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蓮さん

「……蓮さん」

低く、懐かしい声が呼んだ。

黒崎蓮はゆっくりと目を開けた。

そこは見覚えのある、六本木の地下3階——特対室の休憩スペースだった。

薄暗い照明が、天井の古びた蛍光灯から柔らかく降り注ぎ、くたびれたソファの表面をぼんやりと照らしている。

空気はいつものように淀んでいて、かすかにコーヒーと紙の匂いが混じり、地下特有の冷たい湿り気を感じさせた。

壁に掛けられた古い時計の針が、カチカチと静かに時を刻んでいる。

目の前に立っていたのは、柔らかい印象の青年だった。

黒髪が少し長めに伸び、笑うと目が優しく細くなる。

どこか、白峰澪に似た透明感のある雰囲気を持った、明るい顔立ちの男。

知的な柔らかさが漂い、笑顔がとても自然で親しみやすい。

灰原はいばらゆう


黒崎は瞬時に理解した。

(……また、この夢か)

胸の奥が、ずしりと重く沈む。

何度見たかわからない、過去の記憶をなぞる夢。

何度抵抗しても、結局同じ展開を繰り返す、逃げられない記憶の牢獄。

この夢は、黒崎を責めるためのものだ。

灰原が生きていた頃の、穏やかで平凡な日常を完璧に再現して見せつけ、最後に必ず訪れる「喪失」を、容赦なく突きつける。

灰原を失ったあの日から、黒崎が自らに課した永遠の罰。

「もっと早く動いていれば」「もっと強く守っていれば」「あんな任務に連れていかなければ」——

その後悔は、年月が経つにつれて薄れるどころか、夢の中で何度も繰り返されるたびに、刃のように鋭く胸を抉り続ける。

灰原はいつものように、にこっと笑って言った。

「しっかりしてください、蓮さん!

これから外回りですよ。

ほら、寝ぼけてないで早く起きてくださいってば!」


黒崎はため息をつきながらも、夢と知りながらも答えざるを得なかった。

最初は何度も抵抗した。

「これは夢だ」「お前はもういない」と叫んだこともある。

灰原の姿を突き飛ばし、目を逸らしたこともある。

だが無駄だった。

夢は必ず同じように進み、灰原は笑顔で待っている。

何度目かの抵抗で、黒崎は諦めた。

この夢は、自分が灰原を失ったことを忘れさせまいとする、

自らに課した永遠の罰なのだと、理解したから。

「……わかってる。めんどくせぇが、準備は出来てるよ」

黒崎はソファから体を起こした。

まだ無精髭もなく、目にも少し活力が残っていた頃の自分。

あの頃の黒崎蓮は、今よりずっと若々しく、後輩の面倒をちゃんと見ていた。


灰原は満足そうに笑い、資料を差し出しながら続ける。

「今日の現場はあきる野周辺です。

火の玉を見た、ガイコツのお化けを見たっていう証言が結構来てるみたいで。

おそらく妖怪の仕業だろうってことで調査依頼が来ました。

新月の前後で活発になるタイプかもしれませんね」

黒崎はソファから体を起こしながら、いつものように相槌を打った。

「ああ……もうすぐ新月の晩だな。

早いとこ原因探って解決しねーとな」

灰原が目を輝かせて身を乗り出す。

「そうですよ! しっかりしてください、蓮さん!

前回の調査みたいに、僕が全部説明してる間に寝てたら困りますからね。

ちゃんと聞いてますか?」

「……聞いてるよ。うるせぇ後輩だな」

「えー、ひどい! 先輩の事を思って言ってるのに。

ほら、コーヒー淹れてきましたから飲んで。

ブラックでいいですよね?」

灰原は慣れた手つきで紙コップを差し出す。

黒崎はそれを受け取りながら、苦笑した。

夢だとわかっていても——

灰原の明るい声と、生き生きとした動きは、まるで本物のように温かかった。

胸の奥が、ふっと軽くなる瞬間があった。

この後輩の元気な笑顔を見ているだけで、ほんの少しだけ、昔の自分が戻ってくるような気がした。

(……ゆう、お前は本当に、変わらず元気だな……)

その感情が、黒崎を一瞬だけ幸せにした。

しかし、次の瞬間——


(……ふざけるな)

激しい自己嫌悪が、胸を抉る。

夢の中でさえ、灰原の明るさに救われる自分が許せなかった。

この笑顔を、もう二度と見られないことを知っているのに、

夢の中で喜んでいる自分が、惨めに思えてならなかった。

灰原を失ったあの日から、黒崎は自分を許していない。

後輩を守れなかった無力感。

もっと早く気づいていれば、もっと強く守っていれば——

その後悔が、毎夜のように彼を責め立てる。

だからこそ、この夢は罰だ。

灰原の明るさに触れて一瞬でも安堵した自分を、すぐに突き落とすための、残酷な罰。

「ったく……お前は相変わらず元気だな」

黒崎の声は、少し低く掠れていた。

「当然です! 蓮さんの後輩なんですから。

しっかりしてくださいって、いつも言ってるじゃないですか」

灰原は屈託なく笑う。

その笑顔が、黒崎の胸をさらに深く抉った。

夢の中でさえ、灰原に「しっかりしてください」と言われる自分が、情けなくて仕方なかった。


二人は特対室を後にする。

まだ何も知らなかった頃の、二人だけの外回り。

黒崎は夢の中で、灰原の後ろを歩きながら小さく呟いた。

「……ゆう

その声は、夢の中の灰原には届かない。

届かないとわかっていながら、黒崎は毎回、同じように呟く。

夢はまだ、終わらない。

黒崎蓮の、消えない後悔をなぞるように。

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