次は北だよ
結局、真田丸8式の調整にはもう少し時間がかかるとのことだった。
「最終調整が済み次第、特対室宛に送り届けるよ。楽しみに待ってなさい」
祐介にそう言われ、白峰は両手で真田丸8式をぎゅっと抱きしめたまま、ぴたりと動きを止めた。
(……え? 今、返せって言われた……?)
お気に入りのぬいぐるみを突然取り上げられた子供のように、胸の奥で「まだ離したくない!」という気持ちがむくむくと膨らむ。
駄々をこねて「もう少しだけ持っていたい!」と言いたくなる衝動を、なんとかぐっと飲み込んだ。
白峰は唇を軽く噛み、名残惜しそうな目をしながらも、渋々といった様子で頷いた。
「……はい。わかりました……
でも、できるだけ早くお願いしますね……?」
声の端々に「本当は今すぐ持って帰りたい」という未練がはっきり滲んでいた。
祐介はそんな白峰の様子を見て、くすりと小さく笑った。
その後、一同は予定通り残りの巡回業務をこなした。
幸い、今日のルートは比較的穏やかで、特に異常は起こらなかった。
箱根の山道を下る途中、藤堂がタイミングを見計らって提案した。
「この近くに、芦ノ湖のほとりにある蕎麦屋があるんです。
わかさぎの天麩羅が名物で、なかなか美味しいですよ。
少し寄っていきませんか?」
白峰の目がぱっと輝いた。
「わかさぎの天麩羅……! 食べたいです!」
御堂も小さく微笑んで頷いた。
「いいわね。たまにはこういうのも悪くないわ」
黒崎は面倒くさそうに肩をすくめたが、結局文句を言わずに付いてきた。
芦ノ湖を見下ろす小さな蕎麦屋の座敷で、注文したわかさぎの天麩羅が運ばれてくると、
サクサクと揚がった衣と、ふわっとした白身のコントラストが食欲をそそった。
白峰は一口食べて目を丸くした。
「わあ……サクサクしてて、すごく美味しい!
藤堂さん、ありがとうございます!」
藤堂は穏やかに微笑みながら箸を動かした。
「でしょう? 箱根に来たらぜひ寄ってほしいお店なんです」
御堂は上品に天麩羅を味わいながら、満足げに頷いた。
「ふふ、京都のものとはまた違う味わいね。悪くないわ」
黒崎は黙々と食べ進め、箸を置いたところでぼそりと呟いた。
「……腹に入れば一緒だろ」
しかし、わずかに視線を逸らしながら小さく付け加えた。
「……まあ、美味かったけどな」
その素直になれない一言に、藤堂がくすりと笑い、御堂が「ふふっ」と小さく肩を震わせ、白峰も思わず吹き出した。
真田兄弟の工房で微妙な空気になった後だっただけに、
この一瞬の和やかな時間が、特対室のメンバーたちにほんの少しの息抜きを与えてくれた。
六本木の地下オフィスに戻った頃には、すでに夕暮れが近づいていた。
特対室のドアを開けた瞬間、白峰は思わず足を止めた。
部屋の奥、室長の席の近くに、長身の男が悠然と腰を下ろしていた。
飄々とした薄い笑みを浮かべ、丸いサングラスをかけた男
男はゆったりと足を組み、背もたれに深く体を預けている。
サングラスの奥からこちらを眺める視線は、まるで獲物を値踏みするような、どこかねっとりとした気配を帯びていた。
口元に浮かぶ笑みは柔らかそうに見えて、なぜか底が冷たく、胡散臭さがこれでもかと漂っている。
長身で細身の体躯は、まるで影のように部屋の空気を歪ませ、
一見優雅に見える仕草のひとつひとつが、妙に計算されていて不気味だった。
黒崎がそっけなく、しかし少しだけ声のトーンを落として言った。
「……零さん、いつ帰ってきたんだ」
零と呼ばれた男はにやりと笑みを深め、黒崎に向かって気怠げに手を振った。
「黒崎ちゃん、入院したって聞いたよ? 珍しいねぇ。
心配したよ〜? ふふ」
その笑い声は軽やかだが、どこか粘つくような響きがあった。
黒崎は露骨に顔をしかめ、心底鬱陶しそうなため息を吐いた。
サングラス越しの視線を面倒くさそうに受け止め、低い、苛立ちの混じった声で返す。
「……心配なんかされてたまるか。
余計なお世話だ、零さん」
その言葉はぶっきらぼうで、明らかに「早く話を進めろ」と言わんばかりのトーンだった。
その時、部屋の奥から室長の相良剛が低い声で補足した。
「安倍 零だ。安倍晴明の直系で、本来なら京都本部の幹部クラスのはずなんだが……変わり者すぎて東京に飛ばされてる」
白峰は慌てて頭を下げ、少し緊張した声で返した。
「は、はじめまして……白峰澪です!
よろしくお願いします!」
安倍零はサングラス越しに白峰をじっと見つめ、柔らかく、しかし妙に親しげに微笑んだ。
「ミオちゃんね。話は聞いてるよ。
……ふふ、面白い子なんだってね。よろしく」
白峰は一瞬、目をぱちくりとさせた。
(……いきなり下の名前……? しかも「ミオちゃん」って……なんか軽薄じゃない……?)
頭の中が一瞬真っ白になったが、慌てて姿勢を正し、頰を少し赤らめながら小さく答えた。
「あ……ありがとうございます?
……あの、面白い……子、ですか?」
声は最後の方で少し上ずり、明らかに動揺しているのが伝わってきた。
安倍零は面白そうにくすくすと笑い、サングラスを軽く押し上げた。
零は続けて、他の面々にも声をかけていった。
「ツカッちゃん、相変わらず真面目そうだね。
たまには肩の力抜きなよ?
カナデちゃんも元気そうで何より。
渋谷でもすごい活躍したって聞いてるよ」
藤堂は穏やかに会釈を返し、いつもの丁寧な笑みを浮かべた。
「零さん、お久しぶりです。相変わらず……お元気そうで何よりです」
一方、御堂奏はわずかに表情を硬くした。
安倍晴明の直系——エリート中のエリート。
自分の家系がどれだけ努力しても、到底届かない血筋の重みと、
その血を背負いながらも飄々と振る舞う零の姿が、彼女の胸の奥に長年くすぶっているコンプレックスを、今この瞬間も容赦なく刺激していた。
「……ええ。お久しぶりね」
御堂の返事は短く、声もやや硬い。
微笑もうとしているのに、口元がわずかに引きつっているのが、白峰にも分かるほどだった。
彼女は腕を組んだまま、零から視線を少し逸らした。
零はそんな御堂の反応を、面白そうにサングラスの奥から観察しているようだった。
零は軽く伸びをしながら、最後に黒崎の方を向いた。
そして、いつもの飄々とした調子を少しだけ落として、静かに、しかしはっきりと言った。
「黒崎ちゃん……次は北だよ」
その一言で、部屋の空気がわずかに、しかし確かに重くなった。
黒崎は腕を組んだまま、眉をわずかに寄せて低く返した。
「……いきなり何だよ。
北に行くって話は、まだ聞いてねえぞ」
安倍零はサングラス越しに黒崎を見つめ、にやりと笑みを深めた。
まるで予想通りの反応を楽しむように、肩を軽くすくめて答える。
「ふふ、だって今言ったもん。
まあ、よろしく頼むよ!」
その言葉は柔らかく、まるで軽い世間話のように聞こえたが、
底に潜む重みと、一切の情報を明かさない計算された曖昧さが、部屋の空気をさらに淀ませた。
白峰はまだ何が起こっているのか理解できず、ただ首を傾げることしかできなかった。
(……なんか、ピリッとする……)
胡散臭くて、掴みどころがなくて、どこか底知れない——
特対室の最後のメンバーが残した北という言葉に、はっきりしない不穏な感覚を残して、箱根遠征は幕を閉じた。
その夜、真田兄弟の工房では、いつものように明かりが遅くまで灯っていた。
作業台の片隅で、兄の祐介が湯飲みを手にしながら静かに言った。
「あの娘……白峰澪か。なかなか良い目をしているじゃないか。
真田丸8式を一目見て、あそこまで素直に欲しがるとはな。
久しぶりに、自分の作品をあんな風に欲しがってくれる子を見たよ」
弟の晋介は、解体した晋介25号の部品を並べながら、いつになく難しい顔をしていた。
「……兄貴は相変わらず甘いな。
確かに気に入ってるのはわかるが、あの娘の力は底が知れん。
気を流し込んだだけで晋介25号の回路を焼き切るなんて、普通じゃあり得ねえ。
俺は……正直、不気味に感じるぜ」
祐介は小さく笑い、湯飲みを置いた。
「心配性だな、晋介。
さっきの検査結果を見ただろう? 気の含有量は平均的だった。
むしろ少し控えめなくらいだ。あの娘はただ、才能の片鱗を少し覗かせただけさ」
晋介は部品を指で軽く叩きながら、眉を深く寄せた。
「平均的……か。
それが一番気にかかるんだよ。
平均的な含有量で、あそこまで回路を焼き切るなんて……
どう考えてもおかしいだろ」
祐介はゆっくりと立ち上がり、工房の窓から夜の山並みを見やった。
その背中には、職人としての静かな興奮が滲んでいた。
「まあ、いいじゃないか。
久しぶりに、面白い使い手が現れたんだ。
あの娘が真田丸8式をどう扱うか……楽しみだな」
晋介はまだ納得がいかない様子で、焦げた回路基板をじっと見つめていた。
「……とにかく、送る前に念入りに調整しとけよ、兄貴。
あの娘がまた何をやらかすかわからんからな」
祐介は答えず、ただ静かに微笑んだまま、窓の外の闇を見つめ続けていた。




