表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

敗北


 雪解けは日の当たる木立から始まった。

 冬の冴え渡る日差しとは違う、温度を伴った陽の光が、固く凍てついた雪の塊を溶かしていった。

 ルースの旅支度も、整った。

 母から森の民の生き方を学んでいたルースには、余計な荷物というものがない。

 だから最低限の、背中に負う荷物だけでどこにでも行けた。

 ――そこに森があれば。


 港は、王都にある。

 まずは王都を目指すべきだった。

 心がどれほど乱れても。


「……ありがと」

 太い木組みの頑丈な小屋に立って礼を言う。

 この逞しい小屋があることで、女一人でも森で生きていけた。

 森の民ではあっても、暖かい寝床を与えてくれるこの小屋は、得がたいものだった。


「――さよなら」

 小屋の中心に立つ、太い柱に額をつけて呟く。

 きっと、大陸に向けて旅立つ船の上では言えない。

 港に立ち、王宮に向けて言うことも、きっとできない。

 だから、今ここで。


「……ごめん」

 期待されていた役割は分かっていた。

 このまま、王の忠実な手駒であること。

 未だ治まりきらないこの国の統治に、森の民として力を貸すこと。

 王妃の身辺を……警護すること。


「ごめん、なさい」

 仲間だった。

 友だった。

 死線をくぐり抜け、信じ合っていた。

 彼らを、ルースは裏切ったのだ。


 ……不可能では、なかった。

 心を殺して務めを果たすことは、若いルースにも恐らくは可能だった。

 信頼に応えようと思えば、きっとできた。

 

 ルースの顔が歪む。

 頬を、涙が伝っていく。

 限界まで耐えようと思えばできたはずなのに、それを選ばなかったのはルースなのだ。

 最初から、手に入らない男と分かっていたのだから、もっと綺麗に諦めれば良かったのだ。

 王妃の良き友となり、王の忠実な臣下でいれば、あの温かい仲間の温もりは今でもルースを包んでいた。


「あの人の、大切な人なんて……傷つけるわけ、ないじゃない……」

 それでも、壊したかったのだ。

 ルースを盲目的に信じる男達に、自分の汚い感情を露わに示したかった。

 仲間の、恋する男の信頼を裏切り、傷つけることで……ルースの恋を、刻みたかった。

 この恋情を、なかったことにしたくはなかった。


 ルースの裏切りに、ヘンリーの瞳は明らかに傷つき、揺れていた。

 あの揺るがない男が、瞠目し、咄嗟に怒鳴りつけるほど揺れた。

 そのことが、体の奥から震えるほど嬉しかった。

「……最低な女……」


 あの傷は、ルースの物だ。

 あの男につけたあの傷は、ルースだけの物だ。

 あの瞬間があれば、それだけでもう、いい。

 ヘンリーの、傷ついた眼差しがこの胸に生きる限り……ルースの恋は、報われたのだ。

 いつか、かさぶたになって剥がれ落ちるその日が来るとしても。


 ルースは顔を上げる。

 涙を無造作に拭って荷物を背負う。

 小屋の扉に手をかけ、春の日差しに満ちる森へと、歩み始めた。




 王都からこの小屋には、獣道のような、ごく僅かな道ができている。

 平原の民には見分けられないだろう道は、だがルースの目には明らかだ。

 この小屋を作る際に踏み分けられたものだろう。

 年季の入った小屋の様子から見るに、もしかすると王家の避難場所のようなものだったのかもしれない。


 その道を行くこと僅か、ルースはすぐに足を止めた。

 目に入った光景が信じられなくて、無意識に足が後ずさる。

 気配を消して佇んでいただろう男の姿に、心が締めつけられる。

 そうだ、草原の民に、森の歩き方を教えたのはルースなのだ。


「――なんで……」

 物思いに耽るように目元を伏せていたその男は、ゆっくりと顔を上げた。

 その男の後ろに、もう一人。

 護衛のためだろう。

 厳ついその姿形は、ヘンリーに誰よりも忠実な騎士のものだ。


「……帰るぞ、ルース」

 なんでもないように男が放った言葉に、ルースは顔を歪める。

「……追放、されてる、から……」

 どうにか絞り出した言葉を、だが男は叩き落とす。

「取り消した。

 エイデン伯爵を追放した今、もうお前が泥をかぶる必要はない」


 どうでもいいことを考える。

 あぁ、あれほど権力に近づきたがっていた兄は、やはり取り除かれたのだ、と。

「ルース。帰るぞ」

 当然のように手を伸ばしてくる男に、鈍い動きで後じさる。


「……無理」

 意味が、分からない。

 今でも、巧妙に隠してはいたが、男の瞳の奥にはルースに対する警戒心のような熾火が踊っている。

 深い信頼を手ひどく裏切り、傷つけた。

 それなのに、この男は今もルースに手を伸ばしてくる。


「エリザベスは、忘れたと言っている。

 何もなかったと。

 ――ほら、帰るぞ」

 何でもないように……ルースの裏切りなどなかったように、熾火の踊る目を隠しながらルースに手を伸ばす(ヘンリー)に、ついにルースの叫びが音となる。


「――好きだった!

 憧れてた! 

 側にいたかった!」

 子供のように喚く。


「幸せになって欲しかった!

 あの人と幸せでいるのを見たくなかった!」

 声も涙も、止められない。

「――だから……だから……っ!

 もう、出て行く……っ」


「いいから。……帰るぞ」

 ヘンリーは、逸らしていた目をルースに当てた。

 熾火の踊る目は、にも関わらず奇妙に凪いでいた。

 爆発した感情は、涙とともに冷えて固まっていった。


「……そういう同情は、要らない」

 懐に入れた人間をどこまでも受け入れるような、大きな男だ。

 一度は裏切ったルースを再び懐に入れようとしているヘンリーに、ルースの頬は自嘲で歪んだ。

 同情され、腫れ物に触れられるような日常が容易く想像できた。

 そんな日々は……ごめんだった。


 ヘンリーは、取られない手を伸ばし続けていた。

 大きな掌を無防備にルースに晒して。

 そうして、言った。


「――お前の気持ちには応えられない。

 だからといって、お前の幸せを祈ってはならないのか」


 ルースは目を瞬いた。

 目の端に残った涙が、弾みでこぼれ落ちていった。

「――っは」

 嗤おうと、した。

 綺麗事でルースの激情を軽んじる男を、嘲り笑おうとした。

 

「幸せになってもらいたい。

 お前には」

 深い声だった。

 眼差しに乗る熾火は、柔らかくルースを暖めようとしていた。


「――いら、な、い……」

 幸せなど。

 未来も可能性も全て捨てて、この想いだけを温めて生きていこうとしている。

 だから、そんなものなど要らないのだ。

 要らないのに……何故、声が擦れるのだ……。


「お前は、俺の家族なのだ。

 昔も、今も。

 ――捨てられるわけが、ないだろう?」

 熾火が、柔らかく揺らめいた。

 

 こんな言葉の一つで、どうして救われた気持ちになるのだろう。

 嫉妬に醜く歪んだ幾つもの夜が、報われた気持ちになるなど異常だった。

 異常だと、分かっていた。

 それなのに……頬を伝う涙は、温かくルースの心を満たしていっていた。


「……馬鹿じゃ、ないの……」

 愚かだ。

 ルース(自分)ヘンリー(この男)も。

 いつだって、この男にルースは勝てない。

 男の手を取って、ルースは敗北を受け入れた。




 金髪の男からは、赤い瓶を。

 緑目の男からは、黒い瓶を。

 あの時、ルースに提示されていた二つの未来は、どちらも破滅なのだと思っていた。

 

 未だに、仲睦まじい国王夫妻を見て胸は騒ぐ。

 それでも、自分を家族と呼んだあの時の男を思えば、微笑みが浮かぶ。

 愛する男の幸せを純粋に祈るということが、ルースにはできなかった。

 純粋には、なれない。

 どうしても、苦いものは混ざる。

 

 それでも、いつかもっと綺麗な目で、ヘンリーを見つめられる日がきっと来る。

 ルースは奇妙な確信を抱く己を、小さく笑った。




読んでくださってありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ