ノンデリエリート
調査は難航していた。
三日間、ほとんど成果らしい成果はなかった。
朝から晩まで渋谷の街を歩き回り、被害現場を何度も往復した。
警察の記録を何十件も読み込み、目が疲れて文字が滲むまで睨み続けた。
周辺住民や商店主に声をかけ、監視カメラの映像も可能な限り確認した。
しかし、発生源となる人物に関する決定的な手がかりは、どれもつかめなかった。
「黒い影を見た」という曖昧な証言が数件あっただけ。
それが本当に妖の気配だったのか、それともただの疲れた目が見せた幻覚なのかさえ、判断がつかない。
三日間ずっと同じ場所をぐるぐる回り、同じ質問を繰り返し、同じ失望を味わう。
足は棒のようになり、頭は重く、得られたものは徒労感ばかりだった。
3日目の昼を迎えた頃、御堂 奏の苛立ちは明らかに頂点に達していた。
彼女は路地裏の壁に手をつき、声を荒げた。
「もう……!
三日もかけて何も掴めないなんて、京都に帰ったら笑いものよ!
良かったことなんて、司くんの紹介するランチのお店くらいじゃない!」
御堂はダークグレーのスーツの袖を乱暴にまくりながら、苛立たしげに息を吐いた。
いつも完璧に整えられた黒髪が少し乱れ、目には明らかな苛立ちと疲労が浮かんでいた。
エリートらしい余裕はすっかり剥がれ落ち、今はただの焦りと悔しさが剥き出しになっていた。
白峰は思わず目を丸くした。
(……スマートはどこに行ったの、御堂さん……)
すると、隣にいた藤堂が小さく苦笑しながら、いつもの穏やかな声で言った。
「御堂さん、珍しく焦ってますね。
三日間ずっと一緒に回って、ようやく御堂さんのそういう顔も見られましたよ」
御堂は藤堂を軽く睨みつつ、でも口元がわずかに緩んだ。
「司くんまでからかうんじゃないの。
……まあ、確かにこの三日、澪ちゃんもずいぶん頑張ってくれたわね。
新入りなのに毎日メモを取って、足を棒にして……
私も少し期待しすぎていたのかもしれない」
白峰は少し驚きながら、慌てて首を横に振った。
「い、いえ! 私こそ全然役に立ててなくて……
御堂さんが的確に指示を出してくれるから、何とかついていけてるんです。
本当に……ありがとうございます」
御堂は白峰の言葉を聞いて、一瞬だけ目を細めた。
苛立ちの色が少し薄れ、代わりにほんのわずかな柔らかさが混じる。
「ふん……お世辞はいいわ。
でも、褒められると悪い気はしないものね。
……まあいいわ。
とにかく、このままでは終われない。
もう少し粘ってみましょう」
白峰は小さく頷きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
(……この三日で、御堂さんも少しずつ本音を見せてくれるようになった……
藤堂さんも、いつも優しくフォローしてくれるし……
なんか、チームっぽくなってきた……かも)
ふと、この三日間のランチタイムの記憶が蘇った。
初日の海鮮弁当、2日目の隠れ家的な和食屋の煮物、そして昨日の少し庶民的な定食屋……。
どれも藤堂が「ここなら間違いない」と自信満々に連れて行ってくれたお店で、
調査の疲れで少し沈みがちだった三人が、短い休憩時間にようやく笑顔を見せ合う貴重な時間になっていた。
白峰は小さく微笑みながら、改めて思った。
(……少しずつ、みんなで同じ方向を向けるようになってきたのかもしれない……)
そんなことを考えていると、白峰の視線がふと路地裏に移った。
そこには、初日にハチ公前近くで見かけた、あの寂しげな男性が立っていた。
スーツはさらにくたびれ、肩は深く落ち、目は完全に虚ろだ。
その体からは、明らかに暗く粘つくオーラのようなものが滲み出している。
三日前の微弱な黒い靄とは比べものにならないほど、濃く、どろりとした負のエネルギーが渦を巻いていた。
白峰の胸が、じんわりと疼いた。
(……あの人……三日前より、ずっと苦しそう……
このまま放っておいたら、もっと悪いことになってしまうかもしれない……)
彼女は一瞬、御堂と藤堂の姿を横目で確認した。
二人はまだ少し先で地図を見ながら話を続けている。
白峰は迷った。
声をかけてもいいのだろうか。
でも、あの寂しげな背中を見ていると、どうしても放っておけなかった。
(……少しだけ……大丈夫だよね……?
ただ声をかけるだけなら……)
優しさからくる衝動が、理性より少しだけ早く動いた。
白峰は思わず足を踏み出し、男性に向かって声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
その声は、路地裏に小さく響いた。
男性はゆっくりと顔を上げ、白峰をぼんやりと見た。
白峰はさらに一歩近づき、心配そうに声をかけた。
「あの……本当に大丈夫ですか?
顔色が悪いみたいですけど……」
男性はしばらく無言で白峰を見つめていたが、やがて掠れた声でぽつりと答えた。
「……大丈夫じゃないよ……」
白峰は優しく続けた。
「何か……話したくないですか?
一人で抱え込んでいるように見えて……心配です」
その言葉がきっかけだったのか、男性の虚ろな目がわずかに動き、白峰の顔を順番に見つめ始めた。
そして、まるで堰を切ったように、ぽつぽつと独り言のように語り始めた。
「……俺の人生、ずっと上手くいかないんだ……
会社でも、プライベートでも……何をやっても失敗する……」
その頃、路地裏から少し離れた位置にいた御堂と藤堂が、ほぼ同時に白峰の方を振り返った。
御堂の表情がわずかに変わり、藤堂も眼鏡の奥で目を細める。
「澪ちゃん……?」
御堂が低く呼びかけたが、白峰は男性に集中していて気づかない。
男性の声が、次第に震え、大きくなっていく。
「……高校の頃、いじめられてたんだ……
毎日、笑いものにされて……
あの女どもは、俺が殴られたり、物を隠されたり、ズボンを下げられたりするのを見て、楽しそうに笑ってた……
スマホで動画撮って、クラスで回して、面白がってたんだよ……
『きもい〜』って……笑いながら……」
彼の拳が強く握られ、声が喉の奥から絞り出されるように低く響いた。
御堂と藤堂はすぐに白峰の元へ駆け寄り始めた。
御堂の足取りは速く、藤堂も緊張した面持ちで後を追う。
「それから何年経っても、俺の人生はろくなことない……
ブラック企業でこき使われて、給料は安いし、残業は毎日……
彼女もできなくて、友達もいなくて……
全部、あいつら女どものせいだ……
あの頃、俺を笑ってた女たちのせいなんだ……!
笑顔で歩いてる若い女を見るたび、腹の底が煮える……
なんであいつらだけ楽しそうなんだ……俺は……俺は……!」
男性の声がすでに叫びに近づいていた。
御堂と藤堂は白峰のすぐ後ろまで駆け寄っていた。
男性の声が次第に大きくなり、苦痛と怒りに満ちた内容が路地に響き始めていた。
御堂は走りながら後半部分を聞き取り、眉を深く寄せた。
彼女が白峰の背後に到着した瞬間、苛立ちと呆れが混じったキッパリとした声で口を挟んだ。
「ちょっと待ちなさい。
いじめられたのは可哀想だけど……それって結局、逆恨みじゃないの?
悪いのは虐めた張本人達であって、笑ってた女たち全員のせいにするのは筋違いよ。
そんなことで何年も恨み続けて、若い女を見れば腹が立つなんて……ただの八つ当たりじゃない」
その言葉は、容赦なくストレートだった。
相手の長年の苦しみや積もった感情をほとんど慮ることなく、論理的に切り捨てるような響きがあった。
男性の顔が一瞬で真っ赤に染まり、目が血走った。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい!!
女に何がわかるんだ!!
お前らも……お前らも笑ってるんだろう!?」
男性の体から、黒い負のエネルギーが一気に噴き出した。
どろりとした黒い靄が渦を巻き、周囲の空気が歪み、地面が低く震え始めた。
路地裏の影が不自然に伸び、まるで生き物のようにうねる。
御堂の顔が一瞬で引き締まった。
「しまった……!
この男が発生源!
新月を待たずに顕現なんて……!
しかもこんなに濃いなんて……!」
その言葉とほぼ同時に、男性の体から黒い負のエネルギーが爆発的に噴き出した。
藤堂は呪符を構えながら、思わず御堂の方を恨めしげに見た。
「……御堂さん、今のは……」
白峰も驚きのあまり目を大きく見開き、御堂を振り返った。
その視線には、明らかに「今の発言が引き金では……?」という非難と戸惑いが混じっていた。
御堂自身も自分の言葉がきっかけだったことに気づき、珍しく表情を強張らせた。
しかし、すぐにプライドの高いエリートらしい顔に戻り、唇をきつく結んだ。
「今のは……私のミスね。
でも、後悔している暇はないわ!」
藤堂が緊張した声で叫んだ。
「白峰さん、下がって!
これはもう……抑えきれない!」
新月の晩を待たずに、自然発生した妖怪が、
御堂のデリカシーも容赦もない一言によって完全に顕現を始めていた。
黒い霧が男性の全身を包み込み、路地裏の空気が重く歪み、地面が激しく震え始めた。
影が生き物のように蠢き、男性の背後で不気味な形を成しつつあった。




