第五章:焔の誓い
夜の帳が降り、花の界の森は不気味なほどの静寂に包まれていた。
かつては精霊たちのさざめきで満ちていた小径も、今は光を失い、冷たい霧が這いずっている。
「……あっち。あの光の先に、仲間がいる気がするの」
フェリシアはひとり、闇に包まれた森の奥へと足を進めていた。
彼女の小さな翅がふるえるたび、青白い光の粒がこぼれ落ちる。
だが、その光さえも飢えた闇に吸い込まれ、霧の中に溶けていくようだった。
「フェリシア、待ちなさい」
背後から響いた重厚な声。
振り返れば、月光を弾く白銀の鎧――守護者アモルが立っていた。
「どうしても行くのか。姫様も、シフィルスも案じているというのに」
「……だって、あの光が泣いているんだもん。あたし、放っておけない」
フェリシアの瞳は、恐怖を越えた決意に揺れていた。
アモルは小さく溜息を吐き、槍を握り直した。
「……やれやれ。ならば、このアモルが騎士の務めを果たそう。君の背後は、私が預かる」
その時だった。
突如、森の空気がねじれ、光り輝いていた花々が一斉に黒く変色して散った。
──咆哮。
地を裂くような重低音が響き、頭上の空が赤黒い炎に染まる。
霧の向こうから現れたのは、かつて平和の象徴であった赤龍サラマンドゥーラの、変わり果てた姿だった。
その瞳に宿るのは慈悲ではなく、呪われた瘴気。
「フェリシア、下がれッ!」
アモルが叫ぶより早く、灼熱の爪が振り抜かれた。
爆風が森をなぎ倒し、フェリシアの翅を焼く。宙に散る光の粒。
「――フェリシアッ!!」
闇を切り裂いて駆け込んできたのは、アスティシアだった。
彼女は倒れ伏した小さな妖精にすがり、必死に祈りの言葉を紡ぐ。
「お願い、光よ……! どうして、どうして届かないの!?」
だが、彼女の放つ聖なる光は、赤龍の纏う闇の瘴気に飲み込まれ、霧散していく。
アモルがその前に立ちはだかった。
「姫様、なぜここに、とはもう聞きません。フェリシアを抱いて、どうか下がってください!」
「アモル、あなたまで……!」
「この炎を止める。それが、あの日あなたに捧げた私の誓いです」
サラマンドゥーラが再び吼え、紅蓮の奔流を吐き出す。
アモルは躊躇なくその灼熱の中へ踏み込んだ。
神から授かった鎧が焼け、肉が焦げる音が響く。
それでも彼は一歩も引かない。剣を掲げ、自らの生命力を光に変えて盾とする。
「祈りが届かぬというのなら――俺が、その光の道標になる!」
「アモル! もういい、やめて! お願い!」
フェリシアの悲鳴のような叫びが響く。
だが、アモルは振り返らなかった。
ただ一度、背後にいる姫の瞳をまっすぐに見つめ、いつものように穏やかに微笑んだ。
──その瞬間。
紅の閃光が夜空を十字に裂き、咆哮をかき消すほどの翼の羽ばたきが響いた。
「下がれ、アスティシア!」
炎を両断しながら、マース・クレイオスが鳳と共に舞い降りた。
その腕に宿る「再誕の焔」が、赤龍の歪んだ鱗を赤々と照らし出す。
アモルは地に膝をつきながら、血に濡れた指で、サラマンドゥーラの胸元にある一点を指差した。
そこは、かつて神聖な紋章があった場所――今は闇の核が脈打つ、唯一の弱点。
「……マース殿。ここだ……私ごと、撃て……ッ!」
「馬鹿を言うな!」
マースが絶叫する。
「命は、護るためにあるものだろう!」
アモルは静かに、誇り高く首を振った。
「……捧げるためにもある……のです。姫様を、頼みます」
マースの瞳に、激しい葛藤と、それを飲み込むほどの覚悟が宿った。
彼は神剣アステリオンを握り直し、鳳の炎を剣身へと集束させる。
「……安らかに眠れ、わが友よ」
神剣が、この世の物とは思えぬ純白の閃光を放った。
「紅蓮斬――!!」
轟音と共に、サラマンドゥーラの断末魔が夜空を震わせる。
すべてを包み込むような光の爆発の後。
残されたのは、舞い散る灰と、重い静寂だった。
その中に――一片の、真っ白な羽が、光となってふわりと舞った。
アスティシアはその光を、抱きしめるように両手で受け止めた。
「アモル……。あなたの誓い、確かに受け取ったわ……」
風が吹き抜け、フェリシアの焦げた髪を撫でる。
悲しみの底で、世界のどこかで、止まっていた祈りの鐘が再び鳴り始めた。




