第9話 兆しと招かれざる気配
教室に残された『印』を見つけてから、三日が経った。
何も起きない日々が、むしろ不気味だった。
「……まだ来てないってことは、力を溜めてるってことかもね」
昇也がぽつりと言った冗談に、葵は笑えなかった。
そして四日目の夜、それは来た。
霊気の乱れを感じ取った昇也が、町外れの廃工場跡へ足を運ぶ。
零士と葵もそれに同行した。
廃工場には、うっすらと黒い瘴気が漂っていた。
まるで何かが目覚めようとしているかのように、地面から這い上がる影が人の形をとって揺れていた。
「この感じ……前のより格段に強い」
昇也が警戒の声を上げる。
「霊の干渉進行度が異常に早い。……封印が、誰かに破られた可能性がある」
零士の声には焦りと怒りが混ざっていた。
「封印……?」
「冥界の深層に施された結界だ。負の力をこの世に漏らさないための、いわば二重の鍵。それが、誰かの手で崩されている」
葵は不安げに二人の顔を交互に見た。
その時、葵の頭の中で脈打つような違和感が生まれた。
視界の端が揺らぎ、夢で見た「誰かが剣を掲げた」映像が、ふっとよみがえる。
「……ここで何かが起こる……」
葵はそう呟いた。
***
廃工場に漂っていた瘴気が、突如として濃さを増し始めた。
空気が鈍く粘りつくようになり、視界さえもわずかに歪みはじめる。
「く……っ!」
その瞬間、鋭い衝撃が昇也の腹部を貫いた。
背後から突如現れた影が、鋭い瘴気の爪を突き立てていたのだ。
咄嗟に身をひねったおかげで致命傷には至らなかったが、肩口から脇腹にかけて服が裂け、血がにじむ。
「くそ……浅いけど、痛ってぇな……」
「昇也!」
葵が叫び、駆け寄ろうとするが、その足元からも影が這い出す。
とっさに零士が霊力で押し返すが、影は今までのものよりも格段に強く、まるで意志を持つかのように動いていた。
「今回は、結界すら容易く貫く異質な瘴気……まるで『知性』でもあるようだな。これは明らかに意図的な攻撃だ」
零士の言葉に、葵は震えながらも覚悟を決める。
その直後、闇の気配が蠢き、零士の背後から影が跳ねるように飛びかかってきた。
鋭い一閃が彼の肩をかすめる。
「ぐっ……!」
霊体でありながら痛みを伴う異様な感覚。
「この瘴気……ただの影じゃない……!」
前世の夢で見たあの戦い。
(あのときの私は、何を守ろうとしていたんだろう?)
影が暴走し始める中、誰かの強く、魂を揺さぶるような叫びが彼女の中で響いた。
『お前を失くしたりはしない!』
その声に呼応するように、葵の胸の奥が大きく脈打ち、強烈な鼓動が響き渡った。
次の瞬間。
何かのガシャンと鎖が弾け飛ぶような音が内側から鳴り響く。
紫色の光が彼女の瞳に宿り、髪の先端が淡く輝き出す。
「これは……!」
零士と昇也が同時に息を呑む。
紫色の光が周囲に収束し、空中に剣の輪郭が浮かび上がる。
何度も夢で見た、あの紫の剣。
「……来て……!」
葵が無意識に呟いた瞬間、光の粒子が集まり、紫の剣が手元に顕現する。
「斬影の言——命の灯を守護とせよ!」
昇也が叫び、霊力が爆発的に広がる。
だがそれを超えるように、葵の手にした剣が強く輝き、振るわれた彼女の心から発せられた光は雷光のように走った。
目の前の影たちが、一瞬で蒸発したように霧散していった。
「……まさか……覚醒した?」
『私の中のあなたは、今も戦おうとしている。ならば、私も応えるまでだ』
強烈な衝動が葵の心を貫き、前世の剣を振るう自分の姿と完全に重なる。
キルハの記憶が、魂の奥で確かに共鳴した。
「うそ……これが、私……?」
呆然とした表情のまま、葵はその場に膝をつく。
「葵、大丈夫か!」
彼女の意識は朦朧としていたが、その頬にはうっすらと微笑が浮かんでいた。
「うん……声が届いた。あの人の声が——」
零士はその光景を見つめながら、静かに呟いた。
「キルハ……」
その瞬間、ネザリウスの気配が遠くから反応する。
黒い影が揺らめき、赤く光った瞳が彼らを捉えた。
『……封印の先から届いたか。あの者の覚醒……やはり格別だ』
薄ら笑いが、世界の裏側から響いた。
その声が完全に消えるまで、誰も動けなかった。
風が止まり、廃工場の中に重い静寂だけが残る。
それでも何かが、彼らをまだ見ていた。
***
影を打ち払った翌日、校舎の一角で葵は一人、ぼんやりと立ち尽くしていた。
(昨日のあれは……本当に自分だったんだ)
手のひらに残る熱。
剣を握った時の感触が、まだ皮膚の奥に残っている気がした。
胸の奥、魂の深いところで、もう一つの意識と触れ合ったような感覚。
キルハの記憶が、微かに彼女の中に揺らいだ。
(私はあの人だったんだ……そうなんだね、キルハ)
胸に手を当て心でつぶやく。
ほんのりと胸の中の何かが応えた。
そのとき背後から声がした。
「やっぱり、ここにいた」
振り返ると、そこにいたのは零士だった。
「……昨日、すごかったな」
葵は肩をすくめて笑った。
「自分でも信じられないくらい、動けてた気がする。でも怖かった。あんなの、何度も経験するのは無理」
「怖がるのは当然だ。だが……それでも君は進んだ」
零士の声は、どこか過去の記憶を辿るように、優しく響いた。
「昨日のこと、夢みたいだった。でも、夢じゃない。だからこそ、怖いのかもしれない」
その言葉に、葵の脳裏に浮かんだのは、昨日目にした彼ら二人の姿だった。
血に染まりながらも必死に守ろうとする姿。
自分をかばって傷ついた彼らの姿を思い出した瞬間、胸の奥に重く圧し掛かる恐怖が蘇る。
(昨日、もしほんの少し違っていたら……二人はどうなっていたんだろう)
考え込んでいた葵の表情を見た零士は、そっと彼女に視線を向け、静かに頷いた。
「夢と現実の境界は、曖昧だ。だが、それを越えてきたのは君だ。だから、今この場所にいる」
彼の言葉に、葵はそっと目を閉じた。
少しだけ、彼のことをもっと知りたい、近づきたいという想いが芽生えていた。
そのまましばらく、風の音だけが二人の間に流れていた。
しかし、葵の中ではひとつの決意が芽生えていた。
(もう、逃げない。怖くても、ちゃんと向き合う)
「……零士」
葵は真剣な瞳で彼を見つめ、はっきりと言った。
「私、ちゃんと知りたい。あなたのことも、昇也のことも。今までのこと全部、詳しく聞かせてほしい」
その強い意志を受け止めて、零士はゆっくりと頷いた。
「わかった、昇也も含めて話そう」
その声には、長い間隠してきたものを、ようやく解放するような、静かな覚悟が滲んでいた。




