ネムリカラサメルヨ
食事を終えてから三十分後。
白峰はまだ口の中に残る味を思い出していた。
あきる野の路地裏にあった少し小汚い街中華屋。
外観は正直あまり期待できなかったのに、出てきた特製天津飯と餃子は驚くほど美味しくて、思わず舌鼓を打ってしまった。
ふわふわの卵と甘酸っぱいあんが絡んだ天津飯の味わいが、今も舌に残っている。
藤堂が「この辺りの店は当たりが多いんですよ」と自慢げに言っていた言葉が、妙に印象に残っていた。
(……今はそんなこと考えてる場合じゃないのに……
でも、あの天津飯、本当に美味しかった……
いや、ダメ! 集中しなきゃ……)
そんな少しのんきなことを考えながら、車は目的地に到着した。
あきる野市郊外の、鬱蒼とした森に囲まれた古い神社周辺。
車を降りた瞬間、白峰は思わず息を飲んだ。
空気が……重い。
まるで目に見えない粘つく霧が、ゆっくりと体に絡みついてくるような感覚だった。
湿った布を顔に押し当てられたような不快な圧迫感が、肌の表面だけではなく、肺の奥や胸の奥まで染み込んでくる。
昼間だというのに、光が妙にくすんで見える。
木々の葉は風もないのに微かにざわめき、地面からはじっとりと冷たい湿気が這い上がってくる。
鳥の声も、虫の音も、まるで遠くの別世界から聞こえてくるように薄く、遠い。
(……なんだ、これ……?
ただの森なのに……空気が違う……)
白峰は無意識に一歩、後ろに下がりかけた。
しかし、その瞬間——
先を行く黒崎と藤堂の背中が、すでに数歩先まで進んでいることに気づいた。
(……あっ……!)
白峰は慌てて足を前に出した。
心臓がどきりと鳴る。
(待って……置いてかれる……!
こんな所に1人で置いてかないで……!)
彼女はぎこちない動きで二人の後を追いかけた。
足が少し震えているのが自分でもわかった。
黒崎は眉を深く寄せて周囲を見回しながら足早に歩く。
「……なんだ、この霊的濃度。
昼間だっていうのに、随分と濃いな」
藤堂も眼鏡の奥で目を細め、静かに頷いた。
「ええ……明らかに異常です。
定期巡回で来た前回より、かなり上がっています」
白峰は二人の会話を聞きながら、喉が乾くのを感じた。
(息をするたびに、何かが肺に入ってくるような……
不快で、気持ち悪い……)
森の奥から、じっとりと視線を感じるような気がした。
まだ何も見えていないのに、背中がぞわぞわと粟立つ。
やがて、境内の奥にある小さな祠の前に辿り着いた。
古びた木造の祠は、まるで長い年月を耐え忍んできたように、苔むした石段と歪んだ柱が痛々しい。
周囲の空気はさらに重く、湿った土の匂いと混じり合って、息苦しいほどの圧迫感を増していた。
黒崎が祠の前にしゃがみ込み、封印の札を指で軽く触れた瞬間――
「……チッ」
黒崎の短い舌打ちが、静まり返った境内にかすかに響いた。
その音で、白峰の心臓が跳ね上がった。
黒崎の指先で、封印の札が端からボロボロに崩れ落ちていく。
墨で書かれた呪文の大部分が薄れ、ほとんど読めなくなっていた。
紙自体が湿気と経年で脆くなり、触れただけで粉のように崩れる。
封印の力が、明らかに弱まっている。
藤堂の表情も一瞬で引き締まった。
いつもの穏やかな笑みが消え、眼鏡の奥の目が鋭く細められる。
「これは……危険な状態ですね。
まだ完全に解けてはいませんが、かなり余裕がありません。
このままでは、数日以内に自力で解ける可能性が高いです」
白峰は二人のやり取りを聞きながら、喉がからからに乾くのを感じた。
(……封印って……こんなに簡単に崩れるものなの……?)
黒崎はゆっくりと立ち上がりながら、短く、しかし迷いのない指示を出した。
「藤堂、すぐ黒子班に連絡入れろ。再封印の準備を急げ。
人員は最低でも三人、結界用の式神も持ってこい。
今日中に終わらせるぞ」
「了解です」
藤堂はすぐにスマホを取り出し、素早く連絡を始めた。
指の動きは冷静だが、声のトーンは低く、緊迫している。
白峰はただその場に立ち尽くし、二人の背中を見つめていた。
先輩たちは即座に動いている。
指示を出し、連絡を取り、状況を冷静に判断している。
そんな中、白峰は思う。
(……この空気……本当に気持ち悪い……
今すぐ逃げ出したい……)
彼女は無意識に資料を抱える手に力を込めた。
指先がわずかに震えているのが、自分でもはっきりわかった。
黒崎は白峰の方を振り返り、いつものくたびれた口調で言った。
「まあ、これでひと段落だ。
お前はもう十分見学しただろ。直帰しても良いぞ、新入り」
白峰は少し驚いた顔で黒崎を見上げた。
「……え? でも、まだ……」
頭の中が真っ白になった。
(……直帰?
今この状況で?
封印がボロボロで、みんなが緊急対応してるのに……私だけ帰っていいってこと?
置いてかれる……?
新入りの私は、もう用済みってこと……?)
胸の奥がざわつく。
先輩二人が即座に動いている横で、自分だけがここに立っていることが、急に申し訳なく、情けなく感じられた。
まだ何もできていない。
何もわかっていない。
なのに、帰っていいと言われてしまうなんて——
その瞬間――
白峰のすぐ近くで、か細く、消え入りそうな声が響いた。
『……ニゲテ……』
白峰はビクリと肩を激しく震わせた。
(……え?)
声は確かに「逃げて」と言っていた。
小さくて、掠れていて、まるで喉を潰されたような、苦しげな響き。
それなのに、耳の奥に直接染み込んでくるような、はっきりとした言葉だった。
白峰は慌てて周囲を見回した。
しかし、誰も反応していない。
黒崎はまだスマホを操作中の藤堂に何か指示を出しており、藤堂も真剣な顔で頷いている。
二人の表情に、声に対する変化は一切ない。
(……今、聞こえたよね……?
「逃げて」って……
私のすぐそばで……
でも、黒崎さんも藤堂さんも何も……
私だけに聞こえた……?
どうして……?)
声の余韻が、耳の奥でじんわりと残っている。
まるで冷たい指で耳の内側をなぞられたような、不快で不気味な感覚。
同時に、胸の奥から込み上げてくるのは、得体の知れない恐怖だった。
白峰は無意識に一歩、後ろに下がりかけた。
しかし、すぐに足を止めた。
(……待って。
今、声がした……
逃げてって……誰が言ってるの……?
この祠の中……?
それとも、私の頭の中……?)
彼女の指が、資料を抱える手にぎゅっと力を込めた。
手のひらがじっとりと汗ばんでいるのが、自分でもはっきりわかった。
白峰が戸惑っているその時――
祠の封印札が、突然、乾いた大きな音を立てて裂けた。
バキィッ!
次の瞬間、封印が完全に解かれた。
「っ……!?」
白峰の目が大きく見開かれた。
祠の周囲の空気が一気に歪んだ。
まるで空間そのものがねじ曲がるような、目に見えない力が爆発的に膨れ上がる。
濃密な霊的濃度が、濁流のように一気に溢れ出し、境内全体を飲み込んだ。
地面が微かに、しかし確実に震え始めた。
木々の葉が一斉にざわめき、昼間だというのに周囲の光が急速にくすんでいく。
空気が重く淀み、息をするたびに肺に冷たく粘つくものが入り込んでくるような感覚。
黒崎の表情が一変した。
「くそっ……! 急に解けやがった!
藤堂、黒子班の到着を急がせろ! 今すぐだ!」
黒崎は舌打ちしながら、ジャケットの裏に手を滑り込ませ、携行用の簡易退魔銃を素早く取り出した。
火力に不安があるとわかりつつも、咄嗟にそれを構えるしかなかった。
その直後——
白峰のすぐ耳元で、今度ははっきりと、粘つくような声が響いた。
『ネムリカラサメルヨ』
白峰は息を詰めた。
声は低く、ねっとりと絡みつくような響きだった。
古い井戸の底から這い上がってくるような、湿った、冷たい、腐ったような気配を伴って、直接頭の中に染み込んでくる。
(……声が……また……!
今度は「眠りから覚めるよ」……?
誰が……誰が言ってるの……?
私だけに聞こえてる……
この声、苦しそうで、怒ってるみたいで……
逃げてって言った次の言葉がこれ……?
どういうこと……?)
祠の奥から、複数の視線を感じるような不気味な気配が、ゆっくりと、しかし確実に膨れ上がっていく。
それはただの「視線」ではなかった。
何十、何百という目が、同時にこちらを凝視しているような、粘着質で貪欲な圧力。
白峰の背筋に、冷たい汗が一気に伝った。
膝が小さく震え、指先が資料を握る手に白くなるほど力を込めてしまう。
周囲の空気が、さらに重く、冷たく、淀んでいく。
白峰は無意識に一歩、後ろに下がった。
しかし、足がもつれてうまく動かない。
(……動けない……
この気配……私を見てる……
逃げてって言った声……
でも、どこへ逃げればいいの……?)




