第12話 兆しの夜、忍び寄る影①
空気は澄んでいたが、肌寒い風が夕方の街に忍び寄るように吹いていた。
倉庫から引き返しながら、葵の胸には小さな引っかかりが残っていた。
(零士、まだあの場所に……)
心配だった。
霊障の残った気配に長く触れ続けることは、霊体である彼にとっても危険を伴う。
それでも、誰よりも深くその痕跡を探ろうとする零士の姿が、葵の心に焼きついて離れなかった。
彼はきっと、自分たちが踏み込めないその先へ、ただ一人で進もうとしている。
***
その日の夜、葵はいつになく早く眠りについた。
夢の中で彼女は、名もない影と対峙していた。
無数の目がうごめく闇の中心で、声がした。
「お前がキルハの器か……」
声の主は定かでなかった。
けれど、その声に込められた悪意と執着に、葵は背筋を凍らせた。
「……誰……?」
答えはなかった。
代わりに、影がじわじわと形を持ち始める。
その姿は人ではなかった。
でも、どこかで感じたことのある気配をまとっていた。
ネザリウス。
その名を思い浮かべた瞬間、空気が変わった。
闇の中から伸びた何かが、唐突に彼女の首元を掴んだ。
「っ……ぐ……あ……っ……」
絞めつけるような感覚。
息ができない。
喉が潰れるような圧迫感に、葵は必死にもがいた。
視界が歪む中、その影の目だけが、異様な静けさでこちらを見下ろしていた。
「器よ……抗うな。お前は私の元に来るだけでいい」
「な、……にを……」
「お前の魂は、私の理想。故に完璧なる世界に必要な……」
(やだ……! 私は……っ)
苦しみの中でも、葵は必死に抵抗しようと意志を振り絞る。
次の瞬間、ぱっと手が離れ、彼女は倒れ込むようにして目を覚ました。
額に冷たい汗がにじんでいた。思わず自分の首に手を当てる。
(今のは……ただの夢じゃない)
自分の魂が、確かにあの存在と何かを共有してしまったという実感があった。
***
その頃、零士は一人、廃倉庫の奥に残されていた痕跡の調査を続けていた。
霊的な歪みの中で、彼は古い文様の断片を見つける。
それは、かつて冥界でネザリウスを封じるために使われていた術式の名残だった。
「まさか……ここで再びこの印を見ることになるとは」
彼の表情に、静かな怒りが浮かんだ。
その直後、どこからかふっと気配が消えた。
一瞬、誰かの視線を感じた気がした。だが、何も見えない。
霧が流れる中、彼の背後で何かが確かに笑った気がした。
「…………」
零士はただ黙って、再び結界を張り直す。
奴らは……もう、すぐそこまで来ている。
***
翌朝。
教室の空気はどこか重かった。
ざわついているわけでも、騒がしいわけでもない。
ただ、目に見えない膜のようなものが空間を覆っているような圧迫感があった。
「……なんか、今日、変じゃない?」
葵が昇也に小声で問いかけると、彼も同じように頷いた。
表情は険しく、眉間に深い皺が刻まれていた。
「わかる。何人か、教室に入ったときから具合悪そうだった。気圧とかそういうんじゃない……」
「また、何かが起きてる……?」
そのときだった。
教室の隅、窓際に座っていた女子生徒が、突然机に突っ伏した。
「えっ、ちょっと……!」
周囲の生徒が騒ぎ始める。
葵が立ち上がろうとした瞬間、その瞳がかすかに見開かれた。
瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、黒いもやのような影が揺れた。
「昇也……!」
「見えた……! まずい、あれは……!」
二人は同時に動いた。
霊障は、すでに日常へと浸食を始めていた。
生徒たちの視線をよそに、昇也は手早く指を動かし、霊符を展開。
葵は女子生徒のもとへ駆け寄り、静かにその手を握る。
「……大丈夫、あなたを連れ戻すから」
彼女の体から立ち昇る霊気の歪みに、明確な悪意があった。
その中心へと、葵は剣の幻影を重ね、静かに祈る。
「この子の魂が傷つかないように……どうか、光のもとへ還れますように」
葵の声はかすかだったが、剣を通してその祈りが霊気に共鳴した。
「ここでは手が足りない……昇也、外に連れ出せる?」
「やるしかないな。結界、展開する!」
彼の号令と同時に、教室全体を包むように結界が広がり、生徒たちの動きと声が静止する。
二人は気を失った女子生徒を抱えて外へと移動し、裏庭の誰もいない場所まで運んだ。
そこに待っていたのは、すでに霊気を感知して駆けつけていた零士だった。
「遅かったか……けど間に合ったな」
彼が指を鳴らすと、周囲に淡い光の結界が張られる。
生徒の体から黒いもやが噴き出し、それが顔を持った異形の姿へと変わる。
その異形が唸り声を上げ、三人に向かって突進してくる。
「来るよ!」
昇也が鎌を構え、葵が剣を呼び出す。
零士は後方からサポートの術式を展開。
三人の連携が再び戦場を駆けた。
だが今回、敵の気配は明らかに何かを伝えていた。
戦いの中、霊体が一瞬だけ止まり、口元を震わせる。
『……こちらも、観ているぞ……』
「……葵、昇也。様子が変だ。これ、ただの霊障じゃない」
零士が静かに言った。
「まるで、俺たちを試しているような」
そのとき、霊の内側から反響するように、別の声が響いた。
『感情パターン……記録中……対象:人間の魂……用途:解析媒体』
昇也が目を見開く。
「人の魂を……感情の記録媒体として利用してる……?」
すると次の瞬間、霊体の表層が崩れ、記憶の断片のような映像が漏れ出す。
病室。泣いている母親。誰かの最期の瞬間。
「この子の……記憶と感情……?」
葵が顔を歪める。
「つまり、俺たちの感情や記憶が、何者かに集められているということか」
零士の言葉に、場の空気が張りつめた。
そのとき。
霊体の残滓が風に溶けるように散った直後、空間のひび割れから白い仮面をつけた存在がほんの一瞬だけ姿を現した。
しかし、視認できた瞬間にはすでに消えていた。
「今の……見たか?」
昇也と葵が同時に頷く。
「観測者」
零士は睨みつけるように空間の残滓を見つめた。
その瞬間、かつての記憶が突き上げてくる。
霧の中、背後から放たれた一撃。
胸を貫かれた瞬間、全身の力が抜け、視界が暗転していく中で焼き付いたのは、遠ざかる誰かの瞳と、届かなかった言葉。
そのとき感じたのは恐怖ではなく、悔いだった。
でも、今は違う。
自分にはまだ、守れるものがある。
「……もう、あんな後悔は繰り返さない」
直後、結界の空気がふっと緩み、霊的な気配も静まっていった。
女子生徒は徐々に目を開き、きょとんとする。
「……大丈夫? 具合悪そうだったから移動させてたの。保健室行こう?」
葵がやさしく声をかけると、生徒は安堵したように頷いた。
「これ以上巻き込ませないためにも、早めに情報を整理する必要がある」
零士が言った。
「記録、観測、解析……魂を情報として扱う存在。ネザリウスの背後に、もっと深い仕組みがある可能性が高い」
「目的は……魂の選別の準備かもしれない」
「選別……」
葵はその言葉に夢を思い出した。
『器よ……抗うな。お前は私の元に来るだけでいい』
思わず首元を押さえた。
そのとき、零士の指先が光り、結界内部に文字列が浮かび上がった。
――観測番号:43X 魂解析完了 記録転送中――
「43X……これまでに43回も同じことが起きてるってこと?」
「俺たちの魂は意図的に、継続的に観測されている。そして、その記録は別の場所に集められているのかもしれない」
「でも、何のために?」
「わからない。これから調べる必要がある。だが……」
零士は空を見上げた。
「確実に言えることは、俺たちは何かの実験台にされているかもしれない、ということだ」
三人は顔を見合わせた。
観測者という存在は、霊障の背後で静かに、そして確実に動いていた。
そしてその目的は、まだ誰にも見えていなかった。
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