第10話 遠き記憶と響き合う魂②
「……兄さんがいなくなった?」
あの日から、零士は突然姿を消した。
何の前触れもなく、何の言葉も残さず。
屋敷中を探し回り、霊脈を辿っても、兄の痕跡はもう感じられなかった。
「なんで……なんで何も言わないで行ったんだよ、兄さん……!」
声を荒げたのはその夜のことだった。
部屋の中、昇也はたった一人で拳を握りしめていた。
思い出されるのは、あの冷たい言葉。
『俺に構うな』
最初は、本気で自分を拒絶しているのだと思い、ひどくショックを受けた。
思い返せば、まだ二人とも仲が良かった幼い頃、屋敷の書庫で読んだ英雄伝に心惹かれたことがあった。
冥界の戦乱を鎮めた英雄の物語に、二人して夢中になり、いつか自分たちもそんな人物に出会えるかもしれないと胸を躍らせていた。
兄の目がまっすぐに輝いていて、それを見ているのが好きだった。
そんな兄に言われ拒まれた痛みは、幼い心に深く刻まれた。
だが今なら分かる。
(あれは、俺を守るためだったんだ)
知ってしまったからこそ、零士の孤独な覚悟が胸に痛いほど響いた。
***
それから数年後、昇也は本家から呼び出しを受ける。
「お前には、人間界での任務に就いてもらう」
その言葉が落ちる瞬間、空気が変わった。
まるで命令ではなく、定められた運命を宣告されたような重さがあった。
「任務の詳細は追って伝える。ただし、お前が知る必要のない情報は一切開示されない」
「零士の件については、『魂消失』と記録されている。それ以上の調査は不要だ」
「……兄さんに関してはそれだけ、ですか?」
声が震えたのは、怒りからか、哀しみからか、自分でもわからなかった。
だが返ってきたのは、冷酷な沈黙だった。
昇也は、本家の重圧と混乱を背負いながら、人間界へ送り出される。
「……兄さんが、何を背負って、何と戦おうとしたのか……俺が見届ける」
昇也の目には、失われたものと向き合う決意の光が、確かに灯っていた。
***
冥界から離れ、人間界に降りた後。
零士は名を伏せ、夜を選んで静かに人々の影に紛れるように生きていた。
初めてこの世界に足を踏み入れた夜、真夜中の町のはずれに現れた禍々しい瘴気に彼は立ち止まった。
「……もう、ここにも広がっているのか」
空気が淀み、霊的な歪みが漂っていた。
ネザリウスの残響。
清算派の術式。
(こんな場所にまで、やつらの手が伸びてきている……)
零士はコートの裾を翻し、瘴気の中心へと歩を進めた。
(俺が止めなければならない。あの日、冥界を出た意味を、この手で証明するために)
その数日後、零士は町の片隅で、異様な霊気の波動を感じ取った。
古びた工場跡地。
そこにいたのは、人間の姿をしていながら異質な気を持ち仮面をした者。
「……観測者か」
「冥界の落人が何の用だ? もうすぐここも浄化される」
「浄化じゃない……これは支配の布石だろう」
言葉の応酬のあと、霊力のぶつかり合いが始まる。
観測者の放った冥界術式は、確かに清算派のそれと酷似していた。
その気配に触れた瞬間、胸の奥が焼けるように痛み、記憶がぶり返す。
廃神殿の薄暗い回廊。
握り返してきた、冷たい手。
「絶対に、帰ってこい」と言った、自分の声。
果たせなかった誓い。
(……今度こそ、絶対に止める)
彼は再び立ち上がり、観測者を封じた。
それは、地上での本格的な戦いの始まりだった。
だが、その直後だった。
不意に現れた黒い影が、零士の背後から襲いかかる。
霊気に紛れるようにして現れたそれは、明らかに人間の形をしていなかった。
「ぐっ……!?」
零士の体が宙に浮き、結界が剥がされていく音が耳をつんざく。
次の瞬間、重力に引かれるように地面に叩きつけられると、視界が白く染まった。
全身の霊気が削がれ、まともに術も発動できない。
追撃の気配が迫る。
(まだ……まだ、やれる……!)
必死に手を伸ばすが、指先に力が入らない。
意識が遠のいていく中、彼はひとつの想いだけを抱いた。
(……まだ……あの約束を守れていないのに……)
額が触れた、あの夜の温度。
「帰ってこい」と握った、冷たい指先。
キルハに——いや、もう一度誰かに、あの言葉を伝えたかった。
誰にも助けを求められず、魂が焼かれるような痛みとともに意識が薄れていく。
そして、次の瞬間、激しい閃光とともにその場の空間がねじれた。
時間が止まったような感覚の中、零士の肉体はゆっくりと溶けるように霧散していく。
(まだ……終われない……このままじゃ……)
魂の奥に刻まれた禁忌の術式。
その影響が、ネザリウスの呪詛と共鳴し、彼の魂を『昇華』ではなく『残留』へと引きずり込んでいた。
まるで引き裂かれるような痛みと共に、零士の魂は肉体から乖離し、霊体としてこの世界に残された。
身体は消えても、意志は消えなかった。
誰にも気づかれず、誰にも見えない霊として、零士はその場に立ち尽くしていた。
***
語りが終わると、視聴覚室には長い沈黙が落ちた。
葵はその一部始終を、息をするのも忘れたように聞いていた。
零士がゆっくりと目を開ける。
過去から戻ってきたその瞳には、まだ昔の痛みの残響があった。
「……これが、俺の知っているすべてだ」
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