国家公務員だと思ったら妖怪退治!?
百目鬼の巨躯が完全に崩れ落ち、地面に大きな音を立てて倒れた瞬間、戦闘は終わった。
「……終わった、か」
黒崎が地面に片膝をついたまま、荒い息を吐いた。
その体は血と煤と土にまみれ、左腕はだらりと下がり、右足を引きずるようにしか立てない状態だった。
口元から滴る血を拭う気力すら残っていない様子で、それでも黒崎は小さく笑った。
「黒崎さん!」
藤堂が結界を解除すると同時に、黒崎のもとに駆け寄った。
本来は戦闘を不得手とする彼にとって、これは初めてと言っていいほどの激しい現場だった。
結界を維持するだけで精一杯だった手が、まだ小さく震えている。
息が荒く、眼鏡のレンズが汗で曇り、いつもの落ち着いた物腰は完全に崩れていた。
それでも藤堂は慌てた様子で黒崎の肩を支え、声を上ずらせながら言った。
「大丈夫ですか……! かなり深手ですよ!
左腕の出血が止まらない……すぐに病院へ連れて行きます!」
「うるせぇ……大したことねぇよ」
黒崎は苦笑しながらそう言ったが、声に力はほとんどなかった。
顔色は青白く、額から汗が止まらず、呼吸も浅く荒い。
その直後、境内の外から複数の足音が慌ただしく近づいてきた。
黒子班のメンバーたちが、藤堂の緊急連絡を受けて全力で駆けつけてきたのだ。
彼らは現場に到着するなり、崩れ落ちた百目鬼の巨体を見て息を飲んだ。
「……うわっ、マジかよ……これ……!?」
一人の隊員が、思わず後ずさりながら声を上げた。
その顔は青ざめ、目が大きく見開かれている。
「なんだこのデカさ……!
この戦力じゃ再封印すら不可能だろ……討伐なんて、普通のチームじゃ絶対無理だ……
一体どうやって倒したんだ……?」
他の隊員たちも言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
地面に横たわる百目鬼の巨躯は、ただの死骸とは思えないほどの威圧感を放っていた。
焼け焦げた剛毛、裂けた筋肉、砕けた角、そしてまだ微かに明滅する単眼。
周囲の木々は爆風でなぎ倒され、地面は無数の爆発痕で蜂の巣状に抉られている。
「これ……本当に簡易退魔銃だけで倒したのか……?
晋介だけでこの化け物を……信じられねえ……」
誰かが震える声でつぶやいた。
黒子班の面々は、互いに顔を見合わせ、戦慄を隠せない様子だった。
藤堂は黒崎を支えながら、黒子班の隊員たちに指示を飛ばした。
「死体処理を優先してください。証拠隠滅も徹底で。
私は黒崎さんを先に病院へ連れて行きます」
白峰は少し離れた場所に立ち尽くし、呆然とその光景を見つめていた。
戦いが終わったという実感が、まだ胸に染みてこない。
(……今日一日で、何が起こったんだろう……)
朝はただの新入社員として特対室に配属されただけだった。
モデルガンみたいな簡易退魔銃を渡され、妖怪退治なんて信じられない話を聞かされ、
街中華で特製天津飯を食べたと思ったら、いきなり本物の妖怪と戦う羽目になって——
白峰は自分の震える手をじっと見つめた。
指先がまだ小刻みに震えている。
さっきまで感じていた圧倒的な恐怖が、体の芯に染みついたまま離れない。
あの無数の目が自分を舐め回すような視線、爆発の熱、血の臭い……すべてが鮮明に蘇ってくる。
(……怖かった……本当に怖かった……
死ぬかもしれないって、心の底から思った……
でも……私、さっき本当に撃ったよね……?
あの怪物に、光を放って……
自分の手で……)
胸の奥が熱くなり、同時に冷たい不安が込み上げてくる。
不思議な声の残響が、まだ耳の奥に優しく、しかし不気味に残っている。
「一緒にいこう」と言われたあの温かさと、戦いの恐怖が混じり合って、頭の中をぐるぐる回る。
戦いは終わった。
黒崎さんは生きている。
藤堂さんも無事だ。
それなのに、心のどこかで「これで本当に終わりなのか」という不安が消えない。
白峰は小さく息を吐き、震える手をぎゅっと握りしめた。
(……これが、これから私の日常になるんだ……
妖怪と戦って、命を懸けて……
私に、そんなことができるの……?)
恐怖と戸惑い、そしてほんの少しの安堵が、胸の中で複雑に絡み合っていた。
空はもうすっかり夕暮れに染まっていた。
とんでもない一日だった。
就活を勝ち抜き、手に入れたはずの平和な公務員生活は、
たった一日で完全に吹き飛んでしまった。
白峰は藤堂の後について、ゆっくりと境内を後にした。
夕陽が、戦いの跡を優しく、しかし冷たく照らしていた。
薄暗い灯りの下で、一人の男が静かに呟いた。
「百目鬼が……やられましたか……」
男の唇が、わずかに歪んだ。
感情をほとんど表さないその顔に、ほんの少しだけ忌々しさが浮かぶ。
「折角、封印を解いたというのに……
可哀想です……」
怪しげな男はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる夜の闇を見つめた。
その瞳には、冷たい計算と静かな怒りが宿っている。
「……次は北ですね」
短く、しかし重い言葉を残し、男の姿は灯りの届かない闇に溶けるように消えた。




