第11話 その想いは祈りと共に③
静寂が戻った。
しばしの間、誰もが動けなかった。
その場にはただ、三人の息遣いと、小さく震えている空気の余韻だけが残されていた。
葵が慎重に剣を下ろしながら、霧の消えた場所へと歩み寄る。
そこには、まるで誰かが苦しんだ痕のように、黒く焼け焦げた跡が残されていた。
「……ここ、何か……」
葵がつぶやいた瞬間、零士が近づいてきてしゃがみ込み、地面に触れた。
「人の魂の痕がある。しかも、かなり新しい」
昇也もまた、顔を曇らせて言った。
「やっぱり、あのときのと同じだ。浄化されるはずの魂が、どこかから引き寄せられてる」
零士の視線が鋭くなり、静かに続ける。
「ネザリウスの意志が残したものだ。単なる霊障じゃない。魂を捕まえて、利用しようとした痕跡だ」
その言葉に、葵の背筋がぞくりと冷たくなる。
この場所で、誰かが苦しんでいた。
そして、それはまだ終わっていない。
「ここで止めなきゃ、また誰かが取り込まれる」
昇也が拳を握りしめた。
三人の視線が自然と重なった。
まだ戦いは終わっていない。
でも、核心に少しだけ近づけたことを、三人とも感じていた。
そのときだった。
地面に残された黒い跡から、ぬめるような音を立てて何かが蠢いた。
「……動いてる?」
葵が息を飲む間もなく、焼け焦げた地の中心に、目のような模様が浮かび上がる。
それはぴくりと動き、ひび割れた空間から何かがこちらを見ているような錯覚を覚えさせた。
「監視の跡か、あるいは転送に使われた跡かもしれない」
零士が声を低くする。
「ネザリウスの一派が、ここで何かを送り込もうとしていた。あるいは、ここから何かを持ち去った可能性がある」
冷たい風が吹き抜けた。
霧はすでに消えているはずなのに、そこだけがまだ生きているような、異質な気配を残していた。
「あいつら、本格的に動き始めてるな」
昇也が低く呟いた。
地面の跡は徐々に薄れていった。
だが、それが終わりではないことを、三人は感じていた。
零士は最後にもう一度、指先で残った気配を確かめると、静かに言った。
「ここは俺が引き続き調べる。お前たちは一度戻れ。休むことも、役目のうちだ」
その目は鋭さを保ちつつも、わずかに優しさを宿していた。
葵と昇也は頷き、元来た道を静かに引き返していく。
***
昇也は歩きながら、ふと無言になった。
その横顔には、強張ったような影が落ちていた。
「……どうしたの?」
葵が声をかけると、昇也はわずかに息を吐き、小さく呟いた。
「昔、魂を導こうとしたときに……突然、強い霊障が起きて、うまく送れなかったことがある」
そのときの記憶が浮かびあがり、昇也の表情がさらに曇る。
小さな祠の前で、ひとりの少年の魂を送ろうとしたあの夜のことだ。
静かだったはずの空気が急にざわめき、視界が暗くなるような霊圧が周囲を覆った。
魂は光に包まれかけていたが、突如としてその光は裂け、暗い渦の中へと引き込まれていった。
「やめろ……!」
叫んだ声もむなしく、少年の魂は掻き消えるようにして消えた。
昇也はその場に崩れ落ち、ただ自分の無力さだけが強烈に刻まれた。
その記憶が、今の霊障と重なって見えたのだ。
「もしかしたら、あのときも……今回と同じやつの仕業だったのかもしれない」
葵はその横顔をじっと見つめた後、そっと歩みを寄せた。
「……そのときのこと、今もずっと気にしてたんだね」
昇也は驚いたように目を見開いたが、次第に視線を伏せ、黙って頷いた。
「でも、それは……今ここで、立ち向かうための力になってると思う。無駄じゃないよ」
葵の声は静かだったが、しっかりと彼の胸に届いた。
もしまた失敗したら。
今度こそ、誰かの魂が取り返しのつかないことになったら。
そんな思いが胸の奥で静かに渦巻き、彼の心を締めつけていた。
それに気づいた葵は、ふと立ち止まり、彼の前に回り込んで真っ直ぐに見つめた。
「ねえ、昇也。あのとき怖かったと思う。でも……それでも前を向こうと頑張ってる今のあなたは、本当にすごいと思う」
その言葉に、昇也は一瞬だけ目を見開いた。
そして次の瞬間、堰を切ったように彼女をぐっと抱きしめた。
突然強く抱きしめられて、葵は思わず驚き、わずかに体をこわばらせる。
けれどすぐに、背中から伝わってくる震えに気づき、黙って受け入れた。
「……ごめん……でも、ありがとう」
抱きしめた昇也の腕は、今にも崩れ落ちそうな想いを繋ぎとめるかのようだった。
葵はそっと目を閉じ、彼の想いに寄り添った。
しばらくそのままで静かに時間が流れたあと、葵が小さく声をかけた。
「……落ち着いた?」
昇也は腕の力を少し緩めて、苦笑いを浮かべる。
「……ごめん、なんかカッコ悪いとこ見せちゃった」
照れくさそうにうつむいたその表情が、葵の胸をくすぐった。
なんだろう、この気持ち。
胸の奥がふわりとあたたかくなる。
ほんの一瞬、鼓動が高鳴り、指先にじんわりと熱が走った。
戸惑いと小さな喜びが混ざったその感覚に、葵は目を逸らすように小さく笑った。
***
そのころ、まだ倉庫の前に一人残っていた零士は、静かに空を見上げていた。
倉庫裏の薄明かりの中で、寄り添うように抱きしめ合っていた葵と昇也の姿。
温もりを確かめ合うように、静かに心を通わせていたふたりの姿が、瞼の裏に焼きついていた。
どれだけ手を伸ばしても、触れられない距離がある。
守りたいという想いはあるのに、霊体である自分には、何ひとつ届かない。
温もりを与えることすら、できない。
零士はそっと、自分の手を見つめた。
透き通るように揺らぐ指先。
かつてこの手で誰かを守った記憶がある。
でも今は、すり抜けるだけの存在だ。
「……それでも、お前が笑っていられるなら、それでいいと思っていたのに」
喉元にこみ上げるのは、想いの置き場所を見失った痛みだった。
零士はゆっくりと目を閉じた。
その胸の奥で、ひとつだけ確かなことがあった。
たとえ触れられなくても。
たとえ届かなくても。
彼女のそばにいたい、という気持ちだけは、霊体になっても消えていなかった。
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