(真愛その八)蛇と蜂
次の部屋には誰もいなかった。ただひたすらに長い上りのエスカレーターが続いてた。私たちは、その長いエスカレーターに並んで乗っていた。
彼は帰ってきた。あのモニターの中の世界から。きっと百分率でいえば一にも満たないであろうその希少な生還という札を彼はつかんだ。そしていまも私の隣に立っている。
あの時。目の前で彼は底なしの暗闇に向かって落ちていった。自身の悲鳴さえ遠くに聞こえるほど、たったいま起きたことが理解できない状態にあった。起きた現実を飲み込むことができない。だからただ気忙しく呼吸を繰り返した。こんな罠があっていいのか、そんな被害者意識さえ入り込む隙もなく、ただ息をする。もっと急いで吸わなければ酸素がなくなってしまう。そういう危機感だけに囚われて激しい呼吸を苛烈に繰り返していた。そういった絶望を受け入れられない私に向かい、目の前の住人は死にたくなければ順路に進むようにと、それだけ言った。
促された順路に沿って扉を開けると、その先に設置されたモニターの中に彼は居た。飛びつくようにして画面を両手で持った私の前に、白い文字が印字され始めた。それは計画の詳細だった。この後登場する、うそつく番人たちが彼をだまし討ちにするための計画。その上彼を騙す役は、彼の元交際相手の姿形をした番人だった。
「回廊での記憶を失った状態で目覚める。第一回のトラップまでの誘導期間はゼロ日、ゼロ時間、十八分程度、その間に失った部分の記憶を取り戻す可能性は九パーセント未満。誘導された先で悲鳴を聞き、振り向いた際の転倒および転落率は八十九パーセント。なお転落時の致死率は七十ニパーセント・・・」
その説明を読むほどにわかることは、彼が生還できる可能性の低さだった。
再び過呼吸を繰り返す私の前で、彼にとっての悪夢が展開された。
あまりに理想的な人生の再開を提示され、思わず高揚してほほをつねる健之の姿は、これ以上ない残酷な絵面だった。
しかし・・・。彼は殺されなかった。そして番人達が創りだしたその目の前の現実世界に真実など一つもない、全てが仮装なのだということをしってなお、健之の真は折れなかった。
その偽物の世界から生還した健之のメモリーには、二千万スティーアーポイントが加算された。魚の男がいた部屋を出た際の加算ポイントは、約五万だった。健之の強運は私の不運の大きさを凌駕していた。
いったいどんな人間と組んだら、この回廊をここまで進んでこられるというのか。危機的場面は幾度もあった。だが、私は擦り傷だけでここまで来た。
全て彼のおかげ。そして何一つチームに貢献しないばかりか、その彼に嘘をついてた私。だが真実を知っても、彼は変わらなかった。もはや何を一つも迷うことはなかった。私はこの回廊を進む限り、彼を信じ付いて行く。私はそれだけを心の中で何度も反復したのだった。懺悔を繰り返すように。
エスカレーターを上りきり、扉を開けると小さな部屋に出た。内装は黄色と黒のストライプ。壁、床、天井、全てが警告カラー。そして、例によって扉が二つある。他にあるのは、回廊の認可印が押された掲示板。
「いずれか一つの扉へ進め。他の人間が居合わせた場合、同じ扉を選択すること不可なり。入室から八分十二秒後、進退共に不可となる」
健之が私に聞いた。
「どう思う?」
「今回は文章で書いてあるし、言葉遊びはないみたいですね」
「うーん、確かに。でも、なんかシンプル過ぎて却って迷っちゃうね」
そういって健之は苦笑いした。私も一応、迷う振りをする。だが実際は迷わない。彼が決めてくれた扉を、信じることができるからだ。
「唯一の違いは、これだけか」
扉の中央に、小さな絵が描かれていた。
「ほんとだ。こっちは蜂でしょ? こっちは三角頭の蛇…ハブ?」
「うーん。この輪状の模様は、マムシかなあ」
「マムシ?」
「うん。毒蛇」
「咬まれたら死ぬの?」
「死ぬことはないはず。でも蜂のほうは死亡例もある」
彼は知識が豊かだった。それは彼の休日の過ごし方に由来する。
彼が良くいっていたコーヒーの店。一階は普通の喫茶店だが、二階は本棚に囲まれている。置かれているのは、辞典、図鑑、地図の類が多く、その他にも神話や、歴史、和歌や、俳句、園芸や、世界遺産、考古学に、列車や航空力学といった、彼が喜びそうな種類の本が集まっている。その店に行き、いくつかの豆の中から好みのものを選び、棚から興味ある本をとって窓際の席に座る。柔らかな日差しがテーブルに少しだけあたる二階の席。熱いコーヒーを飲んで本を読む。
「それが休日の一番の楽しみだったかなー、なんだかんだいって。へへへ。つまんない男でしょ?」
そういった彼に、私は勢い良く首を振った。私にはできなかったからだ。不安にならず、自信をもって一人の時間を堪能することが。誰にも邪魔されない優雅な時間をのんびりと過ごす休日。そんなものは、もてない女の負け惜しみでしかない。そう思っていた。正しくはそう思っていたかった。好きでもないことを誰かに合わせてしていたほうが、一人で好きなことをする寂しい女より遥かに幸せなのだと。
だが今はよく分かる。健之のような休日を過ごしてみれば良かった。きっとそれは私に必要なことだったのではないか。負け惜しみを言っていたのは自分のほうだったのではないか。
「よし。決めた。こっちに行こう。久遠さんもこっちで良い?」
健之はすぐに扉を決めた。彼が指差した扉には、蜂の絵が描かれていた。
「うん。でもどうして? スズメバチは死ぬこともあるんでしょう?」
「うーん。考えてもしかたないよ。ってのは建前で、ほんとは蛇が苦手だから」
そう言って健之が笑みをつくると後ろの扉が開いた。
「おまえら人間か?」
男が三人。胸にバッチをつけていない。そして色は違うが、私たちと同じ腕輪をしている。歳はみな同年代だろう。
「あ、そうです。あなた達も?」
「嘘だろ? 番人に決まってる」
最初に聞いた男ではなく、後ろにいる男がそういった。私は腕輪をみせた。
「人間以外は、これをつけていないはずです」
「止まれ!」
私が近づいて腕輪を見せようとすると先頭の男が両腕を広げ、他の二人を下がらせながら、自分も後退した。そして大きな鉈を出して構えた。
「敵意がないのは信用してやる。だが、それ以上前に出るな」
落ち着いた調子で先頭の男がいった。ラグビーのユニホームを着ていて、体格は横も縦も大きい。
「こっちも、命がけだからな。そんな腕時計を見せられたぐらいで信用はできない。番人じゃないなら、いったんこの部屋から出て行ってくれ」
ヘッドギアまでつけたラグビー服の男は、冗談をいっているようには見えなかった。小さなその部屋に殺伐とした空気が出来上がっている。私はゆっくりと健之をみた。彼は小さく頷いた。
「わかりました。そうします」
「よし、それで良い。ただし手を挙げて歩けよ」
長髪の男がいった。服装で体格まではわからないが、シャツから出た首が筋肉質な体型を物語っている。もう一人のジャージ姿の男も、明らかに体育会系という雰囲気だ。
私は健之に続き、手を挙げて壁際を横歩きした。そして元来た扉の前に立った。彼らが進路を選択する間、私たちはこの部屋をいったん退室させられるわけだが、おそらくその間も制限時間は減り続けるだろう。いつ、いなくなるかわからない彼らを待っていたら、私たちの時間がなくなってしまう。
「もしかして魚の男がいる部屋を通ってきませんでしたか」
扉を開ける背中で、健之がそういった。
「おまえらも魚の頭の男にあったのか?」
僅かに、緊張した空気が緩んだ。健之と私は揃って頷く。
「おい、無駄口をたたかずにさっさと出て行けよ」
長髪の男がそういって牽制する。
「その魚頭の男ってのはどういうやつだ」
前に出ようとする長髪の男を制して、ヘッドギアの男がそういった。
「首から上がチョウザメのおとこです」
「じゃあその特徴を細かくいってみろ」
(久遠さん。頼む)
健之が私をみて小声でいった。私はチョウザメ男について覚えていることを話した。その部屋の特徴についても細かく。すると話は途中でヘッドギアの男に遮られた。
「魚頭の男がいた部屋に鉄格子なんてなかったぞ、それに一人じゃない。首から上が魚のやつはもう一人いた。やっぱり信用できない」
「いや、この回廊は入室するパーティーの能力によって姿を変える。だから同じ扉を開けても、そこにいる番人の種類や、数は違う。でもこれは推測に過ぎないんですが、番人のキャラクターは変化しないはずだ。チョウザメは生きた人間の肉を食べるのが好きだ。それと血液中の匂いがわかるらしく、喫煙者の僕の肉はまずいからいらないと言っていた。老人のようにスローな動きで油断させてくるが、実はとても俊敏に動ける」
健之が私の前に立って早口でそういった。その背中は頼もしく見えた。出会った頃と今の彼は別人のようにも思える。まるで彼の腕輪に刻まれて行くポイント数値が、彼を成長させていくかのように。二人の男は顔を見合わせた。
「確かに、俺も肉が不味いとか言われた。最初はじいさんみたいに動きも遅かった。顔もそう言われてみればチョウザメかもしれないし、この鉈もやつを倒した戦利品だ。だが、それだけじゃあ信用はできない。すぐにこの部屋から」
「わかった! 信用できないなら、それでも良い。ただ、ずっとここから動かずにいる。だから、この部屋の中にいさせてもらえませんか。あなたたちと同じ扉を選択してしまうと、僕らはアウトなんだ。だからお願いします」
「ああ、確かにここに書いてあるな。人間同士が同時期に入室すると、同じ扉は選べないらしい」
先程から、二つの扉を見比べていたジャージの男が、振り返ってそういった。ヘッドギアの男と、長髪の男はずっと私たちの方を睨んでいたことから、頭脳となっているジャージの男の信頼感の高さがうかがえる。
「そうか。じゃあ、まあ、そこを動くなよ。おまえにまかせる」
そういって、ヘッドギアの男は鉈を長髪の男に渡した。長髪の男はそれを持って、私たちの方へ二歩近づく。
「絶対に動くなよ。動いたら容赦なく殺す。俺は元プロボクサーだ。半魚人も殴り殺した」
「そ、そんな人相手に、逆らったりしないですよ」
健之が苦笑いした。手を挙げた私の体も硬くなる。
ヘッドギアと、ジャージの男は二つの扉の前であれこれと議論していたが、しばらくすると扉を決め、そこに入った。遅れて長髪の男が続いた。三人が次の部屋に入り、扉が閉まると、私たちは大きく息を吐いた。
「しかし、驚いた。チョウザメ男に向かっていくなんて。そういう選択肢もあるんだね」
安堵した表情で健之がいった。
「うん。信じられない。たしかに三人とも強そうだけど」
私は腰を抜かしたというのに、その相手に向かっていって鉈を奪うとは・・・。
「あ! でも、そんなことよりもう時間がないわ」
「ああ、そうだった!」
私たちは急いで扉を開けて、中に入った。三人の男が選択したのは、蛇の絵が描かれた左側の扉だった。私たちは健之の当初の希望通り、蜂が描かれた右側の扉へ進んだ。
扉の先は奥行きが見えない、天井の低い部屋だった。前に進むしかないのだろう。床の中央には線路があり、右側は壁、左側は間仕切りガラスがどこまで続いている。そしてその線路を走行すると思われる乗り物がレール上に置かれていた。箱型、車輪付き。大人三人程度がやっと乗れるような小さな乗り物。動力はなさそうだ。
「これに乗れってことかしら」
「そうだろうね。徒歩で行ける距離じゃないみたいだし」
そういって健之はすぐに乗り物を調べ始めた。
「あ、ねえみて? 隣にも、同じ乗り物があるみたい。さっきの三人組みがいる」
「ほんとだ。まさか、競争じゃあ、ないよね」
間仕切りガラスの向こう側には、同じように線路と乗り物があって、先程の三人がいた。
やがて男達もこちらの存在に気がついた。すると彼らは慌ててマシンに乗り込んだ。それを見て健之がいった。
「まずい! 後にゴールしたほうにペナルティーがあるかもしれない。僕らも行こう」
健之に即されて乗り込むと、車がゆっくりと走り始めた。エンジンやモーターの音はしない。だがそれは進む。
「どうも、向こうのほうが早いみたい」
健之がそういってガラスの向こうを指差した。三人の男が乗ったマシンとの差が、少しずつひらいている気もするが、やがて私たちが乗った車も快調に速度をあげた。どれくらいの速度なのかは推しはかれないが、私が自転車を本気で漕いだ程度では追いつけないだろう。
「星川さん、前! あれ、蜂じゃない」
「ほんとだ。まずい」
しばらく進むと、蜂の大群が出現した。千や、万という数ではない。狭い空間を、びっしりと埋め尽くしている。近づくにつれそれらの羽音が轟音となり脳を揺らす。どこからくるのかわからない向い風が吹き、車がわずかに減速する。大群との距離は四、五十メートル。ブレーキレバーを引くか、減速を始めた車をこのまま走らせるか。例によって選択肢を迫られる。私なら間違いなく止まる。
「久遠さん、頭下げて! 風の抵抗を減らすんだ。このまま突っ込む」
「は、はい!」
私は言われた通りに、出来るだけ深くマシンに潜り込んだ。前室の会話でスズメバチについて聞かされてもいる。生きた心地がしない。
だが数秒間うずくまっていると、落ち着いた健之の声がした。羽音も遠ざかっている。
「もう、平気だよ。僕らを襲う気はないみたい」
顔を上げると、大群は見えなくなっていた。健之が火のついた煙草を口にくわえていた。私のすぐ側にも火のついた煙草がくっついていた。私が彼の傷口にはったテープで、それは固定されていた。
「煙が出れば少しはましかな、と思って。でも一本ずつに火をつける時間しかなかったから、効果はなかっただろうけど」
苦笑いした彼に感心する間もなく、次の情報が入ってきた。
「ば、番人だ」
彼が指差す方に振り向くと、ガラスの向こうで覆面を被った男が走っていた。黒いタイツに輪状の模様、顔を覆う面は三角形。面の口元からは紫色の細長い舌が飛び出ている。背中には日本刀。遥か前方を行く、三人組みの車に向かって走っている。
「マムシだ。しかもなんだ・・・、あの速さ」
健之が煙草を咥えたままそういった。驚くべきは、時速四十キロ以上出ているかもしれない乗り物に、マムシ男が少しずつ追いついていることだった。
「まずい、追いつかれる、頭を下げろ!」
健之は大声でそういった。進むにつれて向かい風が強くなっている。こちらと同じ条件であるなら頭を下げるのは有効だろう。だがガラスの向こうに健之の声は届かない。最後部の長髪の男がしきりに顔を前後に往復させ、何か叫んでいる様子だ。
「なにやってるんだ。追いつかれるぞ」
健之はジャケットのボタンをちぎって、窓ガラスに投げつけた。だがガラスには厚みがあり、音は向こう側に届かない。マムシ男と車の距離が縮まっていく。
目の前で番人が人を襲おうとしている。私の心臓も穏やかではなくなってきた。出来れば逃げ切って欲しい。だが三人を乗せたマシンは少しずつ減速を始めた。運転席のジャージの男がブレーキレバーを操作しているのかもしれない。距離はより縮まっていく。しかし男たちはみな前を向いて後ろを顧みなくなった。
(ああ・・・、怖くてもう後ろを見られないんだわ)
だが私の想像よりも男たちはずっと勇敢だった。マムシ男がいよいよ追いつき、背中の刀に手を伸ばすと、それに合わせて長髪の男が鉈を投げつけた。背中の刀を抜かれては不利になるからだろう。見事に鉈はマムシ男の膝に命中した。そして車を止めた三人の男達は一斉にマムシ男に飛びかかる。そして僅か数十秒で勝負はついた。
おそらく今、回廊内にいるチームの中でも戦闘については上位に入るであろう三人の男は、マムシ男によて殴り倒された。その後みな一様に刀できりつけられていた。遠ざかっていくことでその様子ははっきりと見えなかったが、最後に立っていたのは黒いその番人だけだった。
「く、久遠さん、どうなった?」
運転操作で前に向き直っていた健之が私に聞いた。
「みんな殺された、み、みたい」
「そんな! 途中まで完全に押してた、はずだ」
信じられない、という声だった。そうであろう途中までを見ていた健之には、俄かに信じ難いはずだ。
「本当に、殺されたの?」
健之が再び前に向き直ってそういった。私は後ろを向いたまま、うんと答えた。
「ほ、星川さん・・・、あれみて」
「え?」
ガラスの向こう側では、車が再び走り出していた。誰も乗っていないが速度を上げてこちらに向かって並走している。三人の男が乗っていた時よりも速度がある。徐々に差が縮まっている。
「なんか、いやな感じね」
「ああ、うん」
やがて隣のマシンは、私たちのそれを追い抜いていった。抜き際に背中を丸めて運転席にうずくまっている男が見えた。彼は右手で制動装置のレバーを下に押し下げていた。
「しまった! これでもブレーキが利いてる状態だったのか」
健之がそういってレバーを下げると車は加速を始めた。だが今から加速したのでは間に合わない。マムシ男は随分先で車を飛び降り、そこから最短距離で間仕切りガラスに向かって走っていた。ガラスを割ってこちら側に入り、私たちを襲撃するのに十分な距離と時間がある。
「伏せろ!」
健之が叫びながら、風除けの中に体を丸め込む。私もそれに習おうとしたが、またしても恐怖で体が動かない。
「バンッ!」
物凄い音がした。だがガラスの厚みが勝って、マムシ男は弾き飛ばされた。男は立ち上がって、今度は日本刀でガラスを切りつけた。しかし重厚なガラスは変化しない。
諦めて立ちつくす男の前を、私達をのせた車が通り過ぎていく。気味の悪い覆面。目の部分に僅かに隙間が空いていて、そこから瞳がみえる。大きく空いた口元から歯が見えた。私はこの上ない悪寒に襲われて、その後しばらくの記憶がない。
気がつくと乗り物は停車していて、健之が私に手を差し出していた。
「着いたよ? 降りて」
私は手を引かれて、次の部屋に入った。
◇◇◇




