第16話 その意志の在処
それは、一見すれば穏やかな学園の朝だった。
いつもと変わらぬチャイムの音、登校してくる生徒たちのにぎやかな声、淡く光る朝日。
だが、その全てがどこか歪んでいるように葵には思えた。
昇降口のガラス戸に映る空は晴れているのに、風がひどく冷たく感じる。
廊下の隅に、誰もいないはずの場所で空気が揺らめいていた。
葵は足を止め、胸の奥にざわつく不安を感じ取る。
すれ違う生徒の背後に、かすかな影が尾を引いている。
見慣れた景色のはずなのに、どこか異様なよそよそしさが空間に滲んでいた。
教室の角の影が、一瞬こちらを見た気がした。
心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。
「空間の境界が、揺れてる……。副位層からの干渉かもしれない」
昇也がそうつぶやいた彼の瞳には、淡く金の光が瞬いた。
隣で立ち止まった零士もまた、静かに目を細める。
「間違いなさそうだ。気配が、濃くなっている」
「やはりここが狙われているってことだな。なら放っておくわけにはいかない」
葵はその言葉を聞き、思わず問いかけた。
「……どうして、こんなに狙われてるの?」
昇也がすぐに答える。
「この学園は、副位層と深く繋がった場所のひとつなんだ。霊的な交差点とも言える場所で、ここに集まる人々の魂もまた役割を担っている。今、干渉が強まりつつある以上、ここが狙われるのは必然なんだ」
「……じゃあ、私も昇也も……みんなも危ないってことじゃ……」
「そう。特に葵、君が危ない」
「どうして……」
「葵はそのまま英雄の魂を引き継いだ。内に秘めている力が大きいだけに、影響力が想像以上になる。あいつらにとってその力は何としても手に入れたいものなんだ」
零士も静かに頷く。
「お前が目覚めてしまった以上、狙いはさらに顕著になるだろう」
その直後、葵は突如として意識を手放すような感覚に襲われた。
図書室の旧棟で立ち尽くしていた彼女の足元に、薄い紫の霧がにじむ。
そこから立ち昇る気配が、彼女の精神に直接触れてくるような圧力を放っていた。
(また、来る)
旧棟に満ちていた霧が足元から立ち昇り、視界がぼやける。
その瞬間、葵の頭の奥に鋭い痛みが走った。
まるで何かが記憶をこじ開けるかのような、圧倒的な干渉。
彼女は思わず膝をつき、そのまま意識が遠のいていく。
遠くで、昇也と零士の声がする。
「葵!」
「しっかりしろ、葵!」
呼ばれている。
確かに、名前を呼ぶ声がする。
けれどその声も、次第に遠ざかっていった。
気づいた時には、意識は深い闇に沈んでいた。
***
「ここは……夢の中?」
彼女は瓦礫と化した古びた聖堂のような空間に立っていた。
空も壁もなく、ただ紫の霧が渦巻く廃墟の記憶そのもの。
砕けた柱や散乱した祈りの文様が、まるで誰かの絶望を物語るように足元に広がっていた。
一歩、二歩と歩き出すと、足元の瓦礫のかけらがかすかな音を立てた。
静寂を破るその音が、この空間に残された痛みの残響のように、葵の耳にじわりと染み込んでくる。
次の瞬間、歩みを進めた彼女の足が、ふいに止まった。
動かない。
足元に組まれていた複雑な紋様が、まるで彼女の接近を待っていたかのように淡く赤黒い光を灯す。
術式が浮かび上がり、空気が急激に冷たく、重くなる。
「っ……!!」
葵の全身に重い圧がのしかかり、意識がその中心に引きずられていく。
不吉な紫の光が足元から這い上がり、彼女の身体を包み込んでいった。
濃密な霧の中から、不気味な囁き声が響く。
「器よ。今度こそ、その魂を我らに捧げよ」
声の主は姿を見せず、だがその響きは葵の思考と魂を直接震わせる。
記憶の奥底に沈められていた痛みや孤独、喪失が、泥の中から引きずり出されるかのように形を持って浮かび上がってくる。
何度も同じ夢に囚われ、苦しみながらも誰にも言えずにいた過去。
まわりに理解されず、異質なものとして扱われた日々。
そして、見たくもない未来。
昇也と零士が傷だらけで倒れている幻影。
自分の無力で、何も守れなかったという現実。
「……いやっ……やめて……っ」
痛みと絶望が胸をえぐるように迫ってくる。
そのときだった。
まばゆい紫の光の中から、何かが浮かび上がってきた。
剣だった。
何度も夢で現れたあの剣が、今、はっきりと意志を持ち、葵の決意に応えてその姿を顕現させた。
重く、冷たい闇の中で、唯一温かさを宿した意志のかたち。
彼女が手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
剣から、静かに、だが確かに彼女の心へと問いかけが届く。
『お前は、どうありたい?』
その声に、葵は瞼を閉じた。
胸の奥に積み重なっていた過去の痛みと、夢で見た未来の断片、そして共に過ごした時間。
キルハとして過ごした記憶の欠片が、優しくよぎる。
昇也の明るい声、零士の静かな眼差し、ふたりが隣にいてくれた温かい瞬間。
それらが胸に浮かび上がり、葵の心を満たしていく。
「私は……守りたい。失いたくない。もう、あんな思いはしたくない」
そう口にした時、彼女の意志はひと筋の光となって剣へと流れ込んだ。
それに応えるように、剣は静かに彼女の掌へと納まり、脈動する光を放った。
『今こそ、その魂で、闇を斬れ』
遠くで誰かが、懐かしい声で囁いた気がした。
「これ以上、誰にも触れさせない!!」
霧の中に潜んでいた影たちがうねり、彼女を飲み込もうと迫る。
だが次の瞬間、葵の剣が淡い光を放ちながら共鳴し、唸りを上げるように振るわれた。
光の軌跡が空を裂き、紫の闇を一直線に貫いた。
霧は叫ぶような音を立てて弾け、影の群れが焼かれるように後退していく。
「……この魂は、私とみんなのものよ。大切な絆を、あなたたちの勝手になんかさせない!!」
彼女の声と共に、最後の一閃が放たれる。
霧の核となっていた黒い影が一瞬膨れ上がり、まばゆい閃光の中で消えた。
夢の空間に、静けさが戻ってくる。
(私が、すべてを守ってみせる)
それは逃げるためでも、誰かに守られるためでもなく。
彼女自身の意思で選んだ、立つという選択だった。
そのとき、胸の奥でふと微かな温もりが揺れた。
『そう、キミはその選択でいいんだ』
あの記憶の中にいたキルハが、静かに、確かに微笑んだ気がした。
やわらかな光が彼女の中に灯っていく。
葵の魂が淡く輝きを放ち、紫の霧に包まれていた学園全体を満たしていた陰りが一気に払われた。
重くよどんでいた空気が流れを取り戻し、朝の光が廊下へと差し込む。
心配そうなふたりに、葵は振り返り、静かに微笑んだ。
「……大丈夫。もう、私は惑わされない」
その声は力強く、揺るがぬ意志を秘めていた。
ふと気配に気づいたように、葵は廊下の奥、誰もいないはずの影に鋭い視線を向ける。
視線の先には、仮面の者がじっとこちらを見ていた。
彼女は一歩も引かず、まっすぐに睨み返す。
無言のまま、仮面の者はその場に揺らぎを残して立ち去った。
その背を見届けた葵の眼差しには、もはや迷いも怯えもなかった。
彼女の中で、確かな覚悟が灯っていた。
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