第九十章 老高
安生は、その紙を机の上に置いた。
すぐには信じなかった。
かといって、疑いもしなかった。
ただ、見た。
「周掌柜、米一石半を借りる。飯場に記す」
その下に、二文字。
老高。
沈砚が尋ねた。
「赵叔。」
「この紙は、誰からもらったんです?」
赵德全は首を振った。
「もらったんじゃない。」
「昔、物を整理したときに挟まっていたんだ。」
「いつです?」
「ずっと前だ。」
「誰が書いたんです?」
「分からない。」
「そのとき、見ましたか?」
「見た。」
「どうして言わなかったんです?」
赵德全は少し黙った。
「その頃は。」
「みんな、ただ米の記録だと思っていたからな。」
安生が聞いた。
「じゃあ、どうして今になって思い出したんです?」
赵德全は机の上の紙を見た。
「お前がさっき、老高のことを聞いただろ。」
「それで思い出した。」
「この二文字を。」
「昔、見たことがあるってな。」
⸻
安生は紙を裏返した。
何も書かれていない。
「この紙は、もともとどこにあったんです?」
「飯場だ。」
「誰が保管していた?」
「孙福だ。」
「じゃあ、どうしてあなたのところに?」
「孙福が死んだあとだ。」
「俺があいつの荷物を整理するのを手伝った。」
「誰も欲しがらないものがあってな。」
「それを持って帰った。」
安生は頷いた。
これで、この紙がなぜ赵德全の手元にあるのかは説明できる。
だが、書かれている内容まで証明されたわけではない。
安生は聞いた。
「この紙が。」
「六月十一日のものだと、断言できますか?」
赵德全は首を振った。
「できない。」
「じゃあ、なぜそう思ったんです?」
「周掌柜と書いてある。」
「それに一石半だ。」
「お前がさっき言った数字と同じだからな。」
安生は何も言わなかった。
そこが問題だった。
数字が同じだからといって。
同じ取引だとは限らない。
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翌日。
安生は再び孙家へ向かった。
あの紙を、孙福の息子に見せる。
「見たことがあるか?」
男はしばらく紙を見つめた。
「親父の字に似ている。」
「確かか?」
「七、八割くらいは。」
「なぜ断言できない?」
「親父は昔、帳簿をつけていた。」
「ときどき、かなり雑に書くことがあった。」
「こういう小さな紙なら。」
「思いついたことを、そのまま書いていた。」
安生は聞いた。
「どうして『老高』と書いたんだ?」
孙福の息子は首を振った。
「分からない。」
「老高って、誰だ?」
「子供の頃に聞いたことがある。」
「碼頭で使い走りをしていた人だ。」
「周掌柜についていた。」
「何をしていた?」
「物を運んだり。」
「取りに行ったり。」
「ときどき、伝言もしていた。」
安生は尋ねた。
「王家から米を受け取る権限はあったのか?」
「そこまでは分からない。」
⸻
安生はもう一つ聞いた。
「俺の父親は、昔あいつを知っていたか?」
「知っていた。」
「父親は何と呼んでいた?」
「老高だ。」
「姓は?」
「みんな、そう呼んでいた。」
「じゃあ。」
「本当の名前すら、分からないのか?」
孙福の息子は頷いた。
「少なくとも、俺は知らない。」
安生はそれも記録した。
⸻
午後。
安生は老梁を訪ねた。
「梁叔。」
「老高を知っていますか?」
老梁は古い木箱を修理していた。
その名前を聞いた瞬間。
手が止まった。
「知っている。」
「姓は?」
「高だ。」
「本名は?」
「本当に知らん。」
「みんな老高と呼んでいた?」
「ああ。」
「周長順についていたのは、いつ頃から?」
「俺より前だ。」
「何をしていた?」
「使い走りだ。」
「荷物を運ぶ?」
「それもやる。」
「帳簿を取りに行くことも?」
「ときどきな。」
「伝言は?」
「それもある。」
安生は聞いた。
「周長順の代理として動くことはできた?」
老梁は首を振った。
「そう簡単には言えん。」
「なぜ?」
「周掌柜が、あいつに言わせることもある。」
「だが。」
「老高が自分で決めたことまで、周掌柜の決定とは限らん。」
安生はすぐに聞いた。
「例えば?」
老梁は少し考えた。
「荷主のことだ。」
「老高が勝手に決めることはできん。」
「米は?」
「米も同じだ。」
「だが、周掌柜から取りに行けと言われたなら。」
「相手も、たいていは渡す。」
安生は頷いた。
王家で起きたこととも、少しずつ噛み合ってきた。
⸻
「六月十一日。」
「老高を見ましたか?」
老梁は首を振った。
「覚えていない。」
「六月十二日は?」
「見た。」
「どこで?」
「東倉だ。」
「何をしていた?」
「荷物を取っていた。」
「何の荷物?」
「南貨だ。」
「何包?」
「分からん。」
安生は聞いた。
「臨牌は持っていた?」
老梁は少し黙った。
「持っていたかもしれん。」
「かもしれない?」
「あの頃は臨牌がいくつもあった。」
「そこまでは断言できん。」
安生はそれ以上聞かなかった。
こういうことは、急いで聞けば聞くほど。
曖昧な記憶が、確かな記憶に変わってしまう。
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夜。
安生と沈砚は、もう一度証拠を整理した。
沈砚が言った。
「少なくとも、一つは確認できる。」
「何だ?」
「老高は確かに周長順の人間だ。」
「使い走りをしていた。」
「そうだ。」
「六月十二日。」
「南貨が動いた現場にもいた。」
「そうだ。」
「そして六月十一日のあの紙にも。」
「老高の名前がある。」
「だが。」
安生が続けた。
「その紙が六月十一日に書かれたとは証明できない。」
「老高本人が米を取りに行ったとも証明できない。」
「まして、その米と南貨が関係していたとも証明できない。」
沈砚は頷いた。
「だから。」
「その日に老高がどこにいたのかを証明できる人間を探す必要がある。」
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二人は馬成を訪ねることにした。
老高の名前を聞くと。
馬成はすぐには答えなかった。
安生が聞いた。
「知っているのか?」
「知っている。」
「六月十二日。」
「お前に荷物を渡したのは、あいつか?」
「ああ。」
「臨牌を渡したのも?」
「ああ。」
安生は聞いた。
「六月十一日。」
「老高を見たか?」
馬成は首を振った。
「見ていない。」
「確かか?」
「その日は碼頭にいなかった。」
「どこにいた?」
「家だ。」
「証明できる人は?」
「いない。」
安生は頷いた。
「じゃあ、なぜ六月十二日のことは覚えている?」
「あの日。」
「あいつが、二包の荷物を王家へ運べと言った。」
「何と言った?」
「米と引き換えだ。」
「どれくらい?」
「一石。」
「誰の荷物だと言った?」
「何も。」
「沈家のものだとは?」
「言っていない。」
「周長順が米を借りているとは?」
「聞いていない。」
「じゃあ、その一石の米が。」
「周長順の借りだったと知っていた?」
馬成は首を振った。
「知らない。」
⸻
安生は聞いた。
「王家へ届けたあと。」
「老高は一緒に行ったか?」
「行っていない。」
「どこにいた?」
「分からない。」
「戻ってから、また会ったか?」
「会った。」
「いつ?」
「午後の遅い時間だ。」
「何と言った?」
「届いたかと聞かれた。」
「何と答えた?」
「届けた、と。」
「王家が荷を開けたか、と聞いた?」
「聞いていない。」
「中身が何だったか、とも?」
「聞いていない。」
安生は少し間を置いた。
「じゃあ、あいつが一番気にしていたのは何だ?」
馬成は長いこと考えた。
「牌だ。」
「何と言った?」
「こう言った。」
「牌は返してくれ、と。」
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安生は沈砚を見た。
沈砚も安生を見る。
その言葉は重要だった。
老高が気にしていたらしいのは。
王家が何を受け取ったのかではない。
臨牌が返ってきたかどうかだった。
だが。
それでも分かるのは行動だけだ。
動機までは証明できない。
⸻
その夜。
安生は、もう一度時系列を書き直した。
六月十一日。
王家の帳簿。
一石。
半石。
孙福の飯場の記録。
一石。
半石。
赵德全の古い紙。
「周掌柜、米一石半を借りる。飯場に記す。」
署名。
老高。
ただし。
この紙の日付は未確認。
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六月十二日。
老高が現れる。
馬成に南貨二包を渡す。
馬成が王家へ運ぶ。
開封する。
南布三反。
米一石と引き換え。
老高は臨牌を返すよう求める。
同じ頃、梁成も別の三包の荷物を運んでいる。
二つの経路。
現時点では、同じ荷物だったとは証明できない。
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安生は筆を置いた。
「沈砚。」
「ん?」
「今、少し思うことがある。」
「何だ?」
「老高は、本当にただの使い走りだったのかもしれない。」
沈砚は安生を見る。
「なぜそう思う?」
「あいつがやったことは。」
「どれも誰かの決定を実行しているように見える。」
「米を取りに行く。」
「荷物を運ぶ。」
「臨牌を持つ。」
「伝言をする。」
「そういうことはできる。」
「だが。」
「決めたのがあいつだったと証明できるものは、一つもない。」
沈砚は頷いた。
「今のところ、それが確認できる限界だな。」
安生は続けた。
「でも、もし本当に実行しただけなら。」
「誰かが教えたはずだ。」
「米をどこへ持っていくのか。」
「荷物をどこへ運ぶのか。」
「臨牌を誰に渡すのか。」
「それに。」
「なぜ南貨を動かしていいのか。」
沈砚は黙った。
「だから本当に調べるべきなのは。」
安生は机の上の紙を見る。
「老高が何をしたかじゃない。」
「誰が、そうしろと教えたのかだ。」
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その時だった。
外から声がした。
「安生。」
安平だった。
戸口に立っている。
手には古い布包みを持っていた。
「これは、親父が昔残したものだ。」
安生は受け取った。
「何だ?」
「分からない。」
「さっき古い棚を整理していたら。」
「一番下から出てきた。」
安生は布包みを開いた。
中に金はない。
手紙もない。
ただ一枚。
黒ずんだ木札が入っていた。
木札には三文字が刻まれている。
東倉七号。
安生はしばらく見つめた。
「倉札か?」
安平は頷いた。
「たぶん。」
沈砚が手に取る。
裏返す。
裏には、さらに小さな文字があった。
安生が顔を寄せる。
読み取った瞬間。
その顔色が、ゆっくり変わった。
そこに書かれていたのは、日付でも。
名前でもなかった。
たった四文字。
「六月十一、換。」
安生は顔を上げた。
部屋が静まり返る。
六月十一日。
また出てきた。
そして今度は。
米の帳簿でもない。
誰かの証言でもない。
本物の倉札だった。




