ただの道具
牛鬼は咆哮を上げながら、制御を失った巨体で御堂の元へ突進を始めた。
契約の楔が完全に解けた今、牛鬼はもはや御堂の式神ではなかった。
漆黒の巨躯が激しく痙攣し、赤く輝く瞳が狂気じみた光を帯びる。
長い角が空を切り裂き、地面を抉るたびに土砂が飛び散り、黒い体液が雪のように舞い上がる。
制御を失った式神は、ただの暴走する怪物そのもの——
触れる者すべてを破壊し尽くす、恐ろしいまでの破壊の化身だった。
それとほぼ同時に、シーサーが再び御堂を狙って襲いかかる。
金色の巨体が風を纏い、容赦ない爪を振り下ろす。
「御堂さん!!!」
白峰の叫びを他所に、御堂は一瞬、九条の言葉を思い出した。
——北でも大層活躍したんやって?——
最後を覚悟するような冷たい感覚が胸をよぎる。
瞬間、巨大な衝突音が響いた。
ドゴォンッ!!
牛鬼は御堂を庇うように、シーサーに体当たりをぶつけた。
制御を失ったはずの怪物が、自らの意志で御堂の前に立ちはだかった。
恐ろしい咆哮を上げながらも、その巨体は御堂を守る盾となり、シーサーの猛攻を一身に受け止める。
契約などなくても、長い年月を共に過ごした絆が、牛鬼を動かしていた。
暴走するはずの破壊の化身が、今はただ一人、御堂を守るために牙を剥いている。
その光景に、御堂の瞳が大きく見開かれた。
(……何故……?
契約が切れた今……私を、守るというの……?)
長年、ただの道具としてしか扱ってこなかった式神が、制御を失った今も、御堂のために身を挺している。
そのギャップが、御堂の胸を激しく抉った。
恐ろしい怪物が、優しく守る盾となる——その矛盾した姿に、彼女の心が激しく揺さぶられる。
よろめくシーサーに、牛鬼はさらに追撃を加える。
白峰は即座に動いた。
「今です!」
真田丸8式を振り上げ、気刃を放ちながら牛鬼の横に飛び込む。
迷いを振り切るように、刀を全力で振り抜く。
白い軌跡がシーサーの脇腹を切り裂き、金色の体毛を鮮やかに散らした。
凛も負けじと呪符を掲げ、必死に声を張り上げた。
「火よ! 雷よ!」
炎の矢と金色の雷撃が交互に飛ぶ。
まだ幼い彼女の術は単調で、威力の制御も甘い。
それでも、天才的な才能が光り、シーサーの動きを確かに乱していた。
「木よ!」と続け、地面から樹木を急成長させて足を絡め取ろうとするが、成長がやや遅れ、完全に捕らえきれなかった。
小さな体が震えながらも、凛は歯を食いしばって次の術を準備する。
白峰と凛の加勢を受け、牛鬼の攻撃がさらに激しさを増す。
しかし御堂は、ただ呆然とその光景を見つめていた。
胸の奥で、激しい葛藤が渦巻いていた。
契約が切れた今、牛鬼はもう御堂の命令に従う必要などないはずだった。
暴走する破壊の化身として、触れる者すべてを踏み潰す怪物になるはずだった。
それなのに——漆黒の巨体は御堂の前に立ちはだかり、シーサーの猛攻を一身に受け止め続けていた。
長い角が風を切り、黒い体液を撒き散らしながらも、決して御堂から離れようとしない。
表情のわからない異形の顔からは、何の感情も読み取れない。
ただの道具、ただの力、ただの式神——
御堂がこれまで牛鬼に与えてきたのは、そんな冷たい認識だけだった。
それでも、御堂にははっきりと伝わってきた。
この巨体から溢れ出す「守りたい」という、純粋で熱い意志が。
契約の力などなくても、長い年月を傍らに置いてきた絆が、牛鬼をここに留めている。
その優しい気配に、御堂の胸が強く締め付けられた。
(……私は、あなたを……ずっと、道具だと思って……
傷つけて、使い捨てて……それなのに、どうして……)
自らの冷たさが、今になって胸に突き刺さる。
——妖怪は妖怪です——
そうだ、妖怪は罪のない人を襲う。
何人も犠牲者を見てきた。
同僚が散っていくところも見てきた。
そう自分に言い聞かせてきたはずなのに——
今、自分のために傷つき、咆哮を上げながらも立っているこの牛鬼の姿が、その信念を激しく揺さぶっていた。
信用していなかった。
道具としてしか見ていなかったはずの存在が、契約が失われた今も、御堂のために牙を剥き、身を挺している。
その矛盾した光景が、御堂の心を激しく揺さぶり、言葉にできない痛みと後悔を呼び起こしていた。
「奏さん!」
凛の叫びが響く中、御堂はただ立ち尽くし、牛鬼の背中を見つめ続けていた。
白峰の優しさ、それに触れた妖怪たち、そして今、自分のために戦っている牛鬼——
すべてが、御堂の中で激しく交錯していた。
彼女の瞳に、初めての揺らぎが浮かんだ。
シーサーがとどめの一撃を放つ間際——
大量の白い大蛇の群れが、雪崩のようにシーサーを飲み込んだ。
「危ない危ない。間に合うて良かったわ」
胡散臭い関西弁が、場の空気を一変させた。
九条恭弥が、いつもの貼り付けた笑顔でゆっくりと歩み寄ってきた。
白蛇の群れがシーサーを取り囲み、激しく攻撃を続けている。
九条は戦いの中心を見ながら、軽く肩をすくめた。
「随分と派手に暴れてるやないか、奏ちゃん。
牛鬼、大変なことになっとるね。
つい心配になって飛んできてもうた」
東京・霞ヶ関。
内閣府が入る巨大な庁舎の一角、大会議場では、普段とはまるで違う慌ただしい空気が渦巻いていた。
長机がずらりと並べられ、資料の山が積まれ、通信機の呼び出し音が絶え間なく響く。
集まった職員や妖封士たちの表情は一様に硬く、足早に動き回る人々の影が壁に長く伸びていた。
その中心に、室長・相楽剛の厳つい姿があった。
彼は腕を組み、険しい顔で壁に貼られた地図を睨みつけている。
少し離れた席では、黒崎蓮が無表情でコーヒーをすすりながら、時折通信機の報告に耳を傾けていた。
そして、会議場の奥の窓際。
丸いサングラスをかけた長身の男、安倍零が立っていた。
彼は静かに窓の外——皇居外苑の方角を眺めていた。
いつもの飄々とした態度は残っているが、その視線はいつもより鋭く、遠くを見つめている。
東京でも、不穏な空気が確かに渦巻いていた。
室長が低く唸るように言った。
「……沖縄だけじゃねえな」
黒崎がコーヒーカップを置いて、ぼそりと返す。
「仙台、北海道、沖縄そして今度は東京……完全に狙われてる」
安倍零はサングラスを軽く押し上げ、静かに微笑んだが、その笑みにはいつもの軽さがなかった。
「やっと本気で動き出したみたいだね……」
会議場の空気が、さらに重く淀んでいく。
人々の慌ただしい足音と、通信機の緊迫した声が、まるで嵐の前触れのように響いていた。




