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きみどり

白峰は呆然と目の前の小さな少女を見つめた。

不思議な空間、不思議な少女、そして不思議な花魁たち……

頭の中が真っ白だった。

さっきまで黒崎さんや御堂さん、藤堂さんや安倍さんと一緒にいたはずなのに、突然みんなの姿が消え、代わりに提灯の赤い灯りと甘い香に包まれた異様な遊郭のような世界に立っている。

現実感がまるで失われていて、自分の体がここにいるのか、それとも夢の中にいるのかさえ判断がつかない。

心臓の音がやけに大きく聞こえ、息が浅く速くなる。

指先が冷たく痺れ、資料を抱えていた手が緩んで、地面に落ちそうになるのを慌てて握り直した。

(……どうして……?

みんなはどこ……?

ここ、どこ……?

夢……? それとも……)

思考がぐるぐると回るだけで、まとまらない。

恐怖と混乱と、得体の知れない不思議さが混じり合い、胸の奥が締め付けられるように苦しい。

少女は白峰の顔をのぞき込み、無邪気に首を傾げた。

「ねえ、おねえちゃん。名前、教えてくれないの?」

白峰は慌てて口を開いたが、声が上手く出てこなかった。

喉がからからに乾き、舌がもつれるような感覚に襲われる。

「え……っと……」

ようやく絞り出した声は、普段の自分とは思えないほど小さく震えていた。

「白峰澪、です……。あなたは……?」

少女は少し困ったように笑った。

「わたし、名前がないの。 だから……おねえちゃんが付けてくれない?」

その言葉に、白峰の思考が一瞬止まった。

(名前がない……?

どういうこと……? この子、誰……?

ここは一体……)

混乱がさらに深まる。

突然現れた幼い少女が、自分に名前を付けてほしいと言っている。

現実離れした状況に、頭が追いつかない。

拒否すべきか、質問を重ねるべきか、それともこれは夢の中の出来事なのか——判断がつかず、ただ胸の奥がざわついていた。

白峰は思わず少女の着ている黄緑色の可愛らしい和服に目を落とした。

少し短めで動きやすそうな着物に、短いおかっぱの黒髪。

活発そうで、どこか森の新緑を思わせる軽やかな印象が強い。

その瞬間、頭の中にふと浮かんだ言葉があった。

「……きみどり……?」

自分でも意図せず、ぽろりと口から零れ落ちた名前だった。

言った直後、白峰は自分の言葉に驚いて目を瞬かせた。

(え……今、なんて……?

どうして急にそんな名前が……?)

しかし、不思議なことに——

その言葉は、まるで最初からこの少女にぴったりだったかのように、胸の内で自然に収まった。

黄緑色の着物、軽やかな動き、明るい無邪気さ。

「きみどり」という響きが、少女の姿や雰囲気と重なり合い、違和感がほとんどない。

不意に出てきたはずなのに、まるでずっと前から知っていたような、しっくりとした感覚が静かに広がっていく。

少女はそれを聞いた瞬間、顔をぱっと明るくした。

「きみどり! わあ、いいね! きみどり!」


少女は嬉しそうに何度もその言葉を繰り返し、くるくる回って喜んだ。

黄緑色の着物の裾がふわっと広がる様子が、とても軽やかで愛らしかった。

「じゃあ、きみどりでいいよ! おねえちゃん、きみどりと一緒にお散歩しよう!」

白峰はまだ状況が飲み込めず、胸の内で激しく戸惑っていた。

(……本当に大丈夫なの?

この子は突然現れて、名前もないって言って……

ここがどこかもわからないのに、一緒に散歩しようだなんて……)

頭の中では警鐘が鳴り続けている。

見知らぬ場所、見知らぬ少女。

さっきまで一緒にいたはずの仲間たちの姿はどこにもなく、ただ甘く重い空気が肌にまとわりつく。

普通なら絶対に警戒すべき状況だ。

なのに——

白峰の視線が、再びきみどりの顔に落ちた。

無邪気に輝く大きな瞳。

弾けるような笑顔。

くるくる回る軽やかな仕草。

そのすべてが、まるでこの異様な世界の中で唯一、純粋で明るい光のように感じられた。

(……怖い。

でも……この子と一緒にいる方が、少しだけマシかもしれない。

一人でこの路地を歩くなんて、もっと怖い……)

行く宛てもなく、頼れるものも何もない。

混乱と不安でいっぱいの胸の奥で、きみどりの小さな手と活発な笑顔が、わずかな心の拠り所のように感じられた。

白峰は小さく息を吐き、迷いながらも頷いた。

「……うん……一緒に行こうか」

その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。

理性ではまだ納得しきれていないのに、心のどこかが、きみどりの提案にすがるように動いてしまった。

きみどりは白峰の手を引いて、遊郭の細い路地を歩き始めた。


白峰はきみどりの小さな手に自分の手が包まれているのを感じながら、ぼんやりと周囲を見回した。

細い路地は木造の建物が両側から迫り、頭上には赤い提灯が連なってぼんやりとした橙色の光を落としている。

甘く濃厚な香が空気全体に溶け込み、どこからか女たちの艶めいた笑い声と、かすかに乱れた琴の音が聞こえてくる。

石畳は湿ったように光り、足音がやけにくぐもって響いた。

一見すれば、どこか夢のような華やかさがあった。

しかし、その美しさの裏側に、ぞわっとするような違和感が張りついている。

笑い声の端々が掠れ、提灯の炎が揺れるたび、壁や地面に伸びる影が不自然にねばつくように長く歪む。

甘い香の奥底に、微かに鉄錆びたような、または古い花が腐り始めたような、得体の知れない臭いが混じっている気がして、白峰の背筋に冷たいものが走った。

(……綺麗なのに、息苦しい……

この場所、本当に現実なの……?)

きみどりはそんな白峰の内心などお構いなしに、楽しそうに周りを見回しながら言った。

「ここ、綺麗でしょ? でもちょっと怖いよね。 おねえちゃん、なんでここに来たの?」

白峰はきみどりの小さな手に自分の手が包まれているのを感じながら、ぼんやりと答えた。

「わたし……分からないの。 お仕事で近くに来てたら、急に霧が出て……気がついたらここにいたの」

きみどりは「ふーん」と短く相槌を打ち、楽しそうに周りを見回した。


すると、まるで先ほどの質問などどうでもよくなったかのように、ぱっと白峰の顔を振り仰いで明るく言った。

「おねえちゃん、優しそうな顔してるね。 きみどり、優しい人が好きだよ」

白峰は少し照れくさそうに笑った。

「ありがとう……。きみどりは……ここに住んでるの?」

白峰の問いに、きみどりは少しだけ首を傾げて答えた。

「ううん。わたしは……おねえちゃんの近くにいるのが好きなんだ。 だから、ついてきちゃった」

その言葉を聞いた瞬間、白峰の胸に小さな疑問が浮かんだ。

(……ついてきちゃった?

どういう意味……?

最初から一緒にいたわけじゃなくて……?

それとも、わたしがここに来た瞬間に、どこかからついてきたってこと……?)

頭の中でその言葉がぐるぐると回る。

「ついてきた」という響きが、妙に現実味を帯びて白峰の不安を刺激した。

この不思議な空間で、突然現れた少女が「ついてきた」と言っていることが、ますます状況を不可解にさせる。

白峰がその疑問を口に出そうとしたその時——

ふと前方から気品のある足音が近づいてきた。


石畳を優雅に踏む、落ち着いた響き。

華やかでありながら、どこか重みのある歩みだった。

現れたのは、華やかな紫色の着物をまとった美しい花魁だった。

その姿は息をのむほど優美で、まるでこの遊郭の闇そのものが形を成したかのようだった。

深い紫の着物は上品な光沢を帯び、裾や袖に施された銀糸の刺繍が提灯の橙色の灯りに照らされて、幽かに輝いている。

黒髪は艶やかに結い上げられ、華やかな簪が揺れるたび、かすかな鈴の音が響く。

白い肌は月光のように滑らかで、唇は深紅に染められ、細く描かれた目元には妖艶な色気が宿っていた。

御堂とはまた一線を画す、洗練され尽くした気品——

それはただ美しいだけではなく、静かな威圧感さえ感じさせる、熟れた大人の妖艶さだった。

一歩一歩を踏み出す仕草にさえ、長い年月をかけて磨き上げられた優雅さがにじみ出ている。

白峰は思わず息を飲んだ。

胸の奥がざわつき、言葉が出てこない。

その女は優雅に微笑み、柔らかい言葉で告げた。


「ようこそおいでなんし、女郎の世界、夢の遊郭へ」

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