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(健之その八)智茶都への思い


「キミちゃん? ちゃんと歩いて」

 僕の寝ている脇を、子供と母親が通り過ぎた。足元の方に見える長いソファに、老人が寝間着を着て腰掛けていた。奥の部屋から機械音のするその廊下で、僕はストレッチャーの上に寝かされていた。首から下には毛布が掛けられている。

「ここはどこだろう?」

 そう言うと智茶都が優しい表情でいった。

「病院の廊下。色々検査したところよ。また色々忘れてないと良いけど」

 廊下か・・・。まあいい。今僕がいるのは廊下だろう。そう。回廊だ。


 今度ははっきりと記憶がある。僕は回廊の赤の扉を開け、暗闇へと墜落し、そして気を失った。気がつくと病院の屋上にいた。再び気を失った。そして今病院の廊下で目を覚ました。

 仮説として、というのか現実として、なのかいずれにしてもここは地球上にある病院の廊下、という設定の部屋なわけだ。最下位の回廊内の。

 僕は智茶都に表情を見られぬよう頭をかいて顔を隠した。溜め息をついて、しばらく一人きりで過ごしたい程に、傷ついている。精神的にだ。しかし落ち込んでいる暇はない。先ほどの屋上で気を失う直前、僕は数メートル先に番人を発見した。手に何かを握っていた。確証はないが、僕を待ち伏せていた。その目的はわからないが、僕は意識を失う寸前に疑う事なく認識した。それが自分にとっての敵だ、という事を。しかしその敵に殺傷されることなく今ここにいる。そして天国にきたわけでもなさそうだ。

 それでは何故生かされたのか? あれはあやめる番人ではなかった、のか。

 そしてなにより・・・、このどこをどう切り取っても佐川智茶都そのものである彼女も、胸に名札がついていない、という現実。

(番人・・・、そう認識しろということか)

 智茶都とやり直せる、という未来を見せておいて。それも勇敢に子供を救った男として。

 そんなこの上ない都合の良い未来をみせておいて再び殺す。きっと殺される瞬間に記憶は戻り、ああそうか、そんなはずはないよな・・・。という具合に絶望して死んでいくわけだ。

 いったい誰の趣味か。それとも自分が認識しているよりずっと最下位者になる事は罪深いものなのか。


 僕は顔に手をあてた。そして音を立てないように深い息を吐く。猶予は少ないはずだ。どう行動するか、早急に方向性を決めなければならない。


 まず、僕に記憶が戻った事を智茶都に悟られないようにする。それが無難だろう。だが今ひとつ確信が持てない自分がいる。

(そうだ)

 僕は智茶都がこちらをみていない隙に、ストレッチャーから頭を起こして傾げてみる。しかし対象の首から上を見つめても、まったく何も起こらない。まるでサトリなど最初からなかったかのよう。混乱が増していく。

 しかしまず安全と思われる場所に移動しなければならない。ここでこのまま寝ているわけにはいかないだろう。

「ああ。まだ安静にしてなきゃ。頭を打ってるから、脳に異常がないってわかるまでは安静にしてないと。もうすぐ病棟の看護師さんが迎えに来てくれるから」

 起き上がろうとする僕に、智茶都が顔を近づけてそういった。独特な口元の動き。かぎ慣れた香水。ふわりと弾む語尾。こんなに真に迫って再現されては・・・。胸の奥、鈍く濁った塊が重しのように僕を圧迫する。このまま騙され続けていたい。幸せな気分のまま殺されるほうが、むしろ・・・、瞼の奥があつくなり、僕は慌てて口を開いた。

「僕は、屋上にいたはずでは?」

 いそいで作った不思議そうな表情に智茶都がこたえる。

「そう。でも急に膝が折れて床に倒れたの。先生は貧血だろうって」

 でも良かった。屋上にいた記憶は残っているみたいね。と、彼女は付け加えた。

 やがて病棟に連れて行くといって、看護師の制服を来た女が迎えに来るのだろう。この廊下の突き当たりに薄暗いエレベーターホールがある。おそらく病棟の看護師は、そこからやってくる。白衣の天使か、武器を持つ悪魔か。それまでに逃げ道を探さなくてはならない。

「おさださん。お待たせしました、中にお入りください」

 部屋の中から声がした。長椅子に腰掛けていた老人が杖を使ってゆっくりと立ち上がった。立ち上がると向きを変え、一歩ずつ慎重に歩き始める。今、その老人が入ろうとしている場所以外に、この廊下には部屋がない。他には窓がある。緊急時に消防隊が出入りする、非常用の窓ガラスがEVとは反対の突き当たりに一枚。老人は咳をしながら部屋の中に入っていった。部屋の扉は内側に向かって開放状態になっている。MRI準備室、と印字された札が入り口の壁にささっている。部屋の中は明るいのだろう。薄暗い廊下はMRI準備室の付近だけが、はっきりと明るくなっている。老人が検査室に入ったため、廊下には僕と智茶都の二人だけになった。「ピー・ピー・ピー・」という規則的な音が部屋の中から聞こえている。逃げ道は三通り。

 まずは非常用の窓ガラス。今いる廊下の階数はわからないし、窓の外には木の枝葉しか見えない。枝葉からわかるのはここが地下ではない、ということだけ。それと検査室があることから、ここは高層階ではない、と考えて良いだろう。もし二階程度なら外に飛び降りて逃走できる。

「ねえ? 何考えてるの?」

 僕は聞こえない振りをした。

 次に老人が入っていった検査室。ここには今、少なくとも二人の番人? がいる。中に誰かがいるのだから、ここを逃げ道とするのは危険だ。

 最後はEVホール。白衣の天使は今から何秒後にくるかわからない。うまく時宜を得られれば、エレベーターにのって好きな階に逃げられるだろう。しかし僕が呼んだエレベーターに白衣の天使が丁度乗っている、という大きな危険が伴う。だが反面、成功すれば最も安全な逃走経路か。

 つまり三方向に別れている進路の中から、どこへ逃げるか、ということのみに的を絞れば良い。それ以外の可能性を考慮しない。

 ここが回廊の中であればおそらく両足とも動くはずだ。例によって一つを選択すれば良い。さて、どうするか。

 僕が絞り込んだ的は正解だった。事態は僕の予測した範囲を飛び越えずに展開した。窮地にしては上出来だ、誤算は一つだけだったのだから。その誤算とは考えがまとまらないうちにエレベーターのドアが開き、番人が降りて来た事だった。

◇◇◇


「あ、健之お迎え来たよ?」

 智茶都が落ち着いた口調でそう言った。ナースはもう近くまで来ている。心臓の脈動が耳から伝わってくる。

 どこへ逃げる? と、その言葉が反復するのみで答えは反響してこない。

 エレベーターはもう使えない。つまり選択肢は検査室か、非常用窓、この二つだけた。検査室には一人以上の誰かがいる。逃げるなら非常用窓しかない。

 僕は立ち上がって、ストレッチャーから降り、走って窓を開け、外に飛び降りる。そう頭でイメージした。

(いくぞ・・・)

 体は布のベルトでストレッチャーに固定されていた。しかも一ヶ所ではない。上から解いていたら、体が自由になるまでどれくらいかかるか。

 仮にナースがあやめる番人ではなく、みかたの番人やうそつく番人だったとしたら・・・。下手に動いたことで僕に記憶が戻っていることが露見する。だが反対にあやめる番人だった場合、接触される間合いまでに、一つでも多くのベルトを解いていなければ。

「バタン!」

 老人が入った検査室の扉が閉まった。「ピーピーピー」という音が廊下から消えた。

「星川さーん、お待たせしました」

 足の方角から声が聞こえる。若く溌剌とした女の声。

(しまった、もう間に合わない)

 白衣の天使が眩しい笑顔で上から僕を覗き込む。

「もう、検査は全部終わりですからね。病棟戻りまっしょっか」

 胸に名札はついていない。それに逃げる気力を一瞬で削がれるほどの善意に満ちた笑顔。

 そして結局一歩も動くことのできなかった僕をのせて、車輪付きの寝台は薄暗い廊下を動き出す。

 呆然と動く天井を眺めていると、ここがどこなのかわからなくなった。

 回廊などというものは元々存在しないのではないか。今、僕は地球上の何処かにある病院にいて、智茶都がいて、天国も、まして二度目の世界など存在しない。屋上で見たのは番人などではなく、ただの精神異常患者だ。そういう患者がいてもおかしくない。その為に屋上の洗濯場は高い金網のフェンスによって完全に囲まれていたし、出入り口には暗証番号式の鍵が取り付けられていた。それに気を失って隙だらけだったはずの僕に誰も危害を加えていない。

 まして。ましてだ。この僕が人の命を救って新聞に載って、智茶都ともやり直せる。なにも変わらずこれかれも交際が続く。

(そうだ。これが現実だ)

 きっとこうだ。僕は事故で死ぬ予定だったのだ。だが運が強く、トラックにはねられただけで済んでしまった。しかし死神は僕を殺さなければならない。そこで頭を強く打った僕の、隙をついて通信システムを立ち上げた。その回路を使って、僕と智茶都が復縁した辺りの記憶を抜き取り、代わりに最下位の回廊や番人という仮想現実を埋め込んだ。失った記憶を何度説明されても忘れるのは、死神が埋め込んだシステムのせいだ。 つまり地球上の人間を全て番人と思い込んでしまう僕は、やがて図らずしも自滅していく。


 そういう都合の良い考えが少しずつ、僕の理性を押していく。

「ピンポーン」

 エレベーターのドアが開き、かご内の灯かりで薄暗いホールが明るくなる。僕の乗っているストレッチャーがエレベーターの中に運ばれる。

 エレベーターの室内は明るかった。プラスチックカバーに包まれた照明器具が僕を照らしている。操作盤のスイッチは四階のランプだけが点灯していた。僕たちが居た階は二階。僕が運ばれる病棟は四階。最上階は十二階。

「明日になれば、半分ぐらい検査結果が出ますからね。きちんと異常がないとわかるまで安静にしていてください」

 僕は他人事のようにその言葉を聞いていた。

 ピンポーンという音とともにエレベーターは四階に到着した。外に出ると、天井の種類が変わった。

「あら、おかえりなさい」

「また頭やっちゃたの?」

 などと他の看護師が声をかけてきた。智茶都がそれらに返答している間、僕はストレッチャーの上で通り過ぎていく人達の胸を確認していた。しかし誰一人として名札をつけている者がいない。つまり全員が番人、ということになる。だがそれはやはり無理があるだろう。だとすると夢でみた出来事なのだろうか。最下位の回廊へ行ったことや。出会った人までも。思考はいよいよ混乱し、警戒心は省かれていく。

『四○三号室 星川健之様』病室へ着くと、ベッドに僕の名前が書かれていた。病室にはベッドが一つきりだった。窓際には無数の花が飾られていた。それは窓横の棚に置ききれず、面台にも置かれ、すぐ下の床にまでならべてある。その花々の隙間から、窓の外に茶色い大きなビルがみえた。花の中にはメロンもあり、色や形が違うものがいくつも飾られていた。それにしても大袈裟な花の数だ。(テレホンショッキングか・・・)

「歯ブラシの事。おぼえてる?」

「歯ブラシ?」

「そう。健之が入院した次の日にお母さんがきて、下の売店で買ってきてくれたやつ」

そういって彼女はベッドの横を指差した。その方向に引出しがあり、その天面に青い歯ブラシがあった。

「いや、わからない。なに?」

「そっか。昨日ね? 毛が硬くて使いづらいから、軟らかいもの買ってきてくれ、っていったのよ」

 僕は頭を振ってみせた。

「さっき健之が検査受けてる時に、近くのスーパーで買ってきたから。一番上の引出しに入れてあるわ。明日までは点滴してベッド上だから歯は磨けないけど」

 智茶都は面会時間が終わるまで、話し相手になってくれた。久しぶりの彼女との時間を過ごすうち、いつしか僕は複雑な自分の状況をすっかり忘れていた。

 二人で昔の話や、これから行ってみたい場所の話をした。会話をしながら、彼女は内緒でメロンを食べさせてくれた。光君の親戚が送ってくれたという夕張メロンは、とても甘くてやわらかかった。

「御来院中のお客様にお知らせいたします。当院の面会時間は午後七時までとなっております…」

「あっ。そろそろ帰らなきゃ。また明日くるね。今日は安静にしてなきゃだめよ。看護師さんの話おぼえてる? 今日はもう寝て良いの。ご飯も明日の朝まで出ないから。そのかわり点滴するらしいの。明日の朝六時になったら採血をして、八時にご飯。十時には先生が回診にくるから、それまではここにいないとだめよ。わかった?」

「うん」

「明日なにか買ってこようか?」

「来てくれるだけで良いよ」

 彼女が出ていくと、僕は病室にひとりになった。少しの間会話をしただけ、ただそれだけ。だがそれは僕の心の隙間のようなものを一杯に満たした。彼女が本物の智茶都ではないかもしれない。そんなことはどうでも良かった。僕はとても夢中になっていた。病室に一人取り残されてみてそれを実感した。何もかも今見えているものの全てが現実であってくれたら。

 いや、現実でなくても構わない。夢なら覚めないままで。思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを。

◇◇◇



 目が覚めるとあたりは暗かった。部屋の電気が消されていて、かわりにオレンジ色の小さな電球だけがついていた。花の隙間から窓を覗くと、暗闇に映った僕がこちらを覗いていた。

(いつの間にか寝ていたのか)

 僕は棚においてある時計を手にとって近くでみた。デジタル時計は二時二十五分を示していた。そして日付は僕が死んだ・・・、はずの日から数えて五日目。

つまり僕はあの日、死ななかった。そして生存し五日目を迎えている。僕が死んでこの世から居なくなっただけにとどまらず、なんと最下位に選ばれ、果ては生死をかけて不気味な回廊を進む。あの悪夢のような敗者復活戦は現実ではなかった。

「と・・・、もうそういうことで良いですよね?」

 そう呟いてから僕は長い息を吐いた。額に手を当てると、妙な違和感があった。熟睡していた感覚はあるものの、頭の中がすっきりとしていない。どちらかというと疲労感、のようなものが眠る前よりも増している。

(それにこれは・・・)

 刺された覚えのない点滴の針が右腕に刺さっている。針はしっかりとテーピングされており、管に血が逆流しているのが見える。液は鼓動に合わせるようなテンポで滴っていた。

 しかし・・・、針を刺されたことにさえ気がつかないほど熟睡していたのなら、このまるで徹夜途中のような重たさはいったいどうだ。

(・・・。まあいい、まずはトイレだ)

 僕は疲弊したあたまで思案することをやめた。だがトイレに行こうと、ベッドから足を下ろしかけて途中で止めた。明日まではベッド上で動いてはいけない、と智茶都にしつこく言われていた事を思い出したからだ。

(しかたないこれにするか)

 僕はこの場で用を足すことにし、ベッドの脇の籠から尿瓶を取り出した。しかしいざ尿瓶をかまえてみると容易ではなく、もう少しで出そうなところまではいくものの、なぜか最初の一滴が出ない。

 たしか部屋の目の前、数歩先にトイレがあったはずだ。僕は尿瓶を諦めて外に出ることにした。

 点滴スタンドを引きずりながら、松葉杖をかかえドアを開けた。貧血気味なのか、首の後ろが異常に重い。

 廊下に出てみると、そこには誰もいなかった。僕はスライド式のドアを静かに閉めた。両隣の個室も同じタイプのスライドドアがありどちらも閉まっていた。歩き出してみると静まりかえった廊下に、点滴スタンドを引きずる音が響く。廊下の蛍光燈は三基に一基だけが点灯していて薄暗い。

 壁面にかかっている避難経路図を見ると、この病棟の廊下は角ばった円になっていた。EVホールを出て真っ直ぐ歩けば、再び元のEVホールに戻る円。その四角い円の外周が病室になっていて、内側にナースステーションや、リネン室、トイレや風呂が設置されている。僕の入ったトイレはちょうどEVホールの対極に当たる。中に入り、すぐにに用を足した。

「カツ、カツ、カツ」

 それは初め、規則的な何かの機械音だと思った。だが次第に大きくなる。これは人の足音か、と気がついた時には一歩ごとに大きくなるそれが、どうやらこちらに向かって来るのだとわかった。ベッド上で安静、という病院の指示を無視してトイレに来た僕としては人に見つかりたくない。

(念のため隠れてやり過ごすか)

 音を立てないよう注意しながらトイレ内の個室に隠れた。

 個室の中は暗く、戸を閉めきってしまわずとも、半開きになった戸の裏に立つことで十分に身を隠すことができた。点滴のルートに逆流した血が登っていく。

「カツ、カツ、カツ、カツ」

 先程よりも足音はしっかりと。そして大きくなって近づいて来る。しかし・・・。一つの疑問が生じた。

 患者はスリッパか、サンダル。看護師だとすればスニーカーやそれに類するもの。当直の医師や事務の人間だとしてもこの時間ならサンダルを履いているのではないか。患者の親族だとしてもこの時間に呼ばれるほどの重体なら、一般病棟に既にいない。だとすると、この靴男は・・・。

 思案しているうちに足音は止んだ。あたりが再び静寂に包まれる。そしてすぐに代わりの音が鳴った。

「ガラ、ガラ、ガラ」

 個室のスライドドアが開けられる音。昼間ストレッチャーの上からみた限りでは、大部屋やベッドが複数ある部屋にはドアそのものがついていなかった。つまりそれは個室にしかない。音の近さから、この付近四、五箇所の内のどれかだ。

「カツカツカツカツカツ」

 ドアが開く音がして間もなく、先程よりもテンポの速い足音がした。歩いてきてどこかの部屋を覗いたその人間が、急に走りだした。足音はEVホールの方へ遠ざかっていく。

(フゥー)

 僕は足音がしなくなるのを待って個室を出た。また誰かが来ないとも限らない。僕は洗面台で手も洗わず廊下に出た。するとやはり個室のドアが開いていた。開け放たれているそのスライド式のドアの向こうには、多くの花と花飾りそれにメロンがあった。

 血の気が引く。

 つまり・・・。何者かがEVの方角から歩いてきた。その目的地は僕の病室だった。だがドアを開けてみるとそこに僕はいなかった。そうと知って走り出した。それも元来た道を戻らず、この四角い円になった廊下を一周するようにしてEVの方角へ駆けた。走りだした理由は、病室に僕がいなかったこと、と断定して良いだろう。元来た道を選択しなかったのは、偶然か、それとも逃げた可能性のある僕を追うためか。

「パタン!」

 松葉杖が倒れ、その音が廊下に響いた直後、「ピンポーン」というこの階への到着音が、遠くEVホールから聞こえた。

 間髪を空けずに、さっきと同じ足音がこちらに向かってくる。

《逃げて!》

 僕の脳が自身にそう命令するが、脅える心が抗弁する。当直の医師ではないのか? 僕がいなかったので慌てて探しているのではないのか? 実際こちらに向かう足音は、早歩きではあるものの走っている訳ではない。

 だが体は脳の言うことをきいていた。僕は点滴のルート針を、テープごとぶち抜いて足音とは逆の方に歩き出していた。腕に血が伝う感触がする。脅える心がなおも訴える。落ち着いて考えればいいのだ。ここが回廊内であるだろうか? こんな手の込んだトリックをつくるだろうか? こんなことまでするのなら、素直にジョーカーの番人でもなんでも出せば良いではないか。

(なあそうだろう?)

 そう言い聞かせて、自身を落ち着かせようと試みる。だが次の瞬間には絶句していた。

 ギブスのついた全治六ヶ月の足は、なんの痛みも重みもなくしっかりと床を蹴り上げていた。包帯が巻かれた左腕を試しに何度も叩いてみたが、どこにも痛む部分がない。

《走って!》

 今度は即座に脳の命令にしたがった。履いていたスリッパを脱いで裸足で走りだした。合わせて、こちらに向かってくる足音も走り出す。角を曲がるとナースステーションがあり、そこにいたナースが走っている僕に向かって慌てて駆けよってきた。

「なにしてるんですか星川さん!」

 僕はそれを無視して走る。

「カッカッカッカッカ」

 足音の方も速度をあげている。足がうまく回転しない。足音はどんどん近づいているように感じる。エレベーターホールに辿り着いた僕は飛びつくようにして上と下のボタンを連打した。

 丁度この階に停止していたエレベーターは上の矢印を表示してドアを開ける。僕はそれに飛び乗り、閉まる、のボタンを叩く。ドアーが両サイドからゆっくりと閉まる。閉まりきる前に足音の主がその狭い視界からみえた。白衣を着た男。充血した目でこちらを睨んでいた。精神異常の医者か、いや、やはりあやめる番人か。

 ドアが閉まると、僕は行き先階のボタンを押した。だが操作パネル上のボタンを押しても「ただいま夜間警備中です。ランプの点灯しない階には止まりません」という落ち着いたアナウンスがなるだけだった。焦った僕は手当たり次第にボタンを押した。唯一点灯したのは屋上階の十二階と一階だけだった。エレベーターは先に押された十二階に向かって動きだした。

(ああ……)

 パニック状態から、少しだけ冷静を取り戻した僕は息を切らしながら呟いた。

「これでクリアーでしょ? エレベーターが開いたら次の部屋に変わってるんでしょ?」

 僕の脳が自答する。

《まだクリアーじゃない。十二階についたら階段を上がって屋上に》

「まだあるの? でもこの後におよんで、屋上はないだろう? 自分で袋小路に逃げ込むようなもんだ」

 十二階についたら、右足のギブスで操作パネルを破壊し、ドアーの安全装置に消火器かなにかを挟んで、自分は階段で下まで逃げれば良い。エレベーターの停止階が一階と、十二階しかない以上、十二階で降りたと見せかけ、一階まで降りるという手もある。しかし番人が四階から動かずに、ひたすら上と下のボタンを押して様子を伺っていたら、下に向かう僕は四階で男と再会してしまう。

 避難経路でみた二本の階段を使い、ジグザグに階下に進もう。そして一階まで行き、玄関の硝子をギブスで蹴りわって外に逃げればよい。きっとうまくいく。

エレベーターは八階を通過した。

《一階にいっても外には出られない。その病院は迷路になってるから・・・》

 エレベーターは九階を通過した。

「だからといって屋上はないだろう。そこにいってなにをすれば良い?」

 脳は応えなかった。

 エレベーターが十階を通過した。

「ん? 迷路になってるって? いつ、それを記憶したんだ」

 十一階を通過。

《気付いてなかったの? さっきから私が話しかけてるんだよ?》

(わたしって、まさか?)

「ピンポーン」

 エレベーターは十二階についた。この階には病棟も部屋もなにもない。あるのは異常に長い上りの階段と、短い下りの階段だけ。その長い上がり階段の先には、洗濯場のある屋上がある。

(久遠さん?)

《うん。説明は後。すぐに番人が追いかけてくるから屋上に逃げて!》

本当に? 真愛と交信しているのか。僕の頭はよほど疲弊しているのか? もしかしたら精神に異常を来し始めているのではないか?

「ズバン!」

 僕はとりあえず、エレベーターの操作版を右足で破壊した。やはり骨折している足とは思えない運動量。痛みもない。エレベーターを出ると、もうどうすれば良いのかわからなくなった。真愛の声が、下へ逃げろといっていれば、僕は素直に言うことを聞いただろう。

 僕はおそらく骨折などしていない。それに僕を襲ってきたのは医者や、異常者などでもない。医者であれば、僕を殺そうとするのにあれほど目立つ行動をとったりはしない。もっと用意周到にやるはずだ。仮に、ただの精神異常者の乱入だったとしても、それなら僕単体が狙われる理由はない。

 条件は揃っている。あれは番人だ。真愛の存在を否定する要素はない。だが彼女はとんでもない助言をしているのだ。屋上に逃げれば袋小路だ。

 不信感というものは、余分に頭脳を明晰にする。

(死神の仕業か)

 このチャンスに僕を始末するべく、真愛というでたらめな記憶を代えし、僕を死地に追い込むつもりなのではないか。

(やはりここは地球か)

《だめ! 騙されてはいけない。あなたはそこを脱出しなければ殺されてしまう。天国にいっちゃうんだよ?》

(じゃあどうやってここを脱け出せば良いんだ?)

《そこから脱出するには屋上にいくしかないの》

 屋上に逃げてなにがあるというのか・・・。

(やはり死神だ。そういってうまく僕を誘導する気だな! この足に痛みがないのもおまえのプログラム操作なんだろう。今になって思い出してみれば、番人だと思った男は智茶都の元担当医ではないか)

《違う。冷静になって考えて!》

 迂闊だった。頭に響くその声との会話に気を取られ、僕は足音に気がつかなかった。例の低音で響く靴底の音は、すぐ近くの階下からこちらに向かって大きくなってくる。低く地を這ってくる声が僕の名を呼ぶ。

「だっ、誰だ?」

 僕はたまらずに階段を上って逃げた。足音はもう真後ろにある。

《もっと、速く走って! 屋上のフェンスの鍵は〇八三一で開くから》

 僕は階段を躓きそうになりながら駆け上がり、屋上に出た。暗証番号を合わせてフェンスの扉を開けた。男に追いつかれる一歩手前。ギリギリのところで金網フェンスの外に出た。遠くにこそ高層ビル群の灯りが見えるものの、地面や近隣の景色はほとんど一面の闇だった。

 男は僕を屋上に追い詰めると走るのをやめ、ゆっくりと近づいてきた。

「昨日、私に謹慎指示がありましてねぇ」

 男は立ち止まり、落ち着いた調子で話し始めた。

「一昨日、ちょっとまずいものを見られてしまいましてね。それで、あの連中が騒ぎだした。公にしない代わりに処分はこちらが下す、という具合です。その無礼で無能な対応には、心底腹を立てているんですよ。思い出すだけでむしゃくしゃする。しかし、だからといって今日の私の行動も軽率だったとは思いますが?」

「なっ、なんのことだ?」

《星川さん、距離をとって! 武器をもってるはず》

「まあ良い。来週を待たずに、私への彼らの決定は無効になるでしょう。なにもなかった事にね」

 男が一歩前にでる。僕は一歩後ろにさがる。足元は深い闇。僕の後ろにあとどのくらいの床が残されているのかも測れない。

「不思議ですかぁ?」

 背中に持病をもつ智茶都を診ていた整形外科医は、首をかしげてそういった。首だけではなく上半身もあわせて横に倒れている。暗い中でも目と笑った歯は良くみえる。

「君は不思議に思っても。世の中では至ってあたりまえの事でしょう。力あるものには逆らえない。あの連中も、君も、私の兄の力の前では子供以下でしかないのです」

 白衣の男の横には、いつのまにか黒いブルゾンを着た男が立っていた。服装の特徴からいって、おそらく屋上の階段室で、僕を待ち伏せしていた男だ。男は白く光る、ナイフのようなものを僕に見せるように右手に握っている。黒のブルゾンに、黒のズボン。握った白刃と、顔の輪郭が際立っている。

「そこから飛び降りるか。私の言う事を聞き入れるか。それとも私に抵抗してこの男に殺されるか。君には特別に三つもの選択肢を用意して差し上げたのだ。早急に決めてもらいたいものですね。ひっくっくっく」

「い、いう事を聞く・・・、とは?」

「ひっくっくっく。佐川智茶都さんに、二度と近づかない。それをここで誓い、守り続けるのなら私は君に危害を加えないでしょう」

「ちぃ、近づくなって? それじゃあまるで僕が、ストーカーみた」

「みたいではないでしょう? 君はストーカー以上だ。私のフィアンセにどれだけ失礼な事をしてきたと思っているのですか?」

「フィアンセ?」

「智茶都さんのことですよ。彼女もそれに気がついていると思いますよ。私ほど彼女に相応しい人間もいないだろう。君のように無能な男に使う無駄な時間は、そろそろ終わりにしてもらわなければいけません。彼女は優しい女性ですから、君のようなどうしようもない男をみると、つい助けてあげたくなってしまうのです。君がどう思っているかはしらないが、彼女の好意は同情です」

(違う! それだけは断固として違う)

 それにストーカーというならこの男の事であろう。智茶都の部屋の窓からみえるマンションを偶然この男が買ったということ。通勤電車でも、よく同じ車両に乗り合わせたり、帰り道でも良く会うと、智茶都は警戒心もなくいっていたがどうだろう。その気になればそのマンションから盗撮だって可能だ。

 だが悲惨な夢をみているような脱力感が僕を包む。自身の正当性を抗弁する力が出ない。

「さあ。どうします? あなたのような男に死を選ぶ勇気などないはずです。ならば道はひとつ、ではないですか?」

「でっ、できない。智茶都と二度と会わないなんて約束できるはっ、はずがない」

 僕は勇気というのに近いものを掻き集めてそうこたえた。

「わかりました。では飛び降りてもらいましょうか。君を殺しても良いのですが、君がそこから自殺をしてくれた方が手間は省けます。今日この病院で君を追いかける私の姿を目撃した人間は病棟のナース一人だけです。彼女一人黙らせるのは容易い事です」

 凶器を持った男がまず僕に接近してきた。強風が吹いて体がよろめく。

「逃げようなんて思わない事ですよ。私はどこまでもあなたを追っていきます。逆らっても無駄。その男はプロですから」

 気がつくと後退する足が行き止まりを告げていた。笠木の立ち上がりに踵があたった、ということらしい。ここが屋上の端だ。振り返ってもそこに床はなく、無限の闇が口を開いている。灯りがないことから下は庭、または林か。それでもこの高さなら助からない。今度こそ本当に死ぬ。

「安心して良いですよ。君のような男の代わりは、この世の中いくらでもいますから。これで智茶都さんも余計な肩の荷がおりるでしょう。彼女もきっと安心する。君はなにも不安に思う事無く死ねるのです」

 僕の鼻先にナイフが突き立てられた。胴の震えが抑えられない僕に対し、向けられたナイフは静止して、先端の鋭利さがより強調されてうつる。

「わっ・・・、わかりました」

(だめ!) 今度の声は、脳に直接響くのではなく、空から降ってくるように僕を突き差した。

(騙されては、だめ。今から言う事を良く聞いてほしいの)

 そして時が止まった。かのような。僕だけが動いているかのような、説明のできない不思議な時空間の中で、僕はその声を聞いた。強風がすこし凪いでいた。

(みんな番人。みんな嘘。見えているものも、そこにいる誰彼が話す言葉も全て。

 それにその部屋は星川さんの記憶を消すこともできる。さらに心の弱点に巧みに入りこむ演出を。そう、とても残酷な設定を立ち上げているの。

 初めにそこへ行った時、星川さんが右足を動かす前に番人が骨折している事を告げたでしょう? そうして先入観をもたせておいて、次に星川さんの注意が屋上のフェンスの外に向かないように、次から次へと星川さんが喜ぶようなことを・・・。

 でもそれには理由があるの。星川さんが疑問を抱かない状態を維持して、あの長い下りの階段に誘導しなければならなかったから。不意打ち、という状況に持ち込まないと星川さんを殺すことができないから。そこにはうそつく番人しかいないから。

 星川さんに慣れない松葉杖を使わせて、幸せ一杯の気分にさせて、油断させて階段の淵に立たせる必要があったの。そこで後ろから智茶都さんの姿をした番人が悲鳴をあげる。あなたが振り向く。すると凶器をもったその男が星川さんに向かって突進してくる。もちろんあやめる番人ではないから星川さんに物理的に触れることはできない。でもそれで充分。あなたは驚いてあの長い階段から転落死する。はずだったの。でも星川さんは階段室へ入る前に気を失ってしまったから・・・)

 脳内を満たしている疲労感のおかげだろう。最も知りたくなかったその部分を、残酷なほどはっきりと説明されてもあまり痛みはなかった。

(ただ、星川さんがそこを脱出しない限り、その部屋は何度も殺人のためのシチュエーションを創り出す事ができるの。だけれども次の設定が立ち上がる前に、星川さんがミスをしてしまった。病室での会話の最中、とても自然な流れで智茶都さんに「腕は痛む?」って質問されましたよね? 星川さんは「平気だよ」って、気にもせずにこたえた。でも引っ掛けだったの。星川さんは無意識のうちに左手を動かして、右腕の傷跡を押さえてしまった。それで相手は気付いたの。あなたが包帯を巻いていて、負傷しているはずなのは左腕。右腕は回廊内であやめる番人に負わされたもので、痛みも傷跡も消されているはずだわ。でも星川さんにとっては腕の痛み、といったら当然番人に負わされた方を思い出す。

 それで悟られた。削除したはずの回廊の記憶が、あなたの脳に戻っている事が。


 その部屋は星川さんの命をとるために構成されているわけですが、肝心のあやめる番人を召喚する為には一定の条件を満たす必要があるの。

 その条件の一つが星川さんに記憶が戻ることなんです。それは「自分はいま最下位の回廊にいるはずだ」という真実の記憶が戻ることを指します。

 だからその部屋の制限も解除されました。すぐにあやめる番人が召喚されました。

 でもそれは同時に私たちにとっての制限解除も行われたことになるの。だから今こうやって私と星川さんの通信が保たれています。私のいるモニター室から星川さんの姿も見えています。こちらのモニターにはその部屋の全ての解説や正解が表記されています。

 凶器をもっている男はうそつく番人。白衣をきているほうが新たに召喚されたあやめる番人です。ですので白衣の番人は星川さんに直接危害を加えることができます。モニターの解説によれば星川さんと白衣の男が格闘戦になった場合、勝率はどちらも五割です。そのため番人側は不意打ちを計画しました。深夜の強襲です。でも星川さんはどういうわけかその直前でトイレに・・・。

 それと番人側が屋上から飛び降りるよう指示しているのはわざとです。星川さんに対して私がこちらから出す指示を疑心させるため)

 ここまでの話に集中した結果、僕はバッテリー切れ状態になった。ここが回廊なのか、地球なのか。もうどちらでも良いと言えるほど沢山の収容能力が限界値といえた。何より緊張と混乱が続いた効力だ。一人、踊らされた事実を聞かされてもこの胸は苦しみを訴えない。

 たしかに真愛の話には説得力があった。同時に疑問もあった。

(ここへ、来ることが正解だったなら、僕にはどうやっても無理だ。あのフェンスの暗証番号をしらなかった)

(ああ、あれは。覚えてるかなあ。スピーカーが言ってたでしょう? コボレオチタミズ、サバクニシミコミ、コウゲンヨリワキデル、ヒトツノバショニトドマラズ。四つの言葉のように区切られていたでしょう?)

(覚えてる)

「何を、ブツブツといってるんです? 早くしてくださいよ」

 そういって、白衣の男が唾を吐いた。

(こっちのモニターの解説を読むと、四つのキーワードはどれも最初に発音される語句が四桁の暗証番号を表すヒントになっています。零れ落ちるっていうのは、数字のゼロを漢字にしたもの。捌くはハチっていう漢字の訓読み。高弦はサン。三味線の高音を出す弦をサンと呼ぶの。最後の一つ、というのがイチ。四つ合わせて〇八三一。その鍵の番号になるの)

 なるほど僕の無駄な知識群の中で解読可能なギリギリのラインに設定してあるらしい。でもヒントありき、ではなくて僕と真愛に共通する数字を最初に選び、それを僕がわかる範囲で暗号化したものなのだろう。何故ならはっきりと覚えている、真愛が話してくれた「夏休みの最後の日が誕生日なんて、生まれた日からしてついてないでしょう?」という言葉を。

 そこまではいい。だがその後は続かないのではないか、屋上のフェンスの外に出ることができたとして。

(じゃあ、ここを抜け出すにはどうすれば良いの)

(申し上げにくいのですが、星川さんがそこへいった時と同じ事をするしかありません。ですので屋上の端から)

 とび降りろ、ということか。それはどうやっても思いつかないだろう。僕がこの白衣の男の脅しに屈して自ら死を選ぶ、という選択に至らない限りは。まあ暗闇を無限に落ちていく、という時間は、僕の脳のなかの回廊での記憶を休眠させ、ここで使う部分を再構築させるために必要だったということか。そこはまあ納得できる。だが戻る時も同じ事をしなければならない、という設定は腑に落ちない。やはり罠か、死神か。

 確かに最初に屋上にいた時から、今屋上に再び来るまでの間、僕の体に触れたものは一人もない。僕が眠ったのは、おそらく二十一時をまわった頃だ。病棟の就寝時間であるその時間まで、なぜ点滴の針を誰も刺しにこなかったのか。それらは、うそつく番人しかいない、というこちらの設定を裏付けている。

 しかし・・・。この現実世界以外のなにものでもない場所で飛び降りることなどできるはずがない。

「わかった、とは私の言う通りにするという事ですか?」

 目の前で凶器を突きつける男の横に、いつのまにか白衣の男も並んでいた。男は両手を白衣のポケットの中に入れ、笑わない目が口元の笑みを際立たせている。

(星川さん、そこから飛び降りないとこっちに戻れないの)

 動転と混乱。脳内は極度の疲労状態。そこに求められる判断力。

(飛び降りる・・・、そんな簡単に言わないでよ)

(ごめんなさい。そうだよね。簡単じゃないよね)

(それに全部信用できない。できるはずがない。君の言う事をきいても、ただ僕が死ぬだけかもしれない)

(信用できないって・・・、そんな・・・)

 訪れたのはいつもの諦め。いつもの闇。自己否定。そして逃避。

「ああ。そういう事です。彼女にはもう二度と近づいたりしません。だっ、だから見逃してくれないか?」

 白衣の男はにやりと笑った。強い風が大きな音を立てて、彼のあぶらぎった髪を横から払う。

「頭をつかえるじゃないですか」

 怯えも震えもおさまらない。選択の余地もない。

(なにいってるの! 星川さん?)

「そうと決まれば話しは終わりです。こちらへ、いらしてください」

 白衣の男は僕を手招いた。

「さっ、先にその、物騒なものをしまってくださいよ」

 これは失礼、そういって白衣の男が僕に背を向けた。もう一人の男も凶器をブルゾンの中にしまって、こちらを向いたまま後退した。それをみて僕も足を前に踏み出す。

(だめ! お願い私を信じてほしいの!)

 以前に智茶都に同じ事を言われた事がある。


(全部嘘なの! 明るくなんてないの、ふりしてるだけ。本当はすごく根暗だし、泣き虫で、被害妄想ばっかり。交通事故で死んだなんてのも嘘! 嫌われたくなかった。最後の最後に出会った人にまで裏切られたくなかったの。ごめんなさい・・・本当に・・ごめんなさい)

 二人の男の足は止まらず、僕もそれに従って進んだ。足取りはフェンスの内側に向かっていく。

(いかないで! 星川さん!)

(私、星川さんに嘘ばかりついて、ごめんなさい・・・。でも、でも、これは本当なの。これだけは本当だから、聞いてほしいの。私の気持ち・・・あのなんて言えば良いのか・・・、わからないけど)

 屋上に出た時から風は音をたてて何度も通りすぎていた。その風が勢い良く耳を刺激する中にあって、なお彼女の声だけははっきりとわかった。泣き声だということも。

 その早口な言葉は、強風にのって僕を叩くように。

(実家のそばの床屋さんに通っていた話ししてくれましたよね? ご両親は引越して、もうそこに実家もないのに、電車を乗り継いで片道五十分もかけて床屋さんにいくだけのために。一回五千円する高齢の夫婦がやっている平凡な床屋さんに最後まで通いつづけていたこと。近所にはもっと安いところがあるのに、おしゃれな床屋さんばかりだから入りづらくて、ってただそれだけの理由で髪を切るためにそんな遠くまで休みの日を半日もつぶして・・・。

 それからコーヒーの話もしてくれましたよね? スタバのコーヒーが飲んでみたいのに、いつも通りすぎるだけだったこと。ネットでメニューやカップサイズの種類を予習して、ある日思い切って入ってみたら、前に並んだ人がミルクティーを頼んでいて、ミルクティー? ですか? って聞き返されていて、ただそれを後ろでみていて自分は注文もしないで店を出てしまったこと。数日後にリベンジしてその感動を日記につけたこと。マックには入れるのに、モスやフレッシュネスは気恥ずかしくてはいったことがないって。それはなんで? て私がきいたらマックは子供の頃から行っていたからって、あなたそう答えたのよ。三十過ぎた男がって、バカにされるからあまり人に話さないんだ、って付け加えて。

 私はこの話を聞いた時、こみ上げてくる何かを押し下げるのに必死だった。こんなにも奥手で臆病で人見知りで、人の目をとても気にしてしまう、っていうもうほんとに思春期の根暗女子みたいなことを言う人が、さっきの部屋で命がけで私を守ってくれたのかって。自分がいる安全地帯を出て、私を助けるために走ってきてくれたのかって。

 私は逃げてばかりだったから。寂しい女だって思われることがどうしようもなく怖かった。孤独がこわかった。だから一人にならないように人に媚びて。明るい女を装って。そうやって臆病で卑屈にしか生きられなかった。私が死んだ理由は、わたしが死んだ・・・ )

 早口な泣き声は、勢いを弱めず次第に強くなる。

 ぶつけられる言葉の石つぶて。初めて真愛に出会った時と同じだ。手で集めた真実の破片を、拾っては投げ、また拾っては投げつけてくるみたいに。それらがもっと臆病でもっと卑屈なはずの僕の、そのうずくまる背中にぶつかって猛烈にノックする。

(わたしが死んだ理由は自殺なの。後悔してるわ。運が悪いとか、人に気味悪がられたとか、両親を死なせたとか、付き合っていたひとに呪われていると言われたことも。

 そんなこと今思えばどうでもよかった。そんな言葉、笑いとばせば良かったって。

 だからとても後悔したわ。今でも考えると胸が痛くなって息ができなくなる。でも今更よね。死んでから後悔するなんて馬鹿でどうしようもないわ。最下位って言われても納得だもの。

 でもそんな馬鹿でもやっぱり怖いの! また一人で死ぬのが怖い! いかないで星川さん! わがままをいっているのはわかってるわ。でも何も望まない。二度目の世界なんて望まないから。あと少しだけ。あと少しで良いからあなたの隣に・・・、いさせてくだ・・願い・・・お願いし・・・)


 床屋の話やスタバの話。あの時、回廊のレストランでなぜそんなことを彼女に話したのか自分でもわからない。ただ話すことがなくなって、気詰まりするよりはと話してみたあと、笑ってくれるかとおそるおそる顔をあげてみると、真愛は笑っていなかった。「目にゴミが入って」と言いながらおしぼりを目の下に当てていた。


「どうしました? はやくしてくださいよ」

 男の声はどこか遠くに感じる。もう正否の判断をする体力はなく、考えるだけ混乱の深みに落ちていく。

 だがその混乱の中にあって僕は思いだしていた。

 なぜもっと信じてあげられなかったのだろう。そう思う後悔の念。それはもう智茶都に伝えることなどできない。せめて謝罪したいが、その機会も与えられない。

 真愛の言う通り。死んでから後悔するなんて馬鹿でどうしようもない。


 僕は向きを変えた。

 真愛の言葉を信じてみる、などというかっこの良いものではなかった。

 なかったにせよ。僕は走った。

「おい! 待て!」

背中に男の声を受けながら、僕は闇に向かって飛び込んだ。

◇◇◇




 ただ目が覚めた。そこには彼女がいて、起き上がってみると体のどこも痛くはなかった。頭の中はすっきりとした爽快感に満ちていた。あらゆる体力が回復している、という具合だ。

 その小さな部屋にはモニターがあり、さっきまで僕がいた病院の屋上を映していた。未明の屋上に射した紫色の光が、風に揺れる洗濯物にうっすらと色を与えていた。モニターの液晶画面に解説が表示されていて、書かれている文字は「笠木の外へ。地上に向かって墜落。この部屋へ戻る」という文で終わっていた。


「もう、泣かないで」

 声をかけてみたが真愛は泣き止んだりはしなかった。部屋にある掛け時計がコツコツと音をたてていた。誰の為に、どこへ繋がる時を刻むのか。

 圧し掛かっていた恐怖から解放されると、まず初めに笑いが込み上げてきた。失笑だ。

 何もかも、あの白衣の番人の言う通りだ。僕の人生は人に必要とされなかったし、佐川智茶都は僕には勿体の無い女性。それは認めざるを得ない。

(番人のくせに核心をついてくれる)

 だがそんなことは言われなくても知っているつもりだった。それなのに僕は。

 人の命を救って、英雄として取材されて、智茶都とやり直して・・・。そんな話にのせられて、気分良く殺されるところだったのだ。滑稽でしかない。智茶都が僕の死によって肩の荷がおりて安心するだろうと、白衣の男はいっていた。そうは思いたくないが否定もできない。それに彼女が身に着けていたのがお気に入りのベルトでなければ、事前に待ち伏せる番人に気がつくことはなかっただろう。つまりはあそこで死んでいた。最後の最後まで彼女に助けられ。笑止。


 しかしそれにしても・・・。ベルトのことだけではない。あやめる番人が寝込みを襲いにやってくる、その手前で目が覚めたこと。勝手にトイレにいったこと。最初に点灯したEVのボタンが、一階ではなく、十二階だったこと。改めて考えると、僕の運の数値は本当に高いのだろうか。

「ごめんなさい・・・、わたし・・・。ごめんなさい」

 真愛は左手にしていた腕輪をとって、僕に傷を見せた。

 左手首にはうっすらと線状の傷があった。死への直接的原因になるまえに傷跡、として体に記録されたものだ。

「後悔したわ、言葉にできないくらい。お父さんも、お母さんも、私のせいで死んだようなものなのに・・・、私はその自分の命まで勝手に・・・」

 そして彼女は何も言えなくなった。俯いて背中をずっと痙攣させていた。

(辛い気持ちを見せないように、我慢して明るく振舞っていたのか・・・)

 死んだ最下位グループの人間は、誰もがこうなのだろうか。良き思い出よりも、後悔や懺悔ばかりに支配され、この回廊で苦しみ悶えて天国へといくのだろうか。


 同じく。後悔に押し負けそうなものとして。僕の胸もどうしよもないほど苦しくなっていた。

 だが、真愛にかける言葉は何もみつからなかった。コツコツと時計の音がなっていて、モニターの中では夜が明けていた。

◇◇◇


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