもらう。西の沿岸の兵は、ヴァイスに出させる。……前線の指揮は、姉上に」
「フェルミナ様に?」
「止めても行く。ならば、最初から前に置いたほうがいい。姉上がいれば、ヴァイスも勝手はできぬ」
バルタザールは、黙って頷いた。
少年は、机の上の書簡の束を、もう一度、指先で揃えた。
一枚一枚、角を合わせるように。
金糸の旗の封蝋が、青白い灯りの下で、鈍く光っていた。
「余の戦だ」
少年は、誰に言うともなく呟いた。
「余が始めて、余が終わらせる」
バルタザールは、その横顔を見ていた。
十四の少年の顔だった。
けれど、その目は、この広い帝国の、誰よりも遠くを見ていた。
◇
同じ夜。
フェリシアの首都ベネディアの、港を見下ろす館の一室で、痩せた男が手紙を読んでいた。
帝都から届いたばかりの手紙だった。封蝋には、フェリシア閥のある貴族の紋が押されていた。
春、フェリシアを足場とする。冬の間に道を整えよ。
短い文面だった。
男は、くまのできた目を細めて、それを二度読んだ。
それから、穏やかに微笑んだ。
手紙を、燭台の火にかざした。紙の端が黒く縮れ、炎が這い上がっていく。男は、それが灰になるまで、指先で摘んだまま見つめていた。
灰を払い落として、机の引き出しから、新しい紙を一枚取り出した。
ペンを取り、丁寧な字で、短い文を綴った。
宛名は、書かなかった。
代わりに、封筒の表に、小さな印を一つだけ描いた。
金糸を織り込んだ旗の形を。
最後に、右手の中指の指輪を外し、温めた蝋の上に押しつけた。
三日月を咥えた、一匹の蛇。
「どちらに転んでも」
男は、封書を撫でながら、誰にともなく呟いた。
「わたくしは、損をいたしませんので」
窓の外で、夜の海が、静かに鳴っていた。
沖に霧が出ていた。その白の中に、灯が一つ揺れている。明け方の漁に出る舟が、もう舳先に灯を掲げているのだろう。霧の女神に見せるのだと、この国の人族は言う。
男はその灯が霧に呑まれるまで、窓辺から眺めていた。穏やかな微笑みは、最後まで崩れなかった。
◇
屋敷に戻ったのは、夜明け前だった。
帝都の空が、東の端からわずかに白み始めていた。ヴァンパイアにとっては、眠りにつく刻限だ。
寝室を覗くと、娘が、妻の腕の中で眠っていた。
枕元に、菓子の包み紙が一枚、落ちていた。
バルタザールは、それを拾い上げて、そっと卓の上に置いた。
娘の寝顔を、しばらく見下ろしていた。
金色の髪。小さな手。寝息に合わせて、微かに上下する胸。
七つになった。
来年は、八つになる。
そのとき、自分はこの屋敷にいるだろうか。
妻が、薄く目を開けた。
何も言わずに、バルタザールを見上げた。
バルタザールも、何も言わなかった。
ただ、娘の髪を、そっと撫でた。
娘が、寝ぼけた声で、何か呟いた。
「……とうさま、ずっと、いてくれる?」
バルタザールは、少しだけ黙った。
それから、答えた。
「ああ」
嘘だった。
それでも、そう答えた。
窓の帳の隙間から、夜明けの光が一筋、差し込んでいた。
床の上に、白い線を描いていた。
人族の兵は、この光に向かって膝をつくのだと聞く。東を向いて、今日の行く先を照らしてくれと女神に頼むのだと。ヴァンパイアにとっての夜明けは、帳を下ろして眠る刻限でしかない。
バルタザールは、その線を、踏まないように跨いだ。
落葉歴九百八十七年、春。
エテルナ帝国は、ルンシア王国に宣戦を布告した。
同胞の亡骸を辱めた罪を問う、と。
後の世に第二次人魔大戦と呼ばれる戦は、こうして始まった。
(第一章 了)




