第6話 目覚めの余韻と零士の過去
その夜の霊災は、前よりも強かった。
零士の一言が合図だったように、扉の隙間から這い込んできた黒い靄は、人の形をしていた。
昇也が即座に鎌を構え、零士が霊気で押さえ込む。
葵は壁際で息を殺しながら、その戦いを目に焼き付けていた。
結果として、霊災はなんとか退けた。
だが、終わった後の静けさの中に残ったもの。
それは安堵ではなく、確かな重さだった。
(あれは、これまでとは違う)
誰もがそう感じていた。
***
それから数日、葵は昇也と零士に同行して何度か現場に足を運んだ。
大きな危険はなかった。
だが、魂を迷わせた者たちの浄化を目の当たりにするたびに、胸の奥がざわついた。
それでも、葵はその場に立つことをやめなかった。
何かを理解したい、手伝いたい。
そんな想いが、自然と身体を動かしていた。
***
そしてある夜、葵は眠っている最中に突然、激しい頭痛とともに夢の中で誰かの『記憶』を見た。
追われるように冥界を離れ、人間界に降り立つ黒衣の青年。
その者が感じる焦燥と緊張、そして真夜中の町に漂う禍々しい瘴気。
不意に現れた黒い影が、彼の背後から襲いかかる。
反応する間もなく、魂に直撃する衝撃が走った。
体が持ち上がり、霊気が一気に剥がされていく。
「くっ……!」
叫びすら漏らせず、意識が遠のいていく中、彼はひとつの想いだけを抱いた。
(……まだ……あの約束を守れていないのに……)
誰にも助けを求められず、魂が焼かれるような感覚の中で倒れ込む。
その最期の瞬間までを、葵は夢の中で見ていた。
目覚めても、胸の痛みが消えなかった。
(……誰の記憶なの? これまでの夢とは、違う……)
その違和感が、葵を昇也の家へと向かわせた理由だった。
***
玄関のチャイムが鳴ったとき、昇也はすぐに扉へと向かった。
ドアを開けた先に立っていた葵の顔を見て、彼はすぐに違和感に気づいた。
「葵……顔色、悪いな。どうしたの?」
心配そうに眉をひそめながら、昇也は彼女を中へと招き入れる。
リビングへ通すと、葵は黙ったままソファに腰を下ろし、しばらく視線を落としていた。
少し間をおいて、ようやく口を開く。
「……夢を見たの。黒い服を着た男の人が、何かから逃げて……誰にも助けを求められなくて……最後、苦しみの中で静かに消えていくの」
葵の声は静かだったが、その奥に確かな痛みが滲んでいた。
「知らないはずなのに……どうして、こんなに胸が痛むんだろう」
その言葉に、零士がいつになく静かな表情で彼女を見つめた。
(魂の輪郭が……明らかに変化している。葵……お前の覚醒が近い)
彼女に流れ込んだ夢の記憶の正体を、零士は知っていた。
それは——自分自身の記憶だった。
葵自身も、自分の内面で何かが変わってきているのをぼんやりと感じ始めていた。
(最近……夢の内容が前より鮮明で、心に残る感覚が強くなってる。あれは誰かの記憶? それとも私自身の——?)
自分の中の何かが、知らない誰かと共鳴しているような不思議な感覚。
それが『怖い』というより、『懐かしい』と感じてしまうことが、余計に不安だった。
零士の瞳に、一瞬だけ、迷いと期待が交錯した光が揺れた。
そして視線を葵に向けると、静かに言った。
「……もう隠しておけないようだ。俺の記憶の一部が、葵に触れてしまった。なら、話す時が来たんだ」
零士は一瞬、昇也に視線を向けた。
「……そして、お前にも」
昇也の肩がわずかに張り詰めた。
零士は少しだけ視線を逸らし、言葉を選ぶように息を吐いた。
「俺も……元は冥界の本家にいた。真神家の本家——魂を管理し導く一族だ。だが、そこで起きた派閥争いに巻き込まれた」
「兄さん……その話は……!」
昇也が思わず声を上げる。
零士の静かな表情を見て、言葉を飲み込んだ。
「お前が知らされていなかったのは当然だ。機密だった」
零士は静かに続ける。
「俺が標的にされたのは、ある禁忌の痕跡を知っていたからだ。それを隠したい者たちに狙われた。だから冥界を離れ、人間界に降りた」
「……禁忌って」
「今は、それ以上は言えない」
零士の目が、ほんの一瞬だけ葵を見た。
(全部話す時は、まだじゃない。でも……これだけは、伝えなければならない)
「……人間界に降りた後、俺は前世の敵の残滓を感じた。『ネザリウス』――かつて冥界を混沌に陥れた存在だ。まだ完全には消えていなかった」
その名を口にした瞬間、零士の声がわずかにかすれた。
「単独で調査に向かった。だが……不意をつかれた」
思い出すのは、あの瞬間だ。
真夜中の町のはずれ。
禍々しい瘴気。
魂の奥底から鳴った警鐘。
反応する間もなく、魂が焼かれるような衝撃が来た。
「……死んだ時、俺の魂はヤツの呪いと、自分が犯した禁忌の代償が重なって、完全に昇華できなかった。だから、こうして霊体として残っている」
沈黙が落ちた。
昇也は黙って零士を見つめていた。
兄の口から語られる事実を、ひとつひとつ胸に刻むように。
やがて、ぽたりと涙が頬を伝った。
「……なんで」
声が震えていた。
「なんで兄さんが、そんな目に……一人で、全部……」
「昇也」
「俺に、言ってくれたら……!」
「お前を巻き込めなかった」
零士の声は静かだったが、その奥に確かな痛みがあった。
「それだけだ」
昇也はそれ以上言葉を出せなかった。
拳を握りしめたまま、ただうつむく。
その隣で、葵は静かに昇也の手を握った。
零士の記憶が夢に流れ込んできていた彼女には、言葉よりも先に、その痛みが伝わっていた。
(私……こんな力を持ってなければよかったって思ってた。でも今、こうして彼らと関わることで、夢の意味も、あの苦しみも……少しずつ変わってきてる気がする)
気づけば、葵の頬をひとすじの涙が静かに伝っていた。
零士は、涙を流すふたりの姿をじっと見つめていた。
(……これでよかったんだ。やっと……想いが届いた)
わずかに表情を和らげると、言葉を静かに紡いだ。
「……俺の死は、ただの終わりじゃなかった。霊体として残ってしまったけれど、それでも君たちと再会するために意味を持った。俺は……そう信じてる」
零士の言葉に、葵も昇也も静かに頷いた。
その場に、一瞬だけ柔らかな沈黙が落ちた。
葵は袖口でそっと涙を拭い、ようやく呼吸を整えるように深く息を吐いた。
「……不思議だね。こんな話を聞いて、こんなに苦しいのに、少しだけ心が落ち着いてる気がする」
昇也もまた、目元を拭いながらも、ふと口元に安堵の色を浮かべた。
「……俺も。兄さんの想いが、ちゃんと届いてたんだって……少しだけ、救われた気がした」
零士は何も言わず、ふたりのやり取りを静かに見守っていた。
その視線は、どこか優しく、そして満ち足りたようでもあった。
***
その穏やかな空気を切り裂くように、窓の外で一瞬だけ、空気が歪んだように感じられた。
零士が気配を察知して、すぐさま視線を向ける。
「……来たか。まだ尾を引いていたのかもしれないな」
昇也も立ち上がり、すでに背中に鎌を召喚していた。
「瘴気の反応だ。さっきの話に反応したのか……あるいは、ずっと近くに潜んでいたか」
葵も思わず身を固くする。
「また……来るの?」
零士が短く頷く。
「気を抜くな。今回のは、前よりも強い」
扉の外に気配がにじみ、足音のような重い音が空間に響き始める。
そして扉の隙間から、一筋の黒い靄が這い込んできた。
それは、人の形をしていた。




