第九十四章 先に一部を処理する
翌朝、安生は安順河の家へ向かった。
「覚えているか」とは聞かなかった。
いきなり尋ねた。
「六月十二日の朝。」
「沈川と周長順が話していたとき、親父はどこにいた?」
安順河は一瞬、戸惑った。
「なぜそんなことを聞く?」
「今、一番大事なのは、その後に二人がどう言ったかじゃない。」
「そのとき、実際に何を言ったのかだ。」
安順河はしばらく黙った。
それから庭の長椅子を指した。
「座れ。」
⸻
「その朝は、周長順が先に来た。」
「沈川は?」
「川辺にいた。」
「二人が会ったのはいつ頃?」
「辰の刻くらいだ。」
安生は紙を取り出した。
「俺を見て話してくれ。」
「そのとき、親父は二人からどれくらい離れていた?」
安順河は長いこと考えた。
「十歩もなかった。」
「間に誰かいた?」
「荷を運んでいる者が二人いた。」
「声を遮られたか?」
「いや。」
安生は書き留めた。
「話は聞き取れた?」
「普通の声なら聞こえた。」
「声を落としていたら?」
「聞こえない。」
安生は頷いた。
「じゃあ、本当に聞こえたことだけ言ってくれ。」
「補わなくていい。」
安順河は安生を見た。
「お前、だんだんお前の親父に似てきたな。」
安生は答えなかった。
⸻
「周長順は、最初に何を聞いた?」
安順河は目を閉じて記憶をたどった。
「たしか、南貨のことだった。」
「具体的には?」
「覚えていない。」
「『南貨を動かしていいか』だった?」
「それに近い。」
「それとも『沈家の荷を動かしていいか』だった?」
安順河は首を振った。
「そこまでは断言できない。」
安生はその言葉を書き留めた。
そして尋ねた。
「沈川は何と答えた?」
安順河は、さらに長く黙った。
「たしか……」
「先に処理する。」
安生が顔を上げた。
「それだけ?」
「俺が覚えているのは、それだ。」
「『一部』という言葉は?」
「その後に言ったような気がする。」
「確かか?」
「いや。」
安順河は首を振った。
「今になって思い返すと、『先に一部を処理する』だったような気がする。」
「だが、そのとき書き留めたわけじゃない。」
安生は筆を止めた。
「じゃあ、『一部』は確定にはできない。」
「ああ。」
⸻
安生は続けて尋ねた。
「『米と相殺する』という話は?」
「ない。」
「『王家』という言葉は?」
「ない。」
「『三包』は?」
「ない。」
「『二包』は?」
「ない。」
安順河は一つずつ首を振った。
安生が聞いた。
「じゃあ、『沈家の荷』という言葉は?」
安順河は少し考えた。
「周長順が言ったはずだ。」
「はず?」
「沈家のことに触れたのは覚えている。」
「聞いている途中で?」
「たぶん。」
「それとも、答えるときに?」
「分からない。」
安生はそれ以上追わなかった。
その一文に線を引いた。
⸻
しばらくして。
安順河がふいに言った。
「だが、一つだけ、はっきり覚えている。」
安生が顔を上げた。
「何?」
「沈川があとで俺に言った。」
「『まず帳面をはっきりさせろ』って。」
「いつ?」
「昼前後だった。」
「荷が動く前? それとも後?」
「それも分からない。」
安生は何も言わなかった。
安順河が安生を見る。
「お前、こんな話は全部役に立たないと思っているんじゃないか?」
「違う。」
安生は首を振った。
「むしろ逆だ。」
「今、一番役に立つのは、こういう確定できないところだ。」
⸻
安生は町へ戻った。
まず陸成安を訪ねた。
陸成安は店先で帳簿を日に当てていた。
安生を見ると、事件の進み具合を尋ねることもなく言った。
「また六月十二日のことか?」
「うん。」
「前にも言っただろ。」
「俺が言うのは、聞いたことだけだ。」
安生は腰を下ろした。
「周長順が沈川に尋ねていたのを聞いた?」
「一部だけな。」
「何と言っていた?」
「南貨を先に動かしていいか、と。」
「誰の南貨?」
「そこまでは言っていない。」
「沈川は?」
陸成安は眉を寄せた。
「直接『いい』とは言っていなかったと思う。」
安生は口を挟まなかった。
「たしか……」
「先に処理する。」
「それから?」
「全部は動かせない。」
安生の手が止まった。
「確か?」
「ほかの言葉よりは確かだ。」
「なぜ?」
「あのとき、俺も変だと思ったからだ。」
「周長順が聞いたのは、動かしていいかどうかだ。」
「沈川が答えたのは、『先に処理する』だった。」
「同じ意味じゃない。」
安生は頷いた。
「それなのに、どうして後になって『頷いた』になった?」
陸成安は安生を見た。
「周長順が、そう言ったからだ。」
「何と言った?」
「沈家のほうは、もう頷いた、と。」
「いつ?」
「午後だ。」
「『頷いた』であって、『同意した』ではない?」
「ああ。」
「じゃあ、なぜ後には皆が『同意した』と言うようになった?」
陸成安は少し笑った。
「人から人へ伝わる話は、短くなるんだ。」
「特に、こういう話はな。」
「誰もずっと元の言葉を繰り返すわけじゃない。」
「最後には、一つの結論だけが残る。」
「沈家が同意した、と。」
⸻
安生は紙の上に並んだ言葉を見つめた。
そして、もう一度並べ直した。
一つ目。
「南貨を先に動かしていいか。」
二つ目。
「先に処理する。」
三つ目。
「全部は動かせない。」
四つ目。
「沈家のほうは、もう頷いた。」
五つ目。
「沈家が同意した。」
六つ目。
「沈家は知っている。」
一見すると、どれも似ている。
だが、同じではない。
安生はふいに尋ねた。
「陸叔。」
「ん?」
「もし誰かに聞かれたら。」
「『先に処理する』は、『王家の米と相殺していい』と同じ意味なのか、と。」
陸成安はすぐには答えなかった。
しばらくして言った。
「そんなふうには計算できない。」
「なぜ?」
「途中の言葉が抜けているからだ。」
「何が?」
「どれだけ処理するのか。」
「誰に渡すのか。」
「何をするためなのか。」
「誰が決めるのか。」
「そういうことが、何もない。」
安生は陸成安を見た。
陸成安は続けた。
「だから、せいぜい証明できるのは。」
「沈川が、南貨の一部が処理されることを知っていた、というところまでだ。」
「その一言だけで。」
「その二包を王家の米と相殺することに同意した、とまでは証明できない。」
⸻
安生はそれを書き留めた。
そして尋ねた。
「では、周長順は?」
陸成安は首を振った。
「それは誰にも分からない。」
「わざと意味を広げたと思う?」
「分からない。」
「勘違いだったと思う?」
「それも分からない。」
「じゃあ、どちらの可能性がある?」
陸成安は安生を見た。
「お前はいま、俺に判断を求めているな。」
「そう。」
「なら、これだけだ。」
「証拠がないなら、判断しない。」
安生は少し笑った。
「俺もそう思う。」
⸻
午後。
安生は再び碼頭へ向かった。
赵德全を見つけた。
赵德全は古い木桶を修理していた。
安生は、あの六つの言葉を一つずつ伝えた。
「親父さんがあのとき聞いたのは、どれだ?」
赵德全は長いこと考えた。
「沈家のほうは、もう知っている。」
「確かか?」
「確かだ。」
「自分の耳で聞いた?」
「周長順がそう言うのを聞いた。」
「『知っている』だった?」
「それとも『同意した』?」
赵德全は黙った。
「今になって考えると。」
「知っている、だった気がする。」
安生は聞いた。
「じゃあ、どうして前はずっと『同意した』と言っていた?」
赵德全は俯いた。
「あとになって、皆がそう言うようになった。」
「俺も、そう覚えてしまった。」
「最初に聞いたのは?」
「知っている。」
安生は尋ねた。
「『米と相殺していい』とは言っていない?」
「言っていない。」
「『王家』は?」
「言っていない。」
「じゃあ、どうして後になって同意だと思った?」
赵德全は顔を上げた。
「翌日、王家の帳面に南布と米の相殺が記されていたからだ。」
「それで、前後の出来事をつなげた?」
「ああ。」
「自分の耳で聞いたからじゃない。」
「そうだ。」
⸻
安生は碼頭を離れた。
かなり歩いてから。
ようやく足を止めた。
自分はずっと、すべてを一本につなげる一言を探していたのだと気づいた。
だが、今のところ、そんな言葉はない。
あるのは、断片的な証言だけだった。
そして、その証言の間には。
はっきりとした空白がある。
沈川は言った。
「先に処理する。」
周長順は言った。
「沈家は知っている。」
老高は周長順の指示で荷を受け取った。
馬成は二包の荷を王家へ運んだ。
王家は周長順の話を受けて。
帳面にこう記した。
「南布三反、米一石と相殺。」
一つ一つの段階には、証人がいる。
一つ一つの段階には、記録もある。
だが、最も重要な一歩だけは。
誰にも証明できない。
誰が、この二包を米と相殺していいと決めたのか。
⸻
安生は住まいへ戻った。
すべての紙を、もう一度机の上に広げた。
もう「誰が嘘をついているのか」とは書かなかった。
代わりに、一行を書いた。
現在の証拠では、周長順が故意に嘘をついたとは証明できない。
その下に、もう一行。
沈川が米との相殺を明確に認めたとも証明できない。
そして三行目。
証明できるのは、周長順が「先に処理する」という言葉の範囲を、実際には王家との米の相殺まで広げて実行したことだ。
安生はしばらく見つめた。
そして、もう一行を書き加えた。
この一歩を誰が決めたのかは、なお証拠が必要。
筆を置く。
窓の外は、すでに暗くなっていた。
安平が戸を開けて入ってきた。
「まだ終わらないのか?」
「もう少しだ。」
「誰が間違っていたか、分かったか?」
安生は首を振った。
「まだだ。」
安平は机の上の紙を見た。
「じゃあ、お前はいったい何を調べている?」
安生はしばらく黙った。
「俺は前まで、ずっと思っていた。」
「誰か一人が嘘をついていると分かれば。」
「全部、はっきりすると思っていた。」
「今は?」
「今は違う。」
「時には、誰も最初から最後まで嘘をつく必要なんてないんだ。」
安平は安生を見た。
「どういう意味だ?」
安生は机の上の六つの言葉を指した。
「誰もが、自分が聞いた一部分だけを覚えている。」
「そこに、自分がもっとも納得できる部分を付け足していく。」
「最後には。」
「皆が、一見すると筋の通った話を持つことになる。」
安平は何も言わなかった。
安生は最後の紙をしまった。
「でも、その話が。」
「そのとき本当に起きたこととは限らない。」
⸻
夜。
安生は、もう一度、許文成が残した古い紙を取り出した。
そこには、ただ一行だけ書かれていた。
六月十二日、俺が記すべきことではない。
以前、安生はこの言葉を、許文成が帳面をつけたくなかったという意味だと思っていた。
だが今になって考えると。
別の意味もあるのかもしれない。
六月十二日。
あの日、誰かが許文成に記録するなと言った。
だが、誰が言ったのか。
なぜ言ったのか。
そして、記録されるはずだったのは何だったのか。
まだ答えはない。
安生は紙を再び机の上に置いた。
そして、明日調べる最初のことを書いた。
六月十二日の午前、許文成はどこにいたのか。
もし本当に、彼が記録していなかったのなら。
知らなければならない。
誰が、記録するなと言ったのか。




