可哀想だ……
夢の遊郭から現実世界へ戻った白峰は、特対室の面々に囲まれていた。
説明を終えた後、白峰は少し拗ねたような表情で、唇を軽く尖らせて聞いた。
「……わたしが行方不明だった間、みんな捜索とか……してなかったんですか?」
藤堂が苦笑しながら丁寧に答えた。
「申し訳ありません。状況が急を要しておりましたので、再封印の準備を優先しておりました」
安倍零はサングラス越しに白峰を見て、にやりと笑みを浮かべた。
「まあまあ、ミオちゃん。
僕もちょっと用事があったし、みんなそれどころじゃなかったんだよ〜。
ほら、無事で良かったじゃないか。ふふ」
(……ちょっと寂しい……)
安倍零のフォローになっていない軽い言葉に、白峰はますます不満げに唇を尖らせ、頰を少し膨らませた。
まるで置いてけぼりを食らった子供のような表情になってしまい、自分でも恥ずかしくなったが、拗ねた気持ちがどうしても収まらない。
そこへ、御堂が慌ててフォローに入った。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!
澪ちゃんが心配でたまらなかったんですのよ!?」
御堂は少し声を上ずらせながら、白峰の肩に両手でがしっと掴みついた。
いつもの優雅なお嬢様口調が少し崩れ、焦りと本気の心配が混じった様子がはっきり伝わってくる。
「ただ、再封印の準備が急務でしたので……本当に、ごめんなさいね!」
彼女はそう言いながらも、白峰の顔を覗き込むように身を乗り出していた。
慌てふためいているのに、ちゃんと「ごめんなさい」をちゃんと言うところが、御堂らしいと言えばらしい。
黒崎は腕を組み、面倒くさそうにため息をついた。
「……お前がいなくなってから、てんやわんやだったんだよ。
捜索隊を出す準備もしてたが、再封印の方が先だった。
……まあ、無事で良かったけどな」
黒崎の言葉はぶっきらぼうだったが、最後に小さく付け加えた「良かった」という一言に、素直じゃない心配がにじんでいた。
白峰は三人の反応を見て、ようやく少しだけ胸のモヤモヤが溶けたような気がした。
それでもまだ完全に拗ねた気持ちが消えきれず、唇を軽く尖らせたまま小さく呟いた。
「……みんな、冷たい……」
その言葉に、御堂が「まあ!」と声を上げ、藤堂が苦笑を深め、黒崎は「はぁ……」と大きなため息をついた。
安倍零だけはサングラス越しに面白そうにくすくすと笑っていた。
その時、安倍零のスマホが振動した。
彼は画面をチラリと見て、軽く肩をすくめながらにやりと笑った。
サングラスの奥の目が、まるで何かを面白がるように細められている。
「悪いね、急に用事が入っちゃった。
ここは任せて、僕は少し離れるよ〜」
安倍零はそう言いながら、いつもの飄々とした、底の見えない笑みを浮かべたままその場を去っていった。
背中を向けた瞬間も、肩のラインや歩き方に妙な計算された軽やかさがあって、まるで全てを見透かしたような胡散臭さが漂っていた。
その後ろ姿を見送りながら、黒崎が露骨に顔をしかめて低く吐き捨てた。
「……あいつはいつもそうだ。
肝心な時にふらっと消える。
胡散臭いったらありゃしない」
黒崎の声には、長い付き合いから来る諦めと苛立ちが混じっていた。
白峰はまだ少し唇を尖らせたまま、黒崎の言葉に小さく頷いた。
確かに、安倍零の去り際の笑みは、優しさというより何かを楽しんでいるような、底知れない気配があった。
安倍零がいつもの飄々とした笑みを残して去ってから、まだ数分も経っていなかった。
現地の黒子班がすでに結界を展開し始め、淡い光の膜がゆっくりと広がっていく。
黒崎がデッドノックを腰に下げ、短く指示を出した。
「よし、始めるぞ。再封印の儀式だ」
その言葉が落ちた瞬間——
世界の音が、ふっと遠のいた。
風の音も、黒子たちの足音も、結界の淡い光が発する微かな響きさえ、すべてが一瞬で水底に沈むように静かになった。
代わりに、ねっとりとした重い空気が、ゆっくりとその場を支配し始めた。
儀式が始まる直前。
封印担当の黒子の一人が、突然、不自然に体を震わせた。
「う……あ……」
その声は、まるで喉が腐ったように掠れ、湿った息が混じっていた。
次の瞬間——
黒子の胸を、何者かが後ろから強く掴んだ。
ぐしゃり、という嫌な音とともに、黒子の体が地面に引きずり倒される。
「ダメですよ……妖怪たちが可哀想だ……」
ぼろぼろのコートを着た男が、ゆらゆらと不気味に揺れながら姿を現した。
男の顔は深く影に沈み、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
異様に長い指が黒子の胸に深く食い込み、ゆっくりと引きずっていく様子は、まるで人形を弄ぶように緩慢だった。
「可哀想……可哀想……
みんな可哀想だ……封印なんて……してはいけない……」
低く、ねっとりとした声が、結界の中で不自然に反響した。
一言一言が、耳の奥に粘りつくように残る。
空気が急激に重くなり、甘ったるい腐臭のようなものが、ふっと周囲に広がった。
先ほどまで微かに残っていた遊郭の華やかな香りが、まるで腐り落ちるように塗りつぶされていく。
黒崎の表情が一瞬で凍りついた。
「おい……てめぇ、何者だ?」
御堂も即座に呪符を構え、声に鋭い緊張を込めて言った。
「邪魔をしないでいただきたいわね」
白峰は後ろで息を飲み、胸の奥が激しくざわついた。
(……この人……何を言ってるの……?
妖怪たちが可哀想……?)
男は倒れた黒子の上に覆い被さるように身を屈め、ゆらゆらと体を揺らしながら、意味のわからない言葉を繰り返し続けた。
その声は、まるで何十もの小さな囁きが重なり合ったように、頭の奥にねばりつき、離れようとしない。




