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遅くなってごめんね

一匹の子蜘蛛が白峰に向かって猛烈に襲い掛かった。

その蜘蛛の複眼は、はっきりと紫色をしていた。

(……紫さん……!?)

白峰は息を飲んだ。

紫の脚が容赦なく振り下ろされた。

それは明確な殺意を宿した一撃だった。

鋭く尖った脚の先端は風を切り裂き、白峰の頭部を狙って一直線に叩きつけられる。

迷いも、躊躇も、一切ない。

ただ「この人間を殺す」という冷たい意志だけが、紫の全身から溢れ出していた。

白峰の体が凍りつき、晋介25号を構えることすらできない。

その瞬間——

影が、白峰の前に割り込んだ。

紫の脚が放った殺意の籠った一撃を、その影が真正面から受け止めた。

顔を上げた白峰の視界に入ったのは、用事ができたと言って去ったはずの安倍零だった。

安倍は真田丸8式を軽く構えたまま、いつもの飄々とした笑みを浮かべ、軽く肩をすくめて言った。

「遅くなってごめんね、ミオちゃん。

お届け物だよ」


紫の一撃を受け止めたのは、白峰が工房で一目見て魅了された、真田丸8式だった。

突然の敵に警戒した紫は、素早く距離を取った。

安倍零は刀を軽く振ってから、白峰に向かって言った。

「これはきついね……

真田丸8式の気を吸い取る性質に、すっかり参っちゃったよ」

そうぼやきながら、彼は刀を白峰に差し出した。

白峰は真田丸8式を見つめたまま、動けなかった。

待ち侘びていたはずの刀。

箱根の工房で初めて見たとき、心を奪われた美しい刀身。

なのに、今、手を伸ばすことができない。

受け取ったら——

本当に、紅葉さんや紫さんと戦わなければならなくなる。

優しかった記憶が、頭の中でぐるぐると回る。

紅葉の穏やかな微笑み、紫がおだんごを運んでくれた温かい手、きみどりを一緒に可愛がってくれた時間……

そのすべてを、目の前の刀を受け取ることで、敵として切り捨てることになる。

白峰の指が、微かに震えた。

安倍零は白峰の迷いを見透かしたように、くすくすと笑った。

「早く受け取ってくれないと、僕倒れちゃうよ?

こいつ、ずっと僕の気を吸ってくるんだ。

ほら、ミオちゃんが受け取ってくれないと、僕が先にやられちゃう」

その言葉は軽やかだったが、どこか計算された響きがあった。

白峰は唇を強く噛み、迷いながらも、ゆっくりと手を伸ばした。

……渋々、というより、覚悟を先送りにするような重い動作で、真田丸8式の柄を握った。

刀の重みが、手のひらにずしりと伝わってくる。

その瞬間、白峰の胸に、再び強い迷いが襲いかかった。

(……これで、本当に……

彼女たちと、戦うことになるの……?)

安倍零は満足げに小さく微笑みながら、軽く手を振った。


刀の柄を握る手が、微かに震えている。

ふと視線を上げると、紫と、その先にいる巨大な紅葉の姿が見えた。

二人は、とても苦しんでいるように見えた。

紅葉の巨大な体は負のオーラに蝕まれ、時折激しく痙攣するように震えていた。

しかしその震えは、ただの痛みによるものではなかった。

まるで自分の意思に反して体が動かされているかのように、不自然で、ぎこちない。

巨大な脚が地面を踏む動きすら、どこか強制されたようにぎくしゃくとしており、紅葉の複眼には、苦痛と苛立ち、そして「戦いたくない」という強い拒絶の色が浮かんでいた。

紫も同じだった。

紫色の複眼が、痛みと葛藤で激しく揺れていた。

脚を折り曲げ、体を低く沈めながらも、まるで糸に操られる人形のように、強引に前へ進もうとしている。

彼女の動きには、明らかに「自分の意志ではない」違和感が満ちていた。

戦いたくないのに、戦わされている。

その苦しみが、紫の全身から痛いほど伝わってくるようだった。

白峰の視線は、自然と周囲の戦場へと移った。

他の子蜘蛛たちも、皆が同じだった。

緑色の体液を流しながら脚を痙攣させ、弱々しい甲高い声を上げている。

その動きは一様に不自然で、まるで目に見えない鎖に繋がれ、強制的に戦わされているように見えた。

敵意を剝き出しにしていると感じた複眼が、今はただ苦痛と抵抗で曇っていると感じる。

その光景を見た瞬間、白峰の胸に鋭い痛みが走った。

(……紅葉さん……紫さん……

みんな……戦いたくないのに……

自分の意思じゃないみたいに……苦しそう……)

その時、忽然と消えたはずの少女の声が、白峰の頭の中に響いた。

『おねえちゃん、紅葉たち、泣いてるよ』

きみどりの声は、どこか遠くから届くような神秘的な響きを持ちながらも、柔らかく、優しく、白峰の心をそっと包み込むような温かさがあった。

まるで耳元で囁かれているかのように近く、しかし夢の中の声のように儚い。


その一言が、白峰の心に静かに、しかし確かに染み渡った。

今まで胸の奥で渦巻いていた迷いが、晴れるように視界がクリアになった。

優しかった。

笑顔でだんごを勧めてくれた。

「安心しなんし」と言ってくれた。

あの温かさが、嘘だったはずがない。

でも、今、彼女たちは苦しんでいる。

白峰はゆっくりと息を吸い込んだ。

肺の奥まで冷たい空気が入り、胸の奥の震えを少しだけ鎮める。

覚悟を決めるように、真田丸8式の鞘から刀身を抜いた。

刀身が鞘から出る小さな金属音が、戦場の喧騒の中でやけに大きく響いた。

白峰は初めて、自らの足で戦場に一歩を踏み出した。

その一歩は小さく、膝が震え、足元が心許なかった。

しかし、それは確かに——これまで誰かに守られ、迷いながらも流されるだけだった白峰が、自ら選んだ一歩だった。

安倍零はそれを見て、満足げに小さく微笑んだ。

「ようやく、その気になったみたいだね」

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