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(真愛その七)売られた女と赤い入浴剤

 百貨店の屋上で早苗と会ったあと、私は新宿から四谷に向かって歩いた。気がつくと新品の傘を手に持っていた。父がするネクタイの中で私が一番好きだったもの。それに似た水玉模様の傘を。

 帰る気になれなかった。孝一に会いたかった。彼に触れてもらえればこの頭の中の霧が引いていくのではないか、そう考えて歩いた。


 時計を見ると孝一の仕事が終わるまで二時間以上あった。しかし私は真っ直ぐに店へ歩いてきた。そして店の通用口があるゴミ置場の付近までくると、一美の笑い声がきこえた。もう何処にも行きたくない私は、一美に見つからないよう太い柱の影に隠れてやり過ごすことにした。

「ねえ、ちょっと派手すぎたかなあ?」

「いえ。そんな」

「そう?」

「はい。露出多目でちょっと大胆な感じですけど、一美さんに似合ってますし。女のわたしでもドキドキしちゃいます」

「あはは、ありがと。じゃあこの借りてた本を、あなたに返そうと思ってここで待ってる、っていうからね」

「あ、はい。でも店に戻って待ってたら? っていわれたらどうするんですか?」

「そしたら栄と軽く言い合いになったから、ちょっと戻りづらいとか適当に言う」

「なるほど。で、中田さん今日は何で十時あがりなんですか?」

「昨日あの人遅番だったの。だけど、今朝は仕込みの人が急に熱出して代わりに彼が来たのよ。そういう場合はいつもこの時間にあがるの。それにいつも通りこの時間に第一段のゴミを塵芥室に運んで、ここの灰皿で一服する、っていう日課をやってそれから戻って着替えて帰る、ってわけ。全部リサーチ済み」

「わあ。すごい! そうなんですかー。さっすが、一美さん」

「まあね。それより、ほんとに最近うまくいってないんでしょうね? あの二人」

「あ、はい。それは間違いないです。会う回数も極端に減ってますし」

「そっか。でもこの間、キッチンに行ったらスロットの話してたわよ。すごい大勝したって」

「ああ。それも心配ないです。中田さん一人で行ったんじゃないですか? もうずっと久遠さんとはいってないですよ。やっぱり絵梨香さんが、アシストしてくれたのが大きいんじゃないですか?」

「そっか、そうね。絵梨香、ほんとナイスよね。でもあの子だって、郁子の情報をもとに彼に吹き込んでくれたんだからさあ、郁子の情報のおかげよ。それにしても今時いるのね。一緒に行くと勝てないとか。なんていうのつきがない女? 貧乏神飼ってるの? わらっちゃうわ」

 郁子は一美に名前で呼ばれていた。それは派閥のリーダーが正式に仲間と認めた証だ。私を売ることで一美に認められた、という事か。

 私は彼女とわかりあえている、と・・・。根拠はないがそう強く信頼を寄せていた。だから自分のことを沢山話した。滑稽なほどべらべらと。郁子は今までの友達とは違う、信頼し合えている。孝一との話をするときだけ、郁子からの質問が多くなる事にさえ、私は彼女の思いやりと勝手に思っていた。

 私は頭が弱いのだろうか。ぼさっとしたトロい女なのか。そうでないのなら・・・。水玉の傘の柄を持つ手が痛い。

「明日休みでしょ? 俺もだからちょっと待っててよ。飲みに行かない?」

「誘ってくれるのは嬉しいのだけど、中田さんて久遠さんと付き合ってるって噂だし?」

「ああ、うん。ここだけの話だけど、付き合ってるよ」

 その言葉が私の頭の中の霧を薙ぎ払った。安堵に体の力がぬけていく。

「でも、もういいかな」

「もういい、ってなにが?」

「一緒にいても面白くない」

「ええ? でも、きれいな子じゃない? あの子目当てでくるお客さんだっているくらいだし。それに会いたくないとしても一時的なものでしょ?」

 一美が昔、得意げに言っていた言葉。『脱ぐ前に脱がせろ』と。させた後では、何もかも不利になる。だから体の関係を持つ前になるべく男を裸にし、主導権を握ること。

 そして今更気がつく。郁子に彼との事を細かく話すようになってからだった。孝一と会う回数が減ったのは。

「そんなことないよ。いっつも安そうな地味な服ばっか着てさあ、一緒に出かけると水筒持ってきたりすんだぜ? 家だって一度いったことあるんだけど、ぼろアパートでさあ。みたらひくよ? 一緒にいると絶対ギャンブルも勝てねーし。俺一人の時は勝てるのに。真愛って色んなことでなんか気味悪いんだよね」

「あっはは。そうなの?」

 形勢は逆転した。という笑い方だ。そして安全圏に入った、という一つ高い声のトーンでとどめを刺す。

「じゃあ、もう別れるつもりなの?」

「たぶんね。俺まで呪われたくねーし」

 こういう場合はどうすれば良いのか。「なにが俺一人の時は勝てるよ。だったら何で借金が増えるのよ。私がかした五十万今すぐ返してよ」そういって、孝一の頬を殴ってやれば良いのだろうか。

 私は柱の影で座り込んだ。「昔はここから、東京タワーがみえたんだけど」と、孝一が教えてくれた四谷駅のデッキが見えた。あの時の孝一は優しかった。

 駅に次から次へと電車が入ってくる。出ていったかと思えば、すぐにまた入ってくる。そしてすぐに出て行く。

 私は親指のささくれた皮をちぎりながら、どうしてこんなに電車がくるのだろうかと考えていた。ふと見上げた夜空には、厚い雨雲が雨を降らさないままそこに広がっていた。


 どうやって家に帰ったのか。今何時くらいなのか。気がついた時は湯船の中にいた。

「ああ、いけない。また寝ちゃったわ」

 風呂に入りながら眠る癖が学生の頃から直らなかった。伯父の家や、親戚の家で暮らした私には、緊張をといて息を吐く場所が他になかったのかもしれない。一人暮らしを始めてからも、しばしば浴槽の中で寝てしまう。だが今日は何時帰ってきたのかもわからないまま、目覚めるといきなり浴槽だった。おそらく酒を飲んできたのだろう、意識がはっきりしない。

「こんな色の入浴剤・・・」

 鈍い痛みを感じて手を上げると、左手首に血が滲んでいた。右手は以前百円ショップで買ったカミソリを握り締めている。私は反射的に左手首を右手で押さえようとした。だが握り締めたカミソリは手から放れてくれない。それでもなんとか出血部を押さえようと慌てて試みた結果、カミソリで違う場所を切りつけた。視界が狭くなっていることに気がつく。

 いけない。

(お湯から出て足で出血部を押さえるしかない、急がないと)

 だか浴槽から出ようとすると転倒してしまい、額を浴槽の縁に打ち付ける。

「こんな時まで」 

 ついていない・・・。打った額のせいで意識が薄くなる中、私が放ったおそらく最後の言葉がそれだ。

◇◇◇


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