紫さん
巨大な女王蜘蛛がゆっくりと動き出した。
その進む道を開けるように、子蜘蛛たちが左右に散っていく。
紅葉の気品を残した禍々しい姿が、黒崎と牛鬼に向かって迫る。
黒崎は即座に判断し、御堂と白峰に短く指示を出した。
「近づいて仕留める。援護しろ!」
御堂は即座に頷き、牛鬼を操りながら呪符を展開した。
「了解ですわ。道を作ります!」
牛鬼の巨体が子蜘蛛たちを薙ぎ払い、黒崎のための道を切り開いていく。
だが、白峰の体は動かなかった。
恐怖による硬直ではない。
一度は心を通わせた女郎蜘蛛たちが、子蜘蛛として散っていく様が、どうしても耐えられなかった。
黒崎が一瞬、白峰を振り返った。
その目は苛立ちに満ちていた。
「新入り! 何やってんだ! 早く動け!」
黒崎の声は鋭く、戦場の中で響き渡った。
彼の苛立ちは、白峰の動けない姿に対する苛立ちと、目の前の大妖怪に対する苛立ちが混じり合っていた。
御堂も白峰の様子に気づき、焦りを隠せない声で呼びかけた。
「澪ちゃん! しっかりなさい!
今は……今は戦わなければ……!」
御堂の言葉は心配でいっぱいだったが、状況が状況だけに、優しく宥める余裕はなかった。
彼女は白峰を気遣いつつも、牛鬼を操る手を緩めずに戦闘を続けている。
白峰は晋介25号を握る手に力を込めたが、指が震えて思うように動かない。
心の中で、昨夜の温かい記憶と目の前の現実が激しくぶつかり合っていた。
(紫さんも……紅葉さんも……
どうして、こんな……)
その時、黒崎がゼロ距離からデッドノックを構え、渾身の一撃を放った。
バァァァァンッ!!
13mmの重弾が炸裂した瞬間、耳をつんざくような爆音が戦場を支配した。
銃口から噴き出した火炎と衝撃波が空気を引き裂き、周囲の地面が放射状に爆ぜ飛んだ。
圧倒的な出力の弾丸は、紅葉の巨大な甲殻に直撃し、黒い甲殻が大きく凹み、放射状の亀裂が走った。
緑色の体液が噴水のように飛び散り、衝撃で紅葉の巨体が大きく後ろにのけぞる。
一瞬、誰もが息を飲んだ。
デッドノックの一撃は、大入道ですら一撃で屠った黒崎の切り札。
その威力はまさに「死のノック」——相手の存在を叩き潰すほどの破壊力を秘めていた。
しかし——
紅葉の巨体は、よろめきながらも、倒れなかった。
凹んだ甲殻がゆっくりと再生するように盛り上がり、亀裂が音を立てて塞がっていく。
巨大な腹部が波打ち、紅と金の文様が不気味に輝いた。
大妖怪の耐久力は、人間が想像する限界を遥かに超えていた。
紅葉の複眼が、ゆっくりと黒崎を捉える。
その瞳には、痛みと怒りが混じり合いながらも、圧倒的な余裕すら感じられた。
先ほどまで優しく微笑んでいた女性の面影は、もうほとんど残っていない。
御堂が目を見開き、思わず声を上げた。
「ま……まさか……!
あの一撃を……ほぼ無傷……!?」
御堂の声には、驚きと動揺がはっきりと混じっていた。
いつもの優雅な態度が崩れ、彼女の瞳に強い緊張が浮かんでいる。
白峰も息を飲んだまま、言葉を失っていた。
(……紅葉さん……)
黒崎も舌打ちを漏らした。
「チッ……! 効いてねえ……!」
その一撃すら耐えきる大妖怪の耐久性に、戦場の空気がさらに重く淀んでいった。
その隙に、一匹の子蜘蛛が白峰に向かって猛烈に襲い掛かった。
その蜘蛛の複眼は、はっきりと紫色をしていた。
(……紫さん……!?)
白峰は息を飲んだ。
昨夜の記憶が、鮮やかに蘇る。
煌びやかな楼閣の中で、紫は優しい笑顔を浮かべて甘いおだんごを運んでくれた。
「どうぞ、召し上がれ」と柔らかく言いながら、白峰の隣に座り、きみどりと一緒に楽しげに話していた。
あの温かい声、あの穏やかな瞳、あの少し寂しげな微笑み……
今、その紫は化け蜘蛛の姿で、鋭く尖った脚を高く振り上げ、白峰に襲い掛かっている。
体が完全に凍りついた。
晋介25号を構えようとするが、指が激しく震えて引き金に掛からない。
心の中で、昨夜の優しい記憶と目の前の冷たい現実が、激しくぶつかり合っていた。
(紫さん……
昨夜はあんなに優しくて……
おだんごを運んでくれて、笑顔で話してくれたのに……
どうして……今、私を殺そうとしているの……?)
優しかった。
本当に、優しかった。
なのに、今、この瞬間——彼女の紫色の複眼には、獲物を前にした冷たい飢えと敵意しか浮かんでいない。
白峰の視界が揺れた。
喉の奥から、抑えきれない声が漏れた。
「紫さん……!」
その声は震え、哀れなほど小さかった。
しかし、紫色の瞳の蜘蛛は、一切の躊躇を見せなかった。
昨夜、白峰に微笑みかけたのと同じ顔で、鋭い脚を容赦なく振り下ろそうとする。
優しかった記憶など、まるで最初から存在しなかったかのように、無情に、冷たく、命を刈り取ろうと迫ってくる。
その無常さが、白峰の胸を深く抉った。
(……紫さん……本当に……
私を……殺すの……?)
紫の脚が、白峰の目前にまで迫っていた。




