デッドノック
突然現れた男に、大入道は興味を示すようにその泣きそうな顔を傾けた。
白峰には、それが力を得たことにより、女性への逆恨みしかできなかった劣等感を払拭し、
いじめっ子に対してようやく反抗しようとしているように見えた。
しかし、そんな思いなど関係なかった。
大入道は泣き顔のまま、太く膨れ上がった腕を振りかぶり、
「全部お前らのせいだ……!」という怨嗟の叫びを伴って、凄まじい勢いで拳を振り下ろした。
ドゴォォンッ!!
地面が陥没し、衝撃波が路地を吹き荒れる。
大入道の攻撃は自分勝手な恨みそのもので、ただ「女性を見れば腹が立つ」という歪んだ感情が、
純粋な破壊力となって炸裂していた。
黒崎蓮は気だるげな表情のまま、それを紙一重で躱した。
巨体が振り下ろす拳の風圧を頰に受けながら、
黒崎はわずかに体を捻り、攻撃の軌道を最小限でかわす。
次の瞬間、大入道のもう片方の腕が横薙ぎに襲いかかる。
ドゴォォンッ!!
再び地面が震え、瓦礫が飛び散る。
黒崎はそれを低く沈み込んでかわし、
さらに大入道の懐へと一歩踏み込んだ。
その動きは重傷の体とは思えないほど正確で、無駄がなく、
まるで大入道の攻撃を「読んでいる」かのように自然だった。
大入道は怒りに任せて連撃を浴びせ続けるが、
黒崎はすべての攻撃を紙一重で躱し続け、
確実に、しかし容赦なく距離を詰めていく。
その姿は、圧倒的な力を持つ怪物に対して、
経験と勘と胆力だけで立ち向かう強者のそれだった。
白峰は息を飲んでその光景を見つめていた。
(……すごい……
あんなに巨大で、恨みに満ちた攻撃なのに……全部、ギリギリでかわしてる……)
白峰は思わず呟いた。
「……何故、あんな危険な戦い方をするの……?」
そういえば、あきる野の時もそうだった——。
白峰が小さく呟いたその疑問に、隣の御堂が静かに、しかしわずかに緊張を帯びた声で答えた。
「あれがデッドノックよ」
彼女の視線は黒崎の背中に釘付けになっていた。
白峰が「デッドノック……?」と首を傾げると、御堂は少し早口で続けた。
「13mmの大口径拳銃……理論上、人が扱える限界の口径と言われているわ。
黒崎さんは圧倒的な気の出力を誇るけど、その分コントロールが効かないの。
どれだけ強力な力を持っていても、当たらなければ意味がない。
だからこそ、あの人は敢行するの……ゼロ距離で行われる死のノックを」
白峰は息を飲んだ。
(……そんな危ないものを……?
だからあきる野の時も、あんなに近くで撃ってたなんて……)
御堂の横顔が、わずかに引きつっているのが分かった。
その説明が終わるかどうかのタイミングで——
黒崎は動いた。
大入道の巨大な腕が、再び振り下ろされる。
風圧だけで周囲の空気が裂けるような、重く凶悪な一撃。
黒崎はそれを、紙一重でかわした。
巨体が地面を抉る直前、彼の体は低く沈み込み、
大入道の懐へと一気に滑り込む。
今や、二体の距離はほぼゼロ。
大入道の胸元に、黒崎の体が完全に収まっている。
息がかかるほどの至近距離。
黒崎はデッドノックを、大入道の胸にぴたりと突きつけた。
その瞳には、気だるげな眠たさなど微塵もなく、
ただ冷徹で、研ぎ澄まされた戦士の光だけが宿っていた。
晋介25号なら発射前に壊れるだろうほどの、途方もない量の気が、
一瞬で黒崎の掌と銃身に集中していく。
空気が歪み、黒崎の周囲に黒い雷のような気が渦を巻き始めた。
バァァァァンッ!!
その一撃は、文字通り「死のノック」だった。
デッドノックの銃口から放たれたのは、ただの弾などではなかった。
黒崎の体内から一瞬で引き出された、途方もない量の気が、
13mmの巨大な弾丸に凝縮され、
大入道の胸に叩き込まれた瞬間、
内側から爆発的な破壊が連鎖した。
ドゴォォォォォォンッ!!
大入道の巨体が、内側から吹き飛ぶように膨張し、
次の瞬間、黒い霧と肉片、砕けた脂肪の塊が、
路地全体に放射状に飛び散った。
地面が大きく抉れ、近くの壁が粉々に崩れ落ち、
衝撃波が結界の内側を激しく叩き、紫色の光が激しく明滅する。
一瞬前までそこにあった巨大な怪物は、
カケラ一つ残さず、跡形もなく消滅した。
残ったのは、ただ黒い霧の残滓と、
地面に刻まれた深いクレーターだけだった。
その威力は、あきる野で見せたものなど、比べ物にならないほど圧倒的だった。
……
一瞬の静寂が、路地を包んだ。
先ほどまでの激しい衝撃波と破壊の音が嘘のように消え、
ただ黒い霧の残滓がゆっくりと地面に落ちていくだけだった。
藤堂が静かに息を吐き、淡い紫色の結界を解除した。
ほぼ同時に、黒子班の隊員たちが急行してきて後処理を始めた。
死体処理、記憶調整、現場の修復——すべてが迅速かつ無言で、機械のように淡々と進められる。
黒崎は煙の上がるデッドノックをを軽く振りホルスターに戻した。
「……ったく。退院したばかりなのに、面倒くせぇことさせるんじゃねぇよ」
その声はいつもの気だるげな調子だったが、どこか疲れが滲んでいた。
白峰は呆然とその背中を見つめていた。
胸の奥に、まだ戦いの余韻が熱く残っている。
大入道の泣き顔、牛鬼の咆哮、黒崎のゼロ距離の一撃……
すべてが頭の中でぐるぐる回っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐き、震える声で言った。
「……黒崎さん……本当に、ありがとうございます。
来てくれなかったら……どうなってたか……」
黒崎は振り返り、軽く肩をすくめた。
「礼なんかいらねぇよ。新入りが無事ならそれで十分だ」
御堂は小さく息を吐き、いつもの余裕を取り戻した顔で言った。
「相変わらずスマートさに欠けるわね、黒崎さん。
もう少し控えめにやれないの?」
黒崎はニヤリと笑って答えた。
「控えめにやってたら、お前らがやられてたぞ」
藤堂が苦笑しながら黒崎に近づき、肩を貸そうとした。
「黒崎さん、無理はしないでくださいね……
まだ退院したばかりなのに、本当に心配しましたよ」
黒崎はそれを軽く払いながらも、どこか照れくさそうに目を逸らした。
白峰はそんなやり取りを見ながら、ようやく肩の力が少し抜けるのを感じた。
(……みんな、無事でよかった……)
黒子班への指示を終えた藤堂が、苦笑しながら黒崎に近づき、肩を貸そうとした。
「黒崎さん、無理はしないでくださいね……」
黒崎はそれを軽く払い、白峰の方を振り返った。
その目は、いつもの眠たげなものとは少し違っていた。
鋭く、探るような視線が白峰をまっすぐ捉える。
「おい、新入り」
「……はい」
黒崎は一瞬、目を細めて白峰をじっと見た。
「お前、どこに行ってた?
何か……憑いてるぞ」
白峰の体が、ビクリと震えた。
その言葉は、まるで胸の奥に冷たい指を突き刺されたような感覚だった。
白峰は無意識に自分の胸元に手を当て、かすれた声で聞き返した。
「……え?」
黒崎は低く、しかしはっきりと言った。
「甘い気配だ。
子供の笑い声みたいな……
しかも、かなり深く根を張ってる。
お前、気づいてなかったのか?」
白峰の顔から血の気が引いた。
(……やっぱり……あの声……
『たのしいね……!』って……)
胸の奥で、甘く冷たい気配が再び蠢くような気がした。
それは、戦いの興奮が冷めていくにつれて、
ますますはっきりと、白峰の意識に絡みついてくる。
路地裏の静けさの中で、
黒崎の言葉が重く響いていた。
数日後——
発生源となった男は、いつものように会社のパソコンに向かっていた。
だが、今日は違った。
胸の奥にずっと巣食っていた重苦しい黒い塊が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
のっぺらぼうが祓われた夜以来、毎日見ていた悪夢が少しずつ薄れ、朝起きるのがわずかに楽になっていた。
「……もう、いいか」
彼は深く息を吐き、キーボードに指を置いた。
退職届の文面を打ち込みながら、彼は小さく呟いた。
「これで、少しは前に進めるかな……」
画面に映るシンプルな文字は、まるで長い間閉ざされていた扉が、わずかに開いたような感覚を彼に与えていた。
ふと、あの路地裏で声をかけてくれた若い女性の顔が浮かんだ。
彼女の目は優しくて、怖がっているのに、ちゃんと自分を見てくれていた。
男はキーボードを叩く指を止め、窓の外の空をぼんやりと見つめた。
「……ありがとう」
小さな、誰にも聞こえない呟きだった。
でも、その言葉は、彼の胸の奥に、ほんの少しだけ温かい光を灯した。
画面に映るシンプルな文字は、まるで長い間閉ざされていた扉が、わずかに開いたような感覚を彼に与えていた。




