ようこそ、女郎の世界へ
その女は優雅に微笑み、柔らかい言葉で告げた。
「ようこそおいでなんし、女郎の世界、夢の遊郭へ」
白峰は言葉の意味を理解するのに、数瞬の時間を要した。
「女郎の世界」「夢の遊郭」——その響きが、胸の奥に冷たい棘のように刺さる。
現実感の薄いこの場所で、そんな言葉を優雅に告げられることに、言いようのない不安が込み上げてきた。
(夢の……遊郭?
ここは本当に、そんな場所なの……?
それとも、ただの比喩……?)
白峰が息を詰めて花魁の顔を見つめていると、きみどりは白峰の手をぎゅっと握り直し、少しだけ体を花魁の方へ寄せながら、無邪気な声で言った。
「ねえ、おねえちゃん。この人、綺麗だね。
でも……なんか、ちょっと怖いかも」
きみどりの小さな声は明るかったが、その言葉の端々に、わずかな警戒のようなものが混じっていた。
白峰は驚いてきみどりを見下ろした。
無邪気できみどりが、そんな風に感じていることに、少しだけ安心したような、逆に不安を煽られたような、複雑な気持ちになった。
花魁はそんな二人を優しく見つめ、くすりと小さく笑った。
その笑みは優雅だが、どこか寂しげで、底知れない悲しみを湛えているようにも感じられた。
「ふふ……初めてのお客様は、いつもそうおっしゃいますわ。
どうぞ、ご安心なさいませ。
ここは夢と現実の狭間……
迷い込んだ者を、優しく包み込む場所でございます」
彼女はゆっくりと紫の袖を翻し、優美に一歩近づいてきた。
「ようこそおいでなんし。
わたしは紫と申します。この世界の案内役をさせていただいております」
白峰は思わず息を飲んだ。
胸の奥がざわつき、言葉が出てこない。
紫はゆっくりと歩み寄り、穏やかな声で続けた。
「ここは『夢の遊郭』——
迷い込んだ人間の心が作り出す、女郎蜘蛛の巣です。」
「女郎蜘蛛の巣……!」
白峰の顔から一気に血の気が引いた。
今回の任務の大本命——しかも最深部に迷い込んでしまったことを理解し、焦りが胸の内で爆発的に広がる。
「迷い込んだ人の子を魅了し、もてなし、最後に喰らう……
それが私たち女郎蜘蛛の役割でありんす」
白峰の背筋に冷たい汗が伝う。
何もできない自分を痛感し、力なく問いかけた。
「なぜ、人を食べるんですか……?」
指先が冷たく震え、きみどりの小さな手を無意識に強く握り返していた。
紫はそんな白峰の反応に気づき、淡々と、しかしどこか悲しげに目を伏せて続けた。
「わたしたちは……人にそうあれと願われて生まれた妖怪です。
美しい花魁として、迷い込んだ人を魅了し、時には食らう存在……」
その言葉を口にする紫の瞳には、静かな諦めと深い悲哀が浮かんでいた。
まるで自分たちがそうあることを、誰よりも嫌がっているようにも見えた。
しかしすぐに優しい微笑みに戻り、白峰をまっすぐ見つめて言った。
「安心しなんし。
あんさんは特別です。
女王様があなたをもてなしたいと仰っています。
どうぞ、泊まっていきなさいませ」
白峰はきみどりの手をぎゅっと握り返しながら、戸惑いを隠せなかった。
「……女王様……?」
やがて、紫に導かれるまま、白峰ときみどりは遊郭の最奥へと足を踏み入れた。
そこは、ただの建物ではなかった。
遊郭全体を圧倒するほどの煌びやかさと荘厳さを備えた、女郎蜘蛛の女王が住まう楼閣だった。
外観は赤と金の極彩色に彩られ、幾重にも連なる屋根の端には黄金の蜘蛛の巣を模した装飾が施されている。
柱や梁には精緻な彫刻が施され、妖しい紅色の珠が無数に浮かんで楼閣全体を照らしていた。
その光は柔らかく、しかしどこか血のような温かみを帯び、壁に描かれた無数の花魁の影絵を幽かに揺らめかせている。
内部に一歩足を踏み入れると、白峰は思わず息を呑んだ。
(……すごい……)
重厚な木造の廊下を進むほどに、静けさと華やかさが奇妙に混じり合い、息を呑むほどの荘厳さが白峰を包み込んだ。
天井からは純金で織られた薄絹のような幕が幾重にも垂れ下がり、微かな風に揺れて幻想的な光の揺らめきを生み出している。
床は黒檀の寄木細工で、足を踏み入れるたびに微かな鈴の音が響く。
甘く濃厚な香が空気を満たし、壁に描かれた紅葉と女郎蜘蛛の絵が、まるで生きているかのように視線を追いかけてくるようだった。
白峰の胸が激しく高鳴る。
こんな場所に連れてこられるなんて、完全に敵の中心——最深部だ。
逃げ場などどこにもないという現実が、改めて重くのしかかってきた。
その一方で、きみどりは白峰の手を引いたまま、目を輝かせて周囲を見回していた。
「わあ……! おねえちゃん、すっごく綺麗!
天井キラキラしてるし、床がピカピカで、なんかお祭りみたい!」
きみどりはくるりと小さく回りながら、純粋に楽しそうな声を上げた。
活発な足取りで少し前へ出ようとする姿は、この荘厳で不気味な楼閣の中で、まるで唯一の明るい光のように見えた。
紫はそんなきみどりを優しく見つめ、穏やかな声で言った。
「ふふ……きみどりちゃんは、こういう場所がお好きなんですね」
きみどりは紫の方を振り向き、少し首を傾げて答えた。
「うん! きみどり、明るくて綺麗なところが好きだよ。
でも……なんか、変な感じもするね」
紫は小さく微笑みながら、寂しげに目を細めた。
「ええ……この楼閣は美しいけれど、同時に重い場所でもありますから。
どうぞ、迷わずお進みくださいませ」
白峰は紫の言葉に、わずかな違和感を覚えながらも、きみどりの手を強く握り返した。
楽しそうにしているきみどりの姿に、少しだけ心が軽くなる一方で、この場所の異常さに警戒心がますます強まっていく。
重厚な木造の廊下をさらに進むと、薄暗い灯りの最奥——
一際大きな朱塗りの扉がゆっくりと開かれた。
その奥から、圧倒的な存在感を放つ女性が、ゆっくりと姿を現した。
——女郎蜘蛛の女王。
彼女は、楼閣そのものが凝縮されたような、極上の美しさと気品をまとっていた。
深紅の着物は上質な絹地に金糸と銀糸で紅葉の文様が無数に刺繍され、袖を翻すたびに落ち葉のように優雅に舞う。
黒髪は艶やかに高く結い上げられ、頭には血のように真紅の珊瑚と黄金の蜘蛛をあしらった豪奢な簪が輝いている。
白く透き通るような肌、深紅に染められた唇、そして細く長く描かれた瞳には、底知れぬ妖艶さと、絶対的な威厳が宿っていた。
その美しさは、紫のそれとは比べ物にならない。
紫が「悲しみを帯びた花」なら、紅葉は「燃え盛る紅葉そのもの」——
美しく、荘厳で、触れた者を焼き尽くすほどの気品と妖しさを併せ持っていた。
彼女は妖しくも美しい微笑みを浮かべ、白峰とその横にいるきみどりを見た。
「ふふ……ようこそ。
私はこの巣の主、紅葉もみじと申します」
女王・紅葉は、きみどりの姿を認めると、わずかに目を細めて興味深そうに言った。
「また懐かしい顔が現れんした……あの座敷童がここまで来るとは」




