幕間 その手の温度を、まだ知っている
夜が深まるほどに、零士の霊体は揺らぐ。
気配が薄くなる、というのとは少し違う。まるで体の縁が溶けていくような感覚。
自分がどこからどこまでなのかが、わからなくなっていく。
窓の外に昇也の背中が見えた。
まだ帰っていなかった。
灯りの落ちた部屋で、ひとり膝を抱えて座っている。
(……昔からそうだ、あいつは)
悲しいときほど、声を出さない。
零士は静かに傍へ寄ったが、何も言わなかった。
言える言葉が、今はまだなかった。
代わりに、零士は目を閉じた。
意識が沈んでいく。
霊体になってから覚えた感覚だった。
記憶の底へ、静かに降りていく——
冥界が終わる前の夜のことを、零士はよく夢に見る。
いや、夢ではない。
これは記憶だ。
セインとしての、確かな記憶。
廃神殿の薄暗い回廊に、ふたりで座っていた。
キルハの横顔が、崩れた天井の隙間から差し込む灰色の光に照らされていた。
「セイン」
「なんだ」
「俺が消えても......」
「消えるな」
遮った自分の声が、今も耳に残っている。
あの時、なぜあんなに即座に言えたのか、今でも不思議だ。
怒りだったのか、恐怖だったのか。
たぶん、両方だった。
キルハは少しだけ黙った後、こちらへ向き直った。
その目が、いつもと違った。
「お前のことが、好きだ」
沈黙が落ちた。
冥界の濁った風が吹き抜ける中、セインは何も言えなかった。
ずっと知っていた。
言われなくても、わかっていた。
だからこそ——言葉にされると、こんなにも困る。
「……最悪だ、お前は」
「そうだな」
「今更言うのか」
「今更しか、言えなかった」
正直なやつだと思った。
腹が立つくらい、いつも正直だった。
セインはキルハの手を引き寄せた。
細くて、冷たい手だった。
長い戦いで、もうすっかり熱を失っていた。
それでも握った。
離さなかった。
額が触れた。
互いの呼吸が混ざった。
「帰ってこい」
「ああ」
「絶対に、帰ってこい」
「……ああ」
その声が嘘だと、わかっていた。
それでも手を離さなかった。朝が来るまで、ずっと。
夜が明けた。
「……セイン、ここから先は俺が行く」
「何を言ってるんだ!」
止めようとした。
力ずくで止めようとした。
でも、キルハはセインの手を——昨夜あんなに握り返していた手を静かに押し返した。
「行け、セイン」
「昨夜のことを言っておいて、それだけか」
キルハは答えなかった。
ただ、一瞬だけ視線を逸らした。
それで、すべてわかった。
わかっていたのに。
わかっていたから、朝まで手を握っていたのに。
足元が崩れた。
断層の向こうへ落ちながら、セインは叫んだ。
「キルハァアアア!!!」
白い光が、すべてを飲み込んだ。
戻ってきたとき、もうそこにキルハはいなかった。
ただ、掌にあの冷たい手の感触だけが、残っていた。
「……また会おう、って言ったのに」
誰にも届かない言葉が落ちた。
そして——禁術に手を伸ばした。
あの温度をもう一度感じるために。
それが自分の魂を裂くことになっても。
零士は目を開けた。
昇也はまだ窓の外にいた。
膝を抱えたまま、じっと暗い庭を見ている。
(……お前には、あの記憶がない)
セインとして生きた記憶が、昇也にはない。
キルハの手の冷たさも、朝まで離さなかった夜も、何も知らないまま今日まで生きてきた。
それが、零士にとってどれほど——
(いや)
零士は静かに息を吐いた。
知らなくていい。
あの重さを、昇也が背負う必要はない。
セインの後悔も、キルハへの想いも、禁術を選んだ夜の絶望も。
全部、自分の中で終わらせればいい。
ただ。
(お前には、葵がいる)
昇也が今この世界で感じている想いは、前世の記憶からではなく、今のこいつが自分で積み上げてきたものだ。
それは零士には、もう持てないものだった。
(俺は……いつまでここにいられるかわからない)
霊体の縁が、また少し溶ける感覚がした。
時間が、なくなってきている。
零士はゆっくりと昇也のそばに近づき、触れられない手をその肩の上に重ねた。
もちろん、すり抜ける。
それでも、そうした。
「……お前には、俺の分まで生きてほしい」
声は届いていない。
昇也は気づかないまま、庭を見ている。
「キルハを——葵を、守ってやってくれ」
それが今の零士に言える、すべてだった。
前世で果たせなかった誓いを、今度はお前が果たせ。
そのために、俺の力を渡す。
そのために、俺は消える。
それでいい。
あの手の温度を、もう一度感じられたから。
魂の深層で、葵の魂に触れたあの瞬間のことを、零士は思い出した。
霊体のまま、それでも確かに伝わったあたたかさ。
キルハは冷たい手をしていた。
葵の手は、あたたかかった。
(……同じ魂なのに、こんなにも違う)
それが嬉しかった。
今のこの子は、あの頃のキルハより、ずっとあたたかい場所にいる。
だから——
「頼んだぞ、昇也」
窓の外で、昇也がようやく立ち上がった。
伸びをして、灯りをつけて、ぼんやりと天井を見上げている。
その横顔が、少しだけセインに似ていると、零士はずっと思っていた。
いや違う。
全然違う。
昇也は昇也だ。
でも、ふたつの魂が今、ひとりの人間の中で静かに重なっているのだとしたら。
「……俺は、お前たちどちらのことも」
言葉は、そこで止まった。
霊体の輪郭が、また少し薄くなる。
零士は静かに目を閉じ、その感覚をただ受け入れた。
その夜、零士は初めて消えることを、恐れなかった。
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