みんなにはナイショ
漆黒の霊虎が現れた瞬間、戦場の空気が一変した。
今まで倒してきた分霊たちを圧倒的に凌駕する、底知れぬ冷気と濃密な負のオーラが吹雪を支配する。
周囲の雪が黒く染まるように変色し、地面が凍てつく音を立ててひび割れていく。
その巨体は先ほどまでの白虎とは比べ物にならないほど大きく、漆黒の毛並みは光を吸い込むように暗く輝き、赤く燃える瞳は一切の慈悲を凍りつかせた残酷な光を放っていた。
室長を一撃で倒し、雪華の攻撃すら凌駕した強大な力が、更に増幅されているのが肌で感じ取れた。
空気が重く淀み、息を吸うだけで肺が凍りつきそうな冷気が、戦場全体を支配する。
雪華は複雑な表情を浮かべながら、白峰に語りかけた。
「とうとう2人になっちゃったわねェ……
まあ、こんな状況でもあたしがいるんだから、なんとかなるわヨォ!」
そう言いながら、雪華は倒れ込んだ室長の周囲に強固な氷の壁を展開した。
室長を守るための、厚く透明な防壁だった。
白峰は息を荒げながら頷いた。
連続した極限の戦闘と慣れない雪上での動きで、肺が焼けるように熱く、足が鉛のように重い。
息が絶え絶えで、言葉を出すのもやっとだった。
肩で荒く息を繰り返し、視界が少しぼやけている。
「雪華さん……ありがとう……」
雪華はそんな白峰の様子を見て、胸の奥でわずかに痛むのを感じながらも、明るく笑ってみせた。
(……この子、もう限界なのに……まだ頑張ってる……)
しかし、霊虎の様子は明らかに異常だった。
体が時折激しく痙攣するように震え、苦しげな低いうなり声が喉の奥から漏れ続けている。
漆黒の毛並みの下で、融合した雪女たちの魂が暴れているかのように、不自然な波紋が表面を走る。
雪華が眉を寄せ、警戒を強めた。
「苦しんでる……?」
次の瞬間、霊虎は雪華を狙い、猛烈に飛びかかってきた。
「危ない!」
白峰が間に入り、真田丸8式でその一撃を受け止めた。
ガキィィンッ!!
凄まじい衝撃が刀身を伝わり、白峰の両腕を激しく震わせる。
彼女は雪の上を滑りながら後退し、かろうじて体勢を保った。
その直後、霊虎の体が激しく痙攣した。
苦痛に満ちた咆哮を上げながら、融合したはずの雪女の一部が、無造作に排出された。
ぼろぼろの姿で雪の上に落ち、弱々しい鳴き声を上げながら、ゆっくりと消えていく。
雪華が即座に氷の槍を生成して反撃しようとしたが、霊虎は止まらない。
再び飛びかかり、今度は白峰を狙った二撃目を放つ。
白峰は必死に刀を振り上げて受け止めたが、衝撃で膝が折れそうになる。
「う……っ!」
二撃目を放った霊虎の体が、再び激しく震えた。
今度は二体の雪女が同時に排出され、雪の上に倒れ伏して消えていく。
その姿は苦しみに満ち、まるで霊虎自身が自分の力を制御しきれていないかのようだった。
雪華が歯を食いしばりながら叫んだ。
「この子……自分の力に耐えきれていない……!」
白峰は息を荒げ、震える腕で刀を構え直した。
防戦一方で、攻撃する隙すら見つけられない。
恐怖と疲労で視界が狭くなりながらも、必死に霊虎の動きを目で追う。
霊虎は三度、苦しげな咆哮を上げながら二人に襲いかかった。
今度は巨大な爪の一撃が雪華を狙う。
雪華は氷の壁を展開して受け止めたが、壁が大きくひび割れ、衝撃で後ろに吹き飛ばされそうになる。
「くっ……!」
その三撃目で、また二体の雪女が霊虎の体から排出された。
雪の上に落ち、弱々しく身をよじりながら消えていく姿は、痛々しく、哀れだった。
白峰は息を荒げ、汗と雪で濡れた顔を上げた。
(……苦しんでる……
この子も、ただ操られているだけなのに……!)
陰から姿を現した芦屋影人が、静かに呟いた。
「なるほど……分霊如きでは、あのレベルの負のエネルギーに耐えきれなかったのですね……」
影に沈んだ顔の奥で、唇だけがゆっくりと歪む。
その笑みは、まるで虫を踏み潰すような愉悦に満ち、冷たく湿った声が雪の中にねっとりと溶け込んでいく。
満足そうに頷き、芦屋影人は冷たい声で続けた。
「では妖封士の皆様、また会いましょう。
生きていれば……ね」
不気味な笑みを残し、部下たちと共にその姿を消した。
その笑顔は最後まで、獲物を玩具にするような、底知れぬ残虐さと愉悦を湛えていた。
その間も霊虎の攻撃は止まらない。
一撃を入れるたびに、苦しそうに低く呻き声を上げ、融合していた雪女たちを無造作に排出していく。
排出された雪女は雪の上に落ち、弱々しく身をよじりながら消えていく。
白峰は必死に避け、時に真田丸8式で受けながら戦っていたが、その光景に胸が締め付けられ、涙が止まらなくなった。
(……苦しんでる……
あの子たち、みんな……自分の意志じゃないのに……
怖いけど、それでも……どうして……こんなに……)
自らの命を狙う敵に対して、それでも苦しむ姿に心が痛み、優しさが溢れ出す。
恐怖と葛藤が激しく混じり合い、視界が涙でぼやける。
ひっ迫する戦場の中で、白峰の優しさは危ういほど純粋で、敵を憎めない自分自身にさえ苛立ちを覚えていた。
直後、霊虎の渾身の一撃が雪上に叩き込まれ、白峰と雪華は大きく吹き飛ばされた。
雪の上に転がりながら体を起こした白峰は、涙を拭いながら立ち上がった。
頰を伝う涙が雪に落ち、すぐに凍りつく。
その姿を見た雪華は、静かに覚悟を決めた。
彼女は人間として生きてきた。
もう二度と、あの冷たい力に頼るつもりはなかった。
それが彼女の、長い間守り続けてきた決意だった。
しかし今、自らの命を狙う妖怪にすら涙を流す白峰の優しさに触れ、雪華の胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
自らに科した枷を、外す時が来たのだ。
「……もう、限界ね……」
雪華の声は小さく、震えていた。
扇子を握る手が白くなり、銀色の髪が冷たい風に乱れる。
瞳の端に、うっすらと涙が浮かんだ。
「もう2度と使わないと誓った力……
今、解放するわ……」
霊的濃度が急激に上昇するのを感じ、白峰は雪華の方をバッと見た。
そこには、優しい光に包まれる雪華の姿があった。
いつもの派手な笑顔の奥に、深い悲しみと、妹たちを守りたいという切実な想いが溢れていた。
雪華はいつもの明るい笑顔で、しかし少し寂しげに、涙を堪えながら言った。
「みんなにはナイショヨォ〜!」
そう言いながら、雪華の体は完全に光に呑まれていった。
その光は温かく、しかしどこか切なく、吹雪の中で静かに輝いていた。




