第四章:黎明の息
夜明けの前、花の界を覆う風が、微かに震えていた。
祈りの間にひとり座すアスティシアは、掌を胸の前で合わせ、そっと目を閉じた。
「……父上。どうか、この祈りが届きますように」
その声はやわらかく、けれどどこかでかすれていた。
彼女を包む光はまだ清浄だ。
だが、その光が届くべき「世界の果て」が、少しずつ闇に侵食され、遠のいているのを肌で感じていた。
「姫、またお祈りですか?」
振り返れば、守護者アモルが、一抱えほどの瑞々しい花を抱えて立っていた。
「この花は、風が吹くたび光の粒を落とすはずなのですが……。
今日は、ほとんど光りません。フェリシアが、森の元気がなくなっていると嘆いておりました」
アスティシアは悲しげに微笑み、一輪の花に触れた。
「花も、風も、きっと疲れているのね。……世界が、少しずつ泣いているのだわ」
そう言って再び瞼を閉じた時、風が不自然に揺れ、庭の枯れかけた葉がひとつ、激しく震えた。
それは、遠い地で「大きな火」が爆ぜた合図だった。
その頃、遙か彼方の火の界。
マース・クレイオスは、赤く焼け付いた丘の上に立ち、燃え続ける火口の向こうを凝視していた。
鳳を覚醒させたばかりの彼の身体からは、隠しきれない熱が陽炎となって立ち昇っている。
「……風が止まったな」
背後から声をかけたのは、赤く熱した鉄を打つような野太い声――副官のレヴィアスだった。
彼は重厚な斧を肩に担ぎ、不敵に鼻を鳴らす。
「不気味な静けさだ。まるで誰かが、この世界の喉元を締め上げ、息を止めたみたいじゃねぇか」
「息を止めたのではない」
マースの声が低く、火山の鳴動のように響く。
「――祈りが、届かなくなりつつあるだけだ。光と闇の均衡が、音を立てて崩れようとしている」
彼は手に握る神剣アステリオンの感触を確かめた。
再誕した剣は、主の意志に応えるように、ドクン、ドクンと鼓動を返してくる。
「レヴィアス、準備をしろ。風が再び吹き始めた時、それが俺たちの進軍の合図だ」
一方、妖精の森。
シフィルス・クリフは、大樹の枝に腰掛け、虚空を見つめていた。
そのすぐ隣で、小さな妖精フェリシアがふと動きを止め、耳を澄ます。
「……シフィルス、風が泣いてる」
彼女の翅が震えるたび、森がその微かな音を吸い込んでいく。
いつもは饒舌な森の精霊たちが、今は何かに怯えるように沈黙を守っていた。
シフィルスは白銀の髪を風になびかせ、静かに立ち上がった。
「泣いているだけではない、フェリシア。風は“呼んでいる”のだ。……火の神が、動き出した」
フェリシアは不安そうに彼を見上げたが、すぐに小さく笑った。
「大丈夫。……祈りはまだ、風の中にあるから。あたし、探してくる。みんなが繋がれる場所を」
──そして、夜明け。
ラザールのすべての空が、一瞬、完全に静止した。
光がわずかに揺らめき、見えない祈りの糸が激しく震えた。
誰も気づかぬまま、ひっそりと「終焉の鼓動」が始まった。
別々の場所にいた彼らの視線が、同時に同じ方向を向く。
それは、かつて世界を分かち、いま再び災いの中心となろうとしている闇の深淵だった。




