気品ある化け蜘蛛
負のオーラに取り込まれ、紅葉の姿が一変した。
優美な女性のシルエットが膨張し、黒い影が爆発的に広がっていく。
大地が激しく震え、結界全体が軋むような不吉な音を立てた。
その中心から現れたのは、圧倒的な大きさの巨大な化け蜘蛛だった。
八本の長い脚は夜の闇よりも黒く、光沢のある甲殻は刀のように鋭く研ぎ澄まされている。
巨大な腹部には紅と金の美しい文様が浮かび上がり、まるで豪奢な着物をまとっているかのようだった。
その禍々しい姿の随所に、昨夜の優雅な女王の面影が確かに残っている。
それでも、白峰にははっきりとわかった。
(……紅葉さん……!)
先ほどまで優しく微笑んでいた女性が、今やこの世のものとは思えない大妖怪の姿でそこにいた。
その瞬間、紫の言葉が白峰の脳裏に鮮やかに蘇った。
『迷い込んだ人の子を魅了し、もてなし、最後に喰らう……
それが私たち女郎蜘蛛の役割でありんす』
昨夜、紫が悲しげに目を伏せながら語ったあの言葉。
紅葉が優しく微笑みながらおだんごを差し出してくれた温かい手。
きみどりを可愛がり、白峰を「可愛い陰陽師さん」と呼んでくれた柔らかな声……
すべてが、今、目の前の巨大な化け蜘蛛と重なって、白峰の胸を激しく締め付けた。
(優しかったのに……
みんな、あんなに優しかったのに……
それなのに、どうして……こんな姿で……)
優しさと恐怖、楽しかった記憶と妖怪としての残酷さが、激しくせめぎ合い、心を乱す。
その事実に、白峰の胸は痛いほど締め付けられた。
巨大な体から、白い霧のようなものが噴き出した。
それはまるで息を吐くように、ゆっくりと、しかし容赦なく広がっていく。
霧の中から、次々と化け蜘蛛が生まれ落ちた。
一匹、二匹……十匹、二十匹……
瞬く間に数十匹を超え、百に届かんとする群れが地面を埋め尽くした。
人ほどの大きさの化け蜘蛛たちが、甲高い足音を響かせながら蠢く光景は圧倒的だった。
黒く光る甲殻、鋭い牙、禍々しいまでの敵意を剥き出しにした赤い複眼。
紅葉の眷属——紫をはじめとする女郎蜘蛛たちだった。
白峰はその群れの中に、紫色の瞳をした一匹の蜘蛛を、直感的に見つけた。
(……紫さん……!)
昨夜、優しく微笑みながら白峰を案内してくれた女性の面影が、はっきりと重なる。
しかし今、その紫色の瞳は冷たく、獲物を狙うような敵意を剝き出しにしていた。
白峰の胸が、激しく締め付けられた。
(……紫さんも……みんなも……
今は、私たちを……
戦わなきゃ……
あの人たちと……本当に、戦わなきゃいけないの……?)
優しかった記憶と、今、目の前で敵意をむき出しにする眷属たちの姿が、激しく衝突する。
白峰の指が晋介25号を握る手に、力が入りすぎて白くなった。
絶望と葛藤が、胸の奥で渦を巻いていた。
そんな白峰をよそに、黒崎が苛立った声を上げた。
「何が大丈夫だ! 完全顕現してるじゃねーか!」
御堂は冷静に状況を分析し、いつもの口調で言った。
「では、スマートにいきましょう」
彼女が呪符を掲げると、地面が大きく揺れ、巨大な牛鬼が召喚された。
漆黒の巨体が咆哮を上げ、地面を踏みしめるたびに土が爆ぜる。
黒崎と牛鬼が連携し、子蜘蛛の群れに突っ込んだ。
デッドノックの重い一撃が、最初の一匹の化け蜘蛛を粉砕した。
甲殻が砕け散り、緑色の粘つく体液が飛び散る。
その瞬間、白峰の胸に鋭い痛みが走った。
続いて牛鬼の角が、もう一匹を串刺しにした。
甲高い悲鳴が響き、蜘蛛の脚が痙攣しながら折れ、緑の体液が地面に広がっていく。
白峰の息が詰まる。
やがて、感情が限界を超えた。
「……やめて……」
白峰の口から、思わず小さな声が漏れた。
「やめて……お願い……みんな、優しかったのに……」
その声は震え、戦場の喧騒にかき消されそうになりながらも、はっきりと響いた。
黒崎が一瞬だけ振り返り、御堂の表情もわずかに曇った。
黒崎が回転しながらデッドノックを構えるたび、13mmの重い銃声が連続して轟いた。
ドン! ドン! ドン!
至近距離から放たれる圧倒的な出力の弾丸が、子蜘蛛たちを次々と撃ち抜いていく。
甲殻が粉々に砕け散り、緑色の粘つく体液が黒崎の体や地面に激しく飛び散った。
反動で黒崎の腕が大きく跳ね上がるが、彼は歯を食いしばって構えを崩さず、次の標的に銃口を押しつけるように撃ち続ける。
そのたびに、白峰の心に深い傷が刻まれる。
昨夜、優しく微笑んでくれた花魁たち。
きみどりを可愛がり、白峰に甘いおだんごを差し出してくれた温かい手。
あの煌びやかな宴で響いていた笑い声……
すべてが、今、目の前で無残に潰されていく。
(……ごめんなさい……
ごめんなさい……
でも、戦わなきゃ……みんなを、守らなきゃ……)
胸の奥が引き裂かれるような痛みと、戦わなければならない現実が、激しくせめぎ合っていた。
戦場はすでに緑色の体液と、甲高い断末魔の声で満ちていた。
やがて、巨大な女王蜘蛛が動き出した。
先ほどまで優しく微笑んでいた大妖怪が、ゆっくりとその巨体を起こした。
八本の長い脚が地面に突き刺さるたび、大地が悲鳴を上げて震えた。
黒い甲殻が紅い光を反射し、豪奢な着物のように輝く腹部が重々しく波打つ。
その姿は禍々しくも美しく、昨夜の優雅な女王の気品を残したまま、圧倒的な威圧感を放っていた。
一歩。
大地が大きく陥没し、紅い光の粒子が爆発的に舞い上がった。
空気が歪み、結界が軋む音が響き渡る。
二歩。
風のない空間で紅葉の幻が渦を巻き、甘く腐った香りが一気に濃くなった。
白峰の肌が粟立ち、息が詰まるような重圧が胸を押し潰す。
三歩。
紅葉の複眼が、ゆっくりと白峰を捉えた。
そこに残るのは、優しかった微笑みの残滓と、冷たい大妖怪の飢えだった。
白峰は思わず一歩、後ずさった。
足が震え、膝がガクガクと鳴る。
晋介25号を握る手が汗で滑り、指先が冷たく痺れた。
(……紅葉さん……)
胸の奥が激しく痛む。
昨夜、柔らかい声で「可愛い陰陽師さん」と呼んでくれた人。
きみどりの頭を優しく撫で、甘いおだんごを差し出してくれた温かい手。
あの煌びやかな宴で、白峰を包み込んでくれた優しさ……
そのすべてが、今、目の前の巨大な化け蜘蛛と重なって、頭の中でぐちゃぐちゃに絡みつく。
(どうして……
あんなに優しかったのに……)
恐怖と悲しみ、裏切りにも似た痛み、そして「戦わなければならない」という現実が、白峰の心を激しく引き裂いた。
喉の奥から嗚咽のような息が漏れ、視界がぼやける。
それでも、白峰は晋介25号を必死に構え続けた。
紅葉の巨体が、さらに一歩、近づいてくる。
その一歩ごとに、白峰の心は深く、深く削られていった。




