第5話 静寂の目覚めと揺れる心①
昇也からのメッセージを、葵は朝の支度をしながら何度も見返していた。
『少し、覚悟しといて』
その言葉の意味が、登校中もずっと胸の奥で鳴り続けていた。
景色は変わらないのに、まるで世界の輪郭が少しだけズレてしまったような感覚。
「……変わったのは、私のほうなんだよね」
そう呟いた声は、朝の空気に溶けていった。
***
教室に入ると、いつもの友人たちが手を振ってくれる。
「おはよー、紫月ー!」
いつも通りの笑顔、何も知らない日常。
(昨日のことを話したら、きっと笑われるか、怖がられるだけだ。 そんなのは、怖くて言えない)
そう思うと、自然と笑顔を作るしかなかった。
でも、その視線の先。
教室の隅で立ち話をしていた昇也と目が合った。
彼は微かに手を上げて挨拶をしてきた。
(……あの人は、全部知ってるんだ)
葵はそっと、微笑み返した。
***
昼休み。
校舎裏のベンチに座っていた葵のもとに、昇也がひょっこり現れた。
「紫月。……いや、葵、って呼んでもいい?」
突然の問いかけに、葵は少し目を見開いた。
「え、なんで?」
昇也は一瞬言葉に詰まり、指先で頬をかきながら
「いや、その……あの空気とか、距離感とか……?」
ぼそぼそと言い訳を探す。
その様子に思わず吹き出して、葵は肩をすくめた。
「冗談、いいよ」
その笑顔は、どこか柔らかく、心の緊張をほぐすような優しさを含んでいた。
昇也はニカッと笑って、隣に腰を下ろす。
「昨日、よく眠れた?」
「……うん、眠れたよ。疲れてたのかも」
「そっか、それは良かった。ほんと、葵は強いな。素質あるんじゃないの?」
にっこりと笑って見せる昇也の言葉に、葵は少しむくれたような顔をして返した。
「素質って……何言ってるのよ、そんな才能いらな――」
しかし、その言葉の続きを言いかけて、ふと黙り込む。
(……彼も、きっとこんな力が欲しくて持ってるわけじゃない。あの仕事ぶりを見れば、きっと辛い場面もたくさんあったんだ)
「いや……なんか、ごめん」
ぽつりと謝る葵。
彼女の配慮に、昇也はくすぐったいような気持ちになった。
「葵には、なんか色々お見通しだな。そのうち俺の心まで見透かされそうだ!」
「魂は見えるようになったけど、そんな心までなんて読めるわけないじゃない!」
「そりゃそうだな」
空を仰ぎ見ながら肩を揺らして笑う昇也。
そこには気づいてほしい気持ちと、気づいてほしくない気持ちが入り混じっていた。
それを見た葵は、最初に見た彼の影を帯びた表情が、今は晴れやかな顔になっていることに気づき、少し安心して笑みをこぼした。
二人が穏やかに笑い合う様子を、離れた場所で静かに零士が見守っていた。
不思議と彼の口元も緩んでいた。
***
三人が向かったのは町外れの寂れた公園だった。
遊具は錆びつき、ベンチには落ち葉が降り積もっている。
人気のない空間に、夕日が伸びた影を投げかけていた。
風が止まり、空気がひどく澱んでいることに、葵は無意識のうちに一歩立ち止まっていた。
夕暮れの静けさの中に混じる不穏なざわめき。
耳鳴りのように響く低い音とともに、胸の奥がぞわりと波立った。
「……なにか、おかしい」
葵の声は風に消えそうなほど小さかったが、隣にいた昇也と零士はすぐに表情を引き締めた。
「ここ……やっぱり何か変だよ」
葵がそう呟いた瞬間だった。
風もないのに、木々の間から瘴気のような黒い影が現れた。
最初は人影のようにぼんやりと揺れていたが、見る見るうちにその輪郭が濃くなっていく。
「下がって!」
昇也の声と同時に、彼と零士が葵の前へ飛び出した。
影が猛然と実体化し、地面を踏みつける音が轟く。
「これは……ただの残留じゃない。意思を持ってる!」
零士の声にも緊張が滲む。
死神と霊体、それぞれの立場で対処に移ろうとしたときだった。
影の瘴気が暴走し、空間そのものが歪んで見える。
その中心に、葵が引き寄せられるように足を踏み出してしまう。
「葵!」
呼びかけも届かず、影が跳ね上がるように襲いかかったその時。
葵の体が紫の光に包まれた。
髪が揺れ、瞳が一瞬、深い紫色に染まる。
「……っ!」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
それはまさしく、前世に通じる力の片鱗だった。
昇也はその場に足を縫いとめられたかのように、動けなくなっていた。
葵から放たれた紫の波動は、空間の空気すら震わせるほどの重圧を持っていた。
心の奥底に眠っていたなにかが、突然激しく揺さぶられ、胸の奥が軋むように痛む。
それは、理屈ではない本能の叫びであり、『喪失の痛み』にも似た何かだった。
何かが強く叫んでいる。
『お前を、求めていた』と。
「しっかりしろ、昇也!」
零士の怒鳴り声が飛ぶ。
昇也に襲いかかろうとした霊の動きを、零士が霊体の干渉でかろうじて押し留めていた。
だが、その手はわずかに震えていた。
『……欲しかった、求めていた……』
魂の奥底から押し寄せるような、得体の知れない感情と記憶の奔流が、零士の意識に強制的に流れ込んできた。
頭の奥で誰かの声が叫ぶ。
あの時、欲しかった。
あの手を離したくなかった。
もう一度、共に在りたかった。
——キルハ。
あの冷たい手の感触が、今もまだ消えていない。
「……ッ、やめろ……! そんなもの、見せるな……っ!」
零士は苦悶の声を漏らしながらも、目の奥に焼きつくような過去の映像と、魂に刻まれた『渇望』の記憶に耐えようと、奥歯を強く噛みしめた。
その渦の中で、彼は必死に理性を保とうとする。
「違う、今は……まだ……!」
その声に、昇也が目を見開いた。
「……ああ、まだ終わってねぇ」
刀のように召喚された死神の鎌が、昇也の手の中で眩い光を放った。
銀白の光はまるで世界の一部を裂くように空間を切り裂き、炸裂するような衝撃音が響く。
昇也は静かに目を閉じ、息をひとつ吸い込んだ。
「──還れ、彷徨える魂よ。安寧の縁へ導かれよ」
その言霊が空気を震わせた瞬間、彼の手に握られた鎌が鋭く閃いた。
同時に、昇也の瞳が金色に染まり、空間全体が一瞬ざわめいたように揺らいだ。
振り下ろされたその一撃は、暴走していた影を真正面から貫いた。
影の叫びにも似た咆哮が空間を震わせたが、それも一瞬のこと。
黒い瘴気は裂け、断ち切られ、まるで濃霧が陽光にさらされたかのように一気に霧散していった。
同時に、紫の光がふっと消えた。
葵の意識もまた、途切れかけていた。
「葵!」
倒れこむ彼女の体を、昇也が本能的に手を伸ばして抱き留めた。
葵の体は意外なほど軽く、けれどその重みがどこまでも現実を突きつけてくる。
彼女の頬にかかる髪が震えるのを、昇也はそっと払いながら名前を呼んだ。
「葵! 大丈夫か!! しっかりしろ!」
零士も手を伸ばしたが、その霊体の手は彼女に触れることができなかった。
支えられなかった。
守ることができなかった。
その事実が、零士の霊体という存在の限界を痛感させた。
触れたかった。
温度を感じたかった。
けれど、ただ空を切る指先が、悔しさだけを突き刺していた。
(……この腕じゃ、もう触れられない)
瞬時に支えたのは昇也だった。
羨望、嫉妬、やるせなさ。
でもそれは、先ほど呼び起こされた前世の“想い”に引っ張られているだけだと、零士は頭を振って理性を取り戻した。
昇也の腕の中で、葵は規則的な小さな息をしていた。
その微かな呼吸が、唯一の安堵となりながらも、昇也の内心をかき乱していく。
彼女の名前を呼びかけても、すぐには目を開けてくれなかった。
その姿に、昇也は初めて自分の中に生まれた揺らぎを意識した。
(なんで……震えてるんだ、俺……)
自分が予想もしなかった、違うなにかの感情が心の中でうねるように渦巻いていた。
怒りでも悲しみでもない、もっと混ざり合った感情の渦が、昇也の身体を内側から突き上げてくる。
「一体……何が起きたんだ……」
まだ耳の奥で、誰かの叫び声の残響がこだまする。
自分のものなのか、他人のものなのかすらわからない。
「兄さん……俺……頭が混乱してるみたいだ。葵にも……俺にも、何が起きたっていうんだ……?」
返事はない。
沈黙の中、昇也はそっと彼女の体を背中に回し、葵をおぶった。
「……帰ろう。ひとまず落ち着ける場所へ」
彼の声は低く、けれど揺るぎなかった。
零士は何も言わず、ただその背を見つめていた。
触れられない痛みに胸が軋むが、今の自分には何もできないことを理解していた。
夕闇のなか、三人の影が長く伸びる。
人気のない道を、昇也はゆっくりと歩き出した。
向かう先は、彼と零士の暮らすあの家。
まだ目覚めぬ葵の温もりを背に感じながら、昇也は少しだけ唇を噛んだ。
(俺は……葵になんて言えばいいんだ……)
そのとき。
背負った葵の体が、かすかに震えた。
「……セ、イン……」
眠ったまま、彼女の唇が動いた。
知らないはずの名前を、確かに呼んでいた。
昇也の足が、止まった。
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