表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/87

私、悩みます

早朝の薄明かりが、本陣の簡易テントに静かに差し込んでいた。

淡い橙色の光が、粗末な布地の隙間から細く漏れ、地面に敷かれた寝袋を優しく照らす。

白峰澪はゆっくりと目を覚ました。

視界の端に、すぐ隣でじっと自分を見つめる御堂奏の姿があった。


御堂の視線は、白峰の左頰に釘付けになっていた。

まだうっすらと赤く腫れたその痕を見て、彼女の瞳が小さく揺れた。

昨夜、自分が叩いた手が、記憶の中で疼く。

胸の奥が鋭く締め付けられ、自責の念が波のように押し寄せてきた。

(……私が、澪ちゃんを……)

普段の凛々しい表情が崩れ、唇がわずかに震える。

御堂は小さく息を吐き、視線をわずかに落とした。

「……すみません。

昨日は、やり過ぎました」

その声は低く、普段の凛々しさとは違う、かすかな震えを含んでいた。

後悔と罪悪感が、言葉の端々ににじみ出ている。


白峰は腫れた頰をそっと指先で触れながら、ふわりと微笑んだ。

その瞬間、夢の中の情景が胸に蘇った。

黄緑色の柔らかな光。きみどりの温かい抱擁。そして、紅い髪の青年・蒼嵐の笑い声——

『大いに悩め、人の子よ』

あの言葉が、昨夜の痛みを優しく包み込んでくれた。

迷いながらも「悩み続ける」ことを肯定してくれた、あの温もり。

だから今、白峰の笑顔はどこか吹っ切れたように晴れやかだった。

朝の光の中で、眼鏡の奥の瞳が柔らかく輝き、頰の腫れさえも気にならないほど澄み渡っている。

痛みすら、優しい記憶に変わっていくような——そんな笑顔だった。

「大丈夫です」

穏やかで、けれど力強い声。

その言葉には、夢の中で得た決意が静かに宿っていた。


御堂は一瞬、言葉を失った。

白峰の吹っ切れたような笑顔を見て、胸の奥のしこりが、わずかに、けれど確かに揺らぐのを感じた。

まだ完全に溶けきらない後悔と、自分の未熟さを認めたくない苛立ちが残っている。

それでも、この後輩の笑顔は、昨夜の自分を否定するものではなく、ただまっすぐに受け止めてくれているようだった。

白峰はゆっくりと体を起こし、御堂の目を真っ直ぐに見つめた。

「私、悩みます!

まだ、何が正しいかわからないですけど……

でも、いっぱいいっぱい悩んで、それでもわからなかったら頼らせてください!」


その声は朝の光のように澄んでいた。

吹っ切れたような、晴れやかな笑顔。

夢の余韻ときみどりの温もり、蒼嵐の言葉、そして仲間たちへの信頼が混ざり合って、澪の顔を明るく輝かせている。

眼鏡の奥の瞳は、まるで夜明けの空のように希望を湛え、頰の腫れさえも今は優しい証のように見えた。

——一方、御堂奏はまだ、深い闇の中にいた。

白峰の晴れやかな笑顔を真正面から受け止めた瞬間、御堂の胸の奥で重い影がざわめいた。

昨夜の自分の手が、澪の頰を叩いた感触が、まだ生々しく残っている。

「甘い」と切り捨てた言葉が、喉の奥に棘のように刺さったまま離れない。

プライドと後悔、優しさを否定した自分自身への苛立ち——それらが絡み合い、朝の光が差し込むテントの中でも、彼女の心だけは暗く淀んだままだった。

表情は平静を装っているが、瞳の奥にはまだ深い闇が沈んでいて、完全に晴れる気配はない。

御堂は小さく、ほとんど息のような声で頷いた。

「……ええ」

その返事は短く、かすかに掠れていた。

白峰の明るさと対照的に、御堂の声にはまだ重い影が落ちている。

二人の間に、静かで、ほんの少しだけ温かい——しかし温度差のある沈黙が落ちた。

朝の光がテントの内側を淡く染め、白峰の影を長く明るく伸ばす一方で、御堂の影は濃く、どこか縮こまったように床にへばりついていた。

光と闇が、同じ空間に寄り添うように、静かに交差していた。


その時、隣で寝ていた凛がむくりと体を起こした。

「朝ごはんですかぁ……?」

間の抜けた可愛らしい声に、白峰と御堂は思わず顔を見合わせた。

白峰の頰はまだ少し痛んだが、その痛みさえ、今は不思議と優しいものに感じられた。

白峰が夢から醒めた直後。

夢の残滓がまだ薄く残る、不思議な空間の中で。

そこは黄緑色の柔らかな光が、ゆっくりと満ちては引いていく、まるで心の湖のような場所だった。

さっきまで迷いによって揺れていた空間は、白峰が「悩み続ける」と決めたことに呼応するように、静かに優しさを取り戻していた。

風は穏やかで、ほのかに甘い草の香りと、温かな陽だまりの匂いを運んでくる。


シーサーの本霊は、静かに佇んでいた。

燃えるような赤髪が、夢の風にゆっくりと揺れる。

その逞しい体躯は古びた威厳を湛えながら、瞳の奥には深い懐かしみが宿っていた。

紅い炎のような髪の間から覗く目は、遠い記憶を慈しむように細められ、穏やかで優しい光を帯びている。

その視線の先では、きみどりがまだ小さく手を振り続けていた。

黄緑色の着物を着た幼い少女は、消えてしまった白峰の残像に向かって、ずっと、ずっと手を振っている。

小さな手が、まるで大切な人をいつかまた会える日を信じて、優しく、けれど精一杯に動いていた。


シーサーはそれを横目に、ポツリと独り言のように呟いた。

「……苦しんでる、助けたいか」

青年は小さく、どこか自嘲するように笑った。

その笑みには、長い時を生きてきた者だけが知る、切なくも温かな懐かしさがにじんでいた。

「よもや、貴様と同じことを言うとはなぁ……」

その声は、夢の空間に静かに溶けていく。

低く、野太く、しかしどこか優しい響きを帯びて。

「血は争えぬ、というやつか

のぉ、晴明」


言葉の最後は、優しい光に紛れて消えた。

黄緑色の光が一層柔らかく包み込む中、シーサーの姿もゆっくりと薄れていく。

それでも、彼の瞳に浮かんだ懐かしい色だけは、最後まで残っていた。

きみどりはまだ、手を振り続けていた。

小さく、けれど精一杯に。

まるで、白峰のこれからの道を、ずっと見守るように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ