第13話 魂の深層へ②
そこは、完全な静寂だった。
色も音もない空間に、葵はぽつりと佇んでいた。
魂の中心が凍るような冷気に包まれ、何も感じられないまま膝を抱えている。
だが、その体は震えていた。
呼吸すら思うようにできない感覚が、内側からじわじわと広がっていく。
胸の奥に、何か冷たいものが突き刺さっているようで、呼びかけても誰にも届かない。
(苦しい……誰か……助けて……)
声は出ているはずなのに、何も響かない。
自分の意識が、自分でない場所に連れていかれそうな錯覚。
夢の中で何度も聞いたあの仮面の声が、今もなお耳元で囁き続けていた。
(いや……もうやだ……お願い……誰か……)
零士が到達したとき、その光景に息を呑んだ。
「葵!」
彼女の魂は今にも崩れ落ちそうなほど脆く揺らぎ、氷のような空間の中で孤独に震えていた。
その姿を目にした瞬間、零士は叫びながら駆け寄った。
「……零士……?」
霞む視界の向こうに、かすかに見えた彼の姿。
「あぁ……来てくれた……」
呼吸もままならず、声にするのがやっとだった。
それでもその名を呼ばずにはいられなかった。
彼が葵に手を差し伸べる。
けれど、ネザリウスの影がその手を遮った。
その瞬間、零士の背筋に電流のようなものが走る。
ただの霊障とは比べものにならない、底知れぬ圧力。
触れた瞬間、魂そのものを削られるような感覚に襲われ、思わず足を止めた。
「なんだ、この圧力……!」
息を呑み、心がわずかに怯みかけた。
けれど、目の前で震える葵の姿が、それをすぐに打ち払った。
「邪魔をするな……!」
霊力を集中させて障壁を押し返す。
だが、その反動は予想以上に激しかった。
影がうねるように反発し、零士の体を貫くような衝撃が襲いかかる。
視界がぐらりと揺れ、全身の霊力が軋むように悲鳴を上げた。
「ぐっ……ああっ……!」
地に足がつかない錯覚の中で、彼の意識が一瞬飛びかける。
それでも、朦朧とする中で彼は手を伸ばした。
その先に、葵がいる。それだけを頼りに。
「葵……!!」
その声に応えるように、葵は必死に彼の方へ手を伸ばした。
魂が軋むような痛みが全身を蝕み、震える体が思うように動かない。
それでも、彼の存在だけが、闇に沈みかけた意識を繋ぎ止めていた。
「……零士……!!」
かすれた声を漏らしながら、葵は滲む視界の先に手を伸ばし続けた。
痛みも恐怖も、その一瞬だけ忘れて。
零士の指先が、ようやく彼女に触れた。
その瞬間、魂の波動が共鳴し、影を押し返すように淡く輝き始めた。
葵の瞳に光が戻る。
『触れられた』。
葵も、そっとその手を包むように重ねる。
零士は、恐る恐る彼女の頬に触れた。
「……大丈夫か?」
その言葉に彼女は静かにうなずいた。
「……触れられるんだ……ちゃんと……」
霊体である零士と、魂の中の葵が、初めて触れ合うことができた。
これまで何度も空を掴むようにすり抜けていた感覚が、確かな手応えへと変わっていた。
零士は戸惑いながらも、指先に伝わる温もりを確かめるようにゆっくりと彼女の手を包んだ。
「……本当に、届いたんだな……」
その言葉は、自身に言い聞かせるような小さな呟きだった。
言葉はなかった。
ただ、そっと抱き寄せた。
互いの存在を確かめるように。
けれど今、ふたりの間にあったのは、ただ愛おしさだった。
零士は、抱き寄せた葵の体の奥から響く微かな鼓動に、静かに目を伏せた。
だがその胸の奥で、不意に別の感情が湧き上がっていた。
(俺は、すべてを捨てたはずだった)
仲間も、使命も、自分自身でさえも。
価値などないと、求めることすら諦めていた。
けれど。
今、自分の腕の中にあるこの存在は、そんな無価値だと決めつけていた自分にさえも、温もりを与えてくれていた。
(お前が……俺を救ってくれていたんだな)
葵もまた、そのぬくもりに身を委ねるように瞼を閉じる。
「……あたたかい……こんなふうに……触れられるなんて……」
葵の呟きに、零士は小さく目を細め、そっと彼女の額に額を寄せた。
ふたりの魂がわずかに震え合い、やわらかな光がその場に満ちていく。
だがそのとき。
空間が軋むような音を立てた。
零士の足元から、黒い影が再び這い上がり、彼の霊体を引きずり戻そうと絡みつく。
「まだ終わってないのか……!」
それはネザリウスの残滓か、それとも観測者の意志か。
「君はここに残るべきだ」
まるで誰かの声が、直接頭の中に響いた。
再び強い引力が働き、零士の霊体が引き剥がされようとする。
葵の手が、指先からゆっくりとすり抜けていく。
「……いやだ……やっと……やっと一緒にいられたのに……!」
葵がかすれた声で涙混じりに叫ぶ。
その声に、零士の胸にまた一筋の光が射した。
「……葵……俺は、ここで終わるわけにはいかない……!」
彼女の手を、零士は全力で握り返す。
その瞬間、ふたりの魂が再び共鳴した。
光が零士を包み、影を焼くように淡く爆ぜた。
やがてその引力が薄れ、空間に静寂が戻っていく。
言葉はもう必要なかった。
ただ、そこにある互いの存在が、確かに相手を抱き締めていた。
***
先に目を開いたのは、零士だった。
意識が現世へと戻り、朦朧とした視界の中で、昇也が周囲の敵をすべて薙ぎ倒し、葵を守るように抱きかかえている姿が見えた。
「……戻ってきた、か……」
呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がる。
「兄さん、葵は……!」
零士はそっと頷き、葵に近づくと、かがみ込んで彼女の額に手を当てた。
ほんの少し前まで、確かにその手に伝わった温かさ。
今はもう、すり抜けてしまう現実に、胸の奥が静かに軋んだ。
(やっと、触れられたのに……)
触れたという記憶が確かであるほどに、今のこのすり抜ける感覚が切なく重くのしかかる。
それでも、零士は彼女の額に手を添え続けた。
せめて、ここに戻ってきた証だけは、自分の心に刻みつけるために。
「魂の座標は戻った……時間の問題だ」
その言葉通り、数秒後。
葵の指がわずかに動き、閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開いた。
視界がぼやける中、最初に見えたのは昇也の顔だった。
「……昇也……?」
かすれた声で呟いた葵に、昇也は驚いたように目を見開いた。
「……ああ!葵……!」
その目に光が宿る。
昇也は葵を胸元にきつく抱き寄せ、その肩を小刻みに震わせていた。
「戻ってきてくれて、本当に……よかった……」
彼の声に安堵が滲み、目元にも涙が浮かぶ。
朦朧とした意識の中で、葵は徐々に状況を理解し始めていた。
魂の中では零士が手を伸ばしてくれ、外の世界では昇也が身体を抱き締め、ずっと守ってくれていたのだと気づく。
(わたし、守られてた……ふたりに……)
込み上げる想いが胸を満たし、葵は震える声で言葉を紡いだ。
「……ありがとう、昇也……零士……本当に、ありがとう……」
昇也は微笑みながら、葵の髪をそっと撫でる。
「うん……」
葵はゆっくりと身を起こし、昇也の支えを借りながら零士の方へ目を向けた。
そこには、また霊体へと戻った彼の姿があった。
ほんの少し前、魂の中で確かに触れ合い、温もりを感じたはずの零士。
けれど今、その手を伸ばしても、彼にはもう触れられない。
胸の奥に、きゅっと締め付けられるような痛みが走る。
(やっと、触れられたのに……)
それでも、彼がそばにいてくれるという事実が、葵にとっては何よりも心強かった。
三人の間に流れるその静かな時間が、何よりも温かく、確かな現実だった。
しかしその空気の奥底に、わずかに残された霊気の歪みが揺れていた。
零士は気配を敏感に察知し、目を細めて立ち上がる。
まだ完全には断ち切れていない。
あれはただのネザリウスの残滓ではない。
空間のひずみにわずかに残る声の痕跡が、確かに彼に囁いていた。
『選別は終わらない。次の魂の座標は……』
言葉の切れ端に、見知らぬ場所の響きが混じっていた。
まるで誰かが新たな魂を標的に選んだかのような、不穏な予感が零士の背筋を冷たく這い上がる。
その響きはすぐに消えたが、確かな違和感だけが、静かに場に残されていた。
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