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一つ目、そして百の目

黒崎が晋介25号を構えたその直後、藤堂が素早く白峰の前に出た。


「白峰さん、下がって!」

藤堂の声に、普段の穏やかさとは違う、はっきりとした焦りが混じっていた。

いつもの柔らかいトーンが少し上ずり、息遣いもわずかに荒くなっている。


彼は右手で呪符を強く握りしめ、即座に人払いの結界を展開し始めた。

淡い紫色の光が三人の周囲に薄く張り巡らされると、結界の内側が急速に夜の帳に包まれていった。

昼間だったはずの境内が、まるで深い夜に変わる。

「不完全ですが……無いよりはマシです。

白峰さん、結界の外へ一緒に退避してください!」

藤堂の言葉の端々に、普段見せない緊張が滲んでいた。

彼は白峰の腕を軽く掴み、促すように後ろへ下がらせようとする。

その手が、ほんの少し震えているのがわかった。

白峰は慌てて頷いたが、足が思うように動かない。

(……藤堂さん、焦ってる……?

いつも落ち着いてるのに、声が少し上ずってる……

そんな藤堂さんが焦るくらい……この状況、ヤバいってこと……?)

頭の中が真っ白になりながらも、白峰はぎこちない動きで数歩後ずさった。

しかし、すぐに足がもつれてよろけた。

(……怖い……)

膝がガクガクと震え、足の裏が地面に吸い付いたように動かない。

心臓が激しく鳴り、息が詰まる。

頭の中が真っ白になり、ただ「怖い」という感情だけが全身を支配していた。

藤堂さんが守ってくれている。

それなのに、体が勝手に後ずさろうとして、逆にバランスを崩す。

(……動けない……

足が……言うことを聞かない……

あの中に……何かいる……

見えないのに、感じる……

見られている……

逃げたい……今すぐ逃げたいのに……!)

冷たい汗が一気に背中を伝い落ち、指先が小刻みに震える。

喉の奥がひゅうひゅうと音を立て、息を吸うのもままならない。

新入りだとか、ブラック企業とか、そんな考えすら浮かぶ余裕はもうなかった。

ただ、圧倒的な「何か」がすぐそこに迫っているという、原始的な恐怖だけが白峰を支配していた。


その瞬間——

祠が、不気味な青白い光を放ち始めた。

ゴゴゴ……という低い、地の底から響くような地鳴りが境内全体を震わせる。

空気がさらに重く淀み、鉄のような生臭い匂いが鼻腔を強く突いた。

まるで古い血と腐肉が混じり合った、吐き気を催すような臭いだった。


祠の奥から、ゆっくりと、何かが這い出てくる。

まず目に入ったのは、一つ目の巨躯だった。

三メートルを超える、異様に筋肉質な体躯。

肩から腕にかけて盛り上がった筋肉は岩のように硬く、青白い光を浴びて鈍く光っている。

頭部には鋭く湾曲した角が二本生え、背中や腕には刃物のように硬く逆立った剛毛がびっしりと生え揃っていた。

そして、顔の中央に——

大きく、黄色く輝く単眼が一つだけ据わっていた。

その単眼は濁った黄濁色で、腐った卵の黄身のようにねっとりと光り、表面に細かな血管が浮かんでいる。

瞳孔は縦に裂け、まるで爬虫類のような冷たい光を放ちながら、ゆっくりとこちらを捉えた。


白峰は思わず息を飲んだ。

(……百目鬼なのに……一つ目……?)

その瞬間、巨躯の単眼が、ぎょろりと大きく見開かれた。

視線が、白峰を直撃した。

それはただ「見られた」という感覚ではなかった。

湿った舌で全身を舐め回されるような、ねっとりとした、貪欲で粘着質な視線。

単眼の奥に、底知れぬ飢えと怒りが渦巻いているのがはっきりと感じ取れた。

白峰の体が、凍りついたように動かなくなった。

喉が締め付けられ、声が出ない。

膝がガクガクと震え、足の力が抜けていく。

(……見られてる……

あの目が……私だけを……

冷たい……気持ち悪い……

逃げなきゃ、逃げなきゃ……!)

巨躯の単眼が、さらに細められ、獲物を確かめるようにゆっくりと回転した。

その動き一つ一つが、白峰の心臓を鷲掴みにするような圧迫感を伴っていた。


百目鬼なのに一つ目

——その疑問が頭をよぎった、次の瞬間——

結界の内側、夜の帳が下ろされた中空に、無数の目が浮かび上がった。

まるで星空が腐敗したかのように、暗い虚空に眼球が散らばっていく。

大きさも形もばらばらだった。

人間の目より大きいもの、小さいもの、血走って真っ赤なもの、濁って白く死んだようなもの、異様に輝く金色のもの、涙を垂らしてぐずぐずと溶けかけたもの……

百個、いや、それ以上。

一つ一つの目が、ゆっくりと回転しながらこちらをじっと見つめていた。

瞳孔が収縮したり拡張したりを繰り返し、まるで生きた獲物を舐め回すように、ねっとりと視線を這わせてくる。


白峰の背筋に、冷たい戦慄が走った。

それはただ「見られている」という感覚ではなかった。

何百という目が、同時に自分の体を内側から掻き毟り、皮膚の下の肉を、血管を、臓器を、魂の奥底まで覗き込んでいるような——

粘着質で、貪欲で、決して離れない圧力だった。

肌が粟立ち、鳥肌が全身を駆け巡る。

胃の奥が激しくむかつき、喉の奥が締め付けられて、吐き気と息苦しさが同時に襲ってきた。

指先が冷たく痺れ、膝がガクガクと震えて、立っているのがやっとだった。

(……目が……たくさん……

全部、私を見てる……

体の中まで……見られてる……

気持ち悪い……

熱い……冷たい……

逃げたい……今すぐ逃げたい……

でも、足が……動かない……)


白峰の視界が、わずかに揺れた。

息を吸うたび、肺に冷たく粘つくものが入り込んでくるような気がして、吐き気がこみ上げてくる。

頭の中で「逃げて」というさっきの声と、今この無数の視線が重なり、恐怖が倍増していく。

藤堂は結界を維持したまま、嫌に冷静な声で呟いた。

「……なるほど、百の目ですか。

昔の人は、百以上を数えられなかったのでしょうね……」


その言葉が終わらないうちに、空に浮かぶ無数の目が一斉に細められた。


祠から現れた一つ目の巨躯が、低く唸るような声を上げながらゆっくりと前進を始めた。

ゴゴゴ……ゴゴゴ……

地鳴りがさらに大きくなり、地面が小刻みに震える。

祠の周囲の空気が歪み、ねじれ、まるで現実が溶けていくような異様な揺らぎが生まれた。

白峰の膝が、がくんと小さく震えた。

(……これが……百目鬼……?)


頭の中が真っ白になる。

思考がうまく繋がらない。

視界が狭くなり、息が浅く速くなる。

胸の奥が激しく鳴り、鼓動が耳の奥まで響いている。

無数の目が、ゆっくりと回転しながら自分を捉えている。

一つ一つの視線が、皮膚を突き刺し、肉を掻き分け、骨の隙間まで入り込んでくるような気がした。

冷たい汗が背中を一気に伝い落ち、シャツが肌に張り付く。

指先が資料を握る手に白くなるほど力を込めているのに、指がほとんど感覚がない。

喉がひゅうひゅうと音を立て、吐き気がこみ上げてくる。

(……見られてる……

全部の目が……私を……

体の中まで……覗かれてる……

熱い……冷たい……

頭が……おかしくなりそう……

声が出ない……助けて……誰か……)


祠の奥から這い出た百の目を持つ怪物は、まだ完全な姿を現していない。

それなのに、その存在感だけで境内全体を圧倒し、息苦しいほどの恐怖を撒き散らしていた。

白峰の視界が、わずかに揺れた。


現実が遠のいていくような、浮遊感と同時に、地面に引きずり込まれるような重圧が交互に襲ってくる。

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