可愛い部下を
黒崎が氷柱に抉られた腹部を押さえながら膝をついた瞬間、白峰の胸に激しい衝撃が走った。
「黒崎さん!」
悲痛な叫びが、吹雪の白い世界に響き渡った。
今まで一番頼りになり、ぶっきらぼうに守ってくれていた先輩が、雪の上に膝をつき、鮮血を撒き散らしている姿が信じられなかった。
(……黒崎さん……!
一瞬で……!)
恐怖と無力感が喉を締め付け、視界がぼやける。
仙台の戦いでも感じた、あの「守られるばかり」の悔しさと罪悪感が、再び白峰の心を抉った。
足が震え、雪に埋もれそうになる中、それでも彼女は必死に黒崎の方へ駆け寄ろうとした。
御堂はすぐに牛鬼に指示を出しながら、声を張り上げた。
「牛鬼、援護を! 黒崎さんを……!」
室長も低く吼えた。
「なんで西の守り神が北海道なんかに封印されてんだ!」
雪華が扇子を握りしめ、叫び返した。
「事情があるのヨォ! 今はそんな事より……!」
しかし、その声が終わるより早く、白虎の巨大な白い爪が閃いた。
ガァァァンッ!!
凄まじい衝撃音が響き、牛鬼の漆黒の巨体が大きく後退した。
肩から胸にかけて深々と抉られ、黒い体液が雪の上に大量に飛び散る。
牛鬼は苦痛の咆哮を上げながらも耐えようとしたが、次の瞬間——
地面が爆発した。
無数の氷柱が、爆発的に噴き上がり、牛鬼の四肢・胴体・首筋を同時に串刺しにした。
ズドドドドッ!!
鋭い氷の槍が漆黒の体を貫き、牛鬼を白い氷の檻のように拘束する。
巨体が激しく痙攣し、断末魔のような咆哮が森全体を震わせた。
やがて牛鬼は膝を折り、雪の中にゆっくりと崩れ落ちた。
御堂の顔が一瞬で青ざめた。
「……継戦不能ですわ……」
呪符の光が完全に失われ、彼女の瞳に苦渋と自責の念がはっきりと浮かぶ。
長年共に戦ってきた式神が、自分の力不足で倒された事実に、普段の優雅さが崩れ落ちるほど打ちのめされていた。
「後は任せて黒崎を連れて撤退しろ!」
室長・相楽剛が低く吼え、一人で前に出た。
がっしりした体躯に、静かな怒りが宿る。
御堂が慌てて声を上げた。
「室長! 私もまだ戦えます! 黒崎さんを連れて行くのは……」
「うるせえ。黙って連れてけ。
お前がここに残っても、足手まといになるだけだ」
冷たく、しかし有無を言わせぬ言葉。
御堂は唇を強く噛み、悔しげに拳を握りしめたが、結局黒崎を抱きかかえて後退した。
室長は一人、雪の中に立ち、静かに、しかし確かな怒りを込めて呟いた。
「よくもうちの可愛い部下を……」
その瞬間、室長の気が爆発的に膨れ上がった。
50代の体躯からは想像もつかない重く熱い氣が、周囲の雪を溶かすほどの圧力を放つ。
白虎が低く唸り、巨大な白い爪を振り下ろした。
しかし室長は、低い重心で雪を蹴り、紙一重でそれをかわした。
雪煙を上げながら間合いを詰め、メリケンサックをはめた右拳を、白虎の脇腹に叩き込んだ。
ドンッ!!
続けて左の拳を顎の下へ。
ガンッ!!
白虎の巨体が大きくのけぞり、雪の上に深い爪痕を残しながら後退する。
室長は一瞬の間も置かず、雪を蹴って追撃。
回転を加えた強烈な右ストレートが、白虎の側面を抉るように炸裂した。
ドゴォンッ!!
一撃ごとに白虎の動きが鈍くなり、室長の攻撃は派手さはないが、経験に裏打ちされた重く的確な連打だった。
50代とは思えない俊敏さと、確実な破壊力。
「まだだ!」
室長は低く吼え、3連撃を叩き込んだ。
右拳で脇腹を抉り、左拳で顎を打ち上げ、最後に全身の体重を乗せた回転ストレートで胴体を貫くような一撃を放つ。
ドンッ! ガンッ! ドゴォンッ!!
白虎の巨体が大きく吹き飛び、雪の上を滑るように後退した。
その隙を突いて雪華が扇子を振り、
「雪華ちゃんの氷の舞いよ~!」
地面から鋭い氷柱が噴出し、白峰も真田丸8式を振り上げて飛び込んだ。
室長の活躍は、絶望的な状況に一筋の光を差し込むような、圧巻のものだった。
しかし——
「可哀想じゃないですかぁ……」
聞き覚えのある、ねっとりと湿った声が吹雪の中に響き渡った。
芦屋影人は、さっき後退したはずの位置から、影に溶け込むようにして戦場を静かに見守っていた。
その手には、仙台で見た忌々しい魔封じの玉が、再び不気味に紫黒く輝いている。
室長の顔が一瞬、強張った。
「てめえ……!」
しかし時すでに遅く、芦屋は愉しげに笑いながら玉を掲げた。
怪しげな光が爆発的に広がり、白虎の巨体を包み込む。
「ぐっ……!」
室長の体が大きくのけぞった。
その直後、光の中から飛び出した鋭い黒い何かが、室長の胸を深く貫いた。
メリケンサックをはめた拳が力なく雪の上に落ち、鮮血が白い雪を赤黒く染めていく。
「クソったれ……油断しちまった……」
室長は低く呻き、片膝をついた。
その逞しい体が、ゆっくりと傾いていく。
光が収束すると、そこに現れたのは——
かつての美しい白さが、禍々しい漆黒に染め上げられた霊虎だった。
体躯は先ほどよりも一回り大きく、黒い毛並みは闇そのものを纏ったように光を吸い込み、冷たい赤い瞳が一行を残酷に見据えている。
負のエネルギーが全身から黒いオーラとなって吹雪の中に揺らめき、触れるだけで魂を腐らせそうな気配を放っていた。
雪華の顔が真っ青になった。
「……魔封じの玉で負の力を注入したのね……!
あれはもう、ただの白虎じゃない……!」
白峰は息を飲んだ。
(……室長さんが……一瞬で……!)
御堂はすでに黒崎を抱きかかえて後方へ撤退している。
今この場に残っているのは、白峰と雪華の二人だけだった。
漆黒の霊虎は低く底鳴りするような唸りを上げ、ゆっくりと二人に向かって歩み寄ってきた。
その一歩ごとに地面が凍りつき、雪が黒く染まっていくような不気味な気配が広がる。
白峰の指が、真田丸8式の柄を強く握りしめた。
震える手の中で、刀身がわずかに震える。
(……もう、守られるだけじゃ……嫌……!
黒崎さんも、室長さんも……みんなを……!)
彼女は歯を食いしばり、雪を蹴って一歩前に出た。
眼鏡の奥の瞳に、恐怖を押し殺した決意の光が宿る。
雪華も扇子を強く握りしめ、白峰の横に並んだ。
「澪ちゃん……! 来るわよ!」
吹雪が激しく舞う中、二人の少女と、漆黒に染まった守り神の対峙が始まろうとしていた。




