敗北
雪解けは日の当たる木立から始まった。
冬の冴え渡る日差しとは違う、温度を伴った陽の光が、固く凍てついた雪の塊を溶かしていった。
ルースの旅支度も、整った。
母から森の民の生き方を学んでいたルースには、余計な荷物というものがない。
だから最低限の、背中に負う荷物だけでどこにでも行けた。
――そこに森があれば。
港は、王都にある。
まずは王都を目指すべきだった。
心がどれほど乱れても。
「……ありがと」
太い木組みの頑丈な小屋に立って礼を言う。
この逞しい小屋があることで、女一人でも森で生きていけた。
森の民ではあっても、暖かい寝床を与えてくれるこの小屋は、得がたいものだった。
「――さよなら」
小屋の中心に立つ、太い柱に額をつけて呟く。
きっと、大陸に向けて旅立つ船の上では言えない。
港に立ち、王宮に向けて言うことも、きっとできない。
だから、今ここで。
「……ごめん」
期待されていた役割は分かっていた。
このまま、王の忠実な手駒であること。
未だ治まりきらないこの国の統治に、森の民として力を貸すこと。
王妃の身辺を……警護すること。
「ごめん、なさい」
仲間だった。
友だった。
死線をくぐり抜け、信じ合っていた。
彼らを、ルースは裏切ったのだ。
……不可能では、なかった。
心を殺して務めを果たすことは、若いルースにも恐らくは可能だった。
信頼に応えようと思えば、きっとできた。
ルースの顔が歪む。
頬を、涙が伝っていく。
限界まで耐えようと思えばできたはずなのに、それを選ばなかったのはルースなのだ。
最初から、手に入らない男と分かっていたのだから、もっと綺麗に諦めれば良かったのだ。
王妃の良き友となり、王の忠実な臣下でいれば、あの温かい仲間の温もりは今でもルースを包んでいた。
「あの人の、大切な人なんて……傷つけるわけ、ないじゃない……」
それでも、壊したかったのだ。
ルースを盲目的に信じる男達に、自分の汚い感情を露わに示したかった。
仲間の、恋する男の信頼を裏切り、傷つけることで……ルースの恋を、刻みたかった。
この恋情を、なかったことにしたくはなかった。
ルースの裏切りに、ヘンリーの瞳は明らかに傷つき、揺れていた。
あの揺るがない男が、瞠目し、咄嗟に怒鳴りつけるほど揺れた。
そのことが、体の奥から震えるほど嬉しかった。
「……最低な女……」
あの傷は、ルースの物だ。
あの男につけたあの傷は、ルースだけの物だ。
あの瞬間があれば、それだけでもう、いい。
ヘンリーの、傷ついた眼差しがこの胸に生きる限り……ルースの恋は、報われたのだ。
いつか、かさぶたになって剥がれ落ちるその日が来るとしても。
ルースは顔を上げる。
涙を無造作に拭って荷物を背負う。
小屋の扉に手をかけ、春の日差しに満ちる森へと、歩み始めた。
王都からこの小屋には、獣道のような、ごく僅かな道ができている。
平原の民には見分けられないだろう道は、だがルースの目には明らかだ。
この小屋を作る際に踏み分けられたものだろう。
年季の入った小屋の様子から見るに、もしかすると王家の避難場所のようなものだったのかもしれない。
その道を行くこと僅か、ルースはすぐに足を止めた。
目に入った光景が信じられなくて、無意識に足が後ずさる。
気配を消して佇んでいただろう男の姿に、心が締めつけられる。
そうだ、草原の民に、森の歩き方を教えたのはルースなのだ。
「――なんで……」
物思いに耽るように目元を伏せていたその男は、ゆっくりと顔を上げた。
その男の後ろに、もう一人。
護衛のためだろう。
厳ついその姿形は、ヘンリーに誰よりも忠実な騎士のものだ。
「……帰るぞ、ルース」
なんでもないように男が放った言葉に、ルースは顔を歪める。
「……追放、されてる、から……」
どうにか絞り出した言葉を、だが男は叩き落とす。
「取り消した。
エイデン伯爵を追放した今、もうお前が泥をかぶる必要はない」
どうでもいいことを考える。
あぁ、あれほど権力に近づきたがっていた兄は、やはり取り除かれたのだ、と。
「ルース。帰るぞ」
当然のように手を伸ばしてくる男に、鈍い動きで後じさる。
「……無理」
意味が、分からない。
今でも、巧妙に隠してはいたが、男の瞳の奥にはルースに対する警戒心のような熾火が踊っている。
深い信頼を手ひどく裏切り、傷つけた。
それなのに、この男は今もルースに手を伸ばしてくる。
「エリザベスは、忘れたと言っている。
何もなかったと。
――ほら、帰るぞ」
何でもないように……ルースの裏切りなどなかったように、熾火の踊る目を隠しながらルースに手を伸ばす男に、ついにルースの叫びが音となる。
「――好きだった!
憧れてた!
側にいたかった!」
子供のように喚く。
「幸せになって欲しかった!
あの人と幸せでいるのを見たくなかった!」
声も涙も、止められない。
「――だから……だから……っ!
もう、出て行く……っ」
「いいから。……帰るぞ」
ヘンリーは、逸らしていた目をルースに当てた。
熾火の踊る目は、にも関わらず奇妙に凪いでいた。
爆発した感情は、涙とともに冷えて固まっていった。
「……そういう同情は、要らない」
懐に入れた人間をどこまでも受け入れるような、大きな男だ。
一度は裏切ったルースを再び懐に入れようとしているヘンリーに、ルースの頬は自嘲で歪んだ。
同情され、腫れ物に触れられるような日常が容易く想像できた。
そんな日々は……ごめんだった。
ヘンリーは、取られない手を伸ばし続けていた。
大きな掌を無防備にルースに晒して。
そうして、言った。
「――お前の気持ちには応えられない。
だからといって、お前の幸せを祈ってはならないのか」
ルースは目を瞬いた。
目の端に残った涙が、弾みでこぼれ落ちていった。
「――っは」
嗤おうと、した。
綺麗事でルースの激情を軽んじる男を、嘲り笑おうとした。
「幸せになってもらいたい。
お前には」
深い声だった。
眼差しに乗る熾火は、柔らかくルースを暖めようとしていた。
「――いら、な、い……」
幸せなど。
未来も可能性も全て捨てて、この想いだけを温めて生きていこうとしている。
だから、そんなものなど要らないのだ。
要らないのに……何故、声が擦れるのだ……。
「お前は、俺の家族なのだ。
昔も、今も。
――捨てられるわけが、ないだろう?」
熾火が、柔らかく揺らめいた。
こんな言葉の一つで、どうして救われた気持ちになるのだろう。
嫉妬に醜く歪んだ幾つもの夜が、報われた気持ちになるなど異常だった。
異常だと、分かっていた。
それなのに……頬を伝う涙は、温かくルースの心を満たしていっていた。
「……馬鹿じゃ、ないの……」
愚かだ。
ルースもヘンリーも。
いつだって、この男にルースは勝てない。
男の手を取って、ルースは敗北を受け入れた。
金髪の男からは、赤い瓶を。
緑目の男からは、黒い瓶を。
あの時、ルースに提示されていた二つの未来は、どちらも破滅なのだと思っていた。
未だに、仲睦まじい国王夫妻を見て胸は騒ぐ。
それでも、自分を家族と呼んだあの時の男を思えば、微笑みが浮かぶ。
愛する男の幸せを純粋に祈るということが、ルースにはできなかった。
純粋には、なれない。
どうしても、苦いものは混ざる。
それでも、いつかもっと綺麗な目で、ヘンリーを見つめられる日がきっと来る。
ルースは奇妙な確信を抱く己を、小さく笑った。
読んでくださってありがとうございました!




