第九章 昔のこと
翌朝、安生はいつもより早く目を覚ました。
目を開けたまま、しばらく横になっていた。
隣の部屋では、もう誰かが起きている。
安平だった。
木工道具箱を開ける音がかすかに聞こえた。
中の道具が触れ合い、細かな音を立てている。
安生は服を着て、外へ出た。
安平は庭で顔を洗っていた。
「こんなに早く?」
安生が声をかける。
「眠れなかった」
「今日はばあちゃんのところへ行くんだろ?」
「午前中に行く」
安生は井戸のそばに立った。
少し考えてから、口を開いた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「昨日、趙徳全のことを言ったのって、父さんのことと関係あるのか?」
安平は顔を拭いた。
「どうして急にそんなことを聞く?」
「昨日の夜、二人が話してるのが聞こえた」
安平は弟を見た。
「どこまで聞いた?」
「よく聞こえなかった」
「じゃあ、気にするな」
安生はそれ以上聞かなかった。
しゃがんで手を洗う。
しばらくして、安平がふいに言った。
「お前、小さい頃、一度、川に落ちたことがあっただろ?」
安生は顔を上げた。
「そんなことあったか?」
「覚えてないのか?」
「覚えてない」
「七つか八つの頃だった」
安平は肩に手拭いを掛けた。
「父さんがお前を引き上げたんだ」
「なんで俺、何も覚えてないんだ?」
「二日間、熱を出してた」
安生は少し驚いた。
「本当に?」
「本当だ」
安平は笑った。
「あのとき、母さんはずっと泣いてたよ」
安生は黙った。
そのことについては、本当に何も覚えていなかった。
しばらくして、尋ねた。
「趙徳全も、そのときいたのか?」
安平の笑みが、ゆっくり消えた。
「どうしてまたあの人のことを聞く?」
「なんとなく」
安平は答えなかった。
母親が台所から出てきた。
「二人とも、そこで何してるの?」
「何でもない」
安平が答えた。
母親は安生を見る。
「早く朝飯を食べなさい」
⸻
朝食を済ませると、安平は母親と一緒に祖母の家へ向かった。
安生も一緒に行くつもりだった。
けれど門を出るところで、足を止めた。
「母さん」
「何?」
「今日は、ちょっと用がある」
母親は息子を見た。
「余計なことはするんじゃないよ」
「分かってる」
安生はそう言って、城南のほうへ歩き出した。
自分でも、なぜそこへ向かうのかは分からなかった。
ただ、昨夜聞いた言葉が頭から離れなかった。
――もう、何年も経ってる。
それに、今朝の安平の話。
川。
趙徳全。
父親。
これまで別々だったものが、少しずつ一つにつながり始めているような気がした。
⸻
城南へ着くと、魚屋の屋台はちょうど店を開けたところだった。
周叔が木桶に水を入れている。
安生を見ると、笑った。
「今日は早いな」
「うん」
「まだ金は揃ってないぞ」
周叔が先に言った。
安生は頷いた。
「いいよ」
「午後には必ず払う」
「分かった」
安生はその場を離れなかった。
周叔が彼を見る。
「まだ何かあるのか?」
「周叔、ちょっと聞きたいことがある」
「何だ?」
「趙徳全って、知ってる?」
周叔の手が止まった。
「知ってる」
「昔、波止場で働いてた人だよね?」
「ああ」
「父さんと一緒に?」
「一緒に働いたことはある」
安生は周叔を見つめた。
「二人は、どんな関係だった?」
周叔は少し考えた。
「昔は、まあ悪くなかった」
「その後は?」
「その後?」
周叔は小さく笑った。
「年を取れば、昔のことなんて、いちいち覚えてないよ」
安生は笑わなかった。
「何かあったんじゃないの?」
周叔はしばらく黙った。
「どうして急にそんなことを聞く?」
「兄ちゃんが昨日、あの人の名前を出した」
「お前の兄ちゃんが?」
「うん」
周叔は俯いて、魚を並べ直した。
「本当に知りたいなら、父さんに聞け」
「父さんは話してくれない」
「だったら、聞かないほうがいい」
安生は眉を寄せた。
「どうして?」
周叔は安生を見た。
「知ったからって、どうにかできることばかりじゃない」
安生は何も言わなかった。
その言葉は、どうにも胸に引っかかった。
しばらくそこに立っていたが、
「じゃあ、俺は行く」
と言った。
「気をつけてな」
安生は店を出た。
⸻
通りを抜けたところで、陳二が目に入った。
茶屋の前に立っている。
安生を見ると、手を上げた。
「こっちだ」
安生が近づく。
「なんでここにいる?」
「お前を待ってた」
「用があるのか?」
陳二は焼きたての餅を一つ差し出した。
「食え」
安生は受け取った。
「どこで買った?」
「買ったんだよ」
「いくらだった?」
「そんなこと聞くなよ」
安生は陳二を見る。
「ありがとな」
陳二は笑った。
「それでいいんだ」
二人は茶屋の外に腰を下ろした。
陳二が茶を一口飲む。
「昨日のこと、一晩考えた」
「何のこと?」
「お前が、俺は何でも話を大きくするって言っただろ」
安生は黙っていた。
「考えてみたら、確かに何回かあった」
「分かってるならいい」
「でも、一つだけ、お前が間違ってる」
安生は陳二を見る。
「何が?」
「人には、強く出ないと、本当に舐められることがある」
安生は頷いた。
「それは分かってる」
「じゃあ、なんで俺に言うなって言った?」
「言うなとは言ってない」
「同じことだろ」
安生は笑った。
「分かった。じゃあ、これからは言うべきだと思ったら言えばいい」
陳二も笑った。
二人の間にあった、わずかな気まずさが、また消えたようだった。
けれど陳二は、すぐに別のことを聞いた。
「お前、最近何か調べてるのか?」
安生は一瞬、言葉を失った。
「何を?」
「趙徳全」
安生は陳二を見た。
「なんで知ってる?」
「昨日、誰かに聞かれた」
「誰に?」
「知らない男だ」
安生は少し身を起こした。
「いつ?」
「昨日の夜」
「どこで?」
「通りの角」
「何を聞かれた?」
「お前が安家の人間かって」
安生は黙った。
「お前、何て答えた?」
「そうだって」
「それで?」
「そのまま行った」
安生は眉を寄せた。
「どんな奴だった?」
陳二は首を振った。
「よく覚えてない」
「お前、本当に何も覚えてないな」
「俺はお前じゃないんだよ」
陳二は笑った。
「でも、一つだけ覚えてる」
「何?」
「聞いたあと、そいつが一言言った」
安生は陳二を見る。
「『それなら、間違いない』って」
風が通りを吹き抜けた。
茶屋の店員が茶瓶を持って出てくる。
「お二人さん、もう一杯いかがです?」
安生は我に返った。
「悪い。もう一つ頼む」
「はいよ」
店員は店の中へ戻っていった。
陳二は安生を見る。
「本当に大丈夫か?」
安生は茶碗を持ち上げた。
「大丈夫だ」
一口飲む。
茶は少し苦かった。
⸻
午後、安生が家へ戻ると、父親が庭で古い腰掛けを直していた。
安生はしばらく横で見ていた。
「父さん」
「ん?」
「趙徳全って、昔、父さんと一緒に波止場で働いてたんだろ?」
父親の手が止まった。
「誰に聞いた?」
「俺が聞いた」
「なんであいつのことを聞く?」
「知りたいから」
父親は俯いて、再び腰掛けを直し始めた。
「昔、知ってた」
「その後は?」
「それぞれ別に働いてた」
「それだけ?」
父親は答えなかった。
安生は父親を見る。
「父さん」
父親が顔を上げた。
「お前には、関係のないことだ」
安生は怒らなかった。
ただ尋ねた。
「じゃあ、俺に関係してることなのか?」
父親の手が、空中で止まった。
庭が急に静かになった。
長い沈黙のあと、父親が言った。
「お前は、あの頃まだ小さかった」
安生は、それ以上聞かなかった。
それだけで十分だった。
しばらく立っていたが、やがて家の中へ戻った。
父親は息子の背中を見つめていた。
手にしていた鑿を、ゆっくり置いた。
⸻
夜、安平が祖母の家から戻ってきた。
家に入ると、安生は庭に座っていた。
「まだ寝てないのか?」
「うん」
安平は隣に座った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
やがて安生が尋ねた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「俺が小さい頃、川に落ちたときのこと、本当はどうだった?」
安平はすぐには答えなかった。
塀の向こうを見ていた。
「本当に知りたいのか?」
「うん」
安平は長い間、黙っていた。
「その年の夏、お前は何人かの子供たちと川へ遊びに行った」
「それから?」
「お前が川に落ちた」
「誰が助けた?」
「父さんだ」
「他には?」
安平は答えなかった。
安生は兄を見る。
「他に誰がいた?」
安平は俯いた。
「趙徳全だ」
安生は言葉を失った。
「あの人もいたのか?」
「うん」
「じゃあ、どうして俺に何も言わなかったんだ?」
安平は首を横に振った。
「分からない」
安生は、それ以上聞かなかった。
安平が立ち上がる。
「もう寝ろ」
「兄ちゃん」
「ん?」
「教えてくれて、ありがとう」
安平は弟を一度見た。
「たいしたことじゃない」
そう言って、家の中へ入っていった。
⸻
安生は一人、庭に座っていた。
ふと、子供の頃のことを思い出した。
一度、母親に聞いたことがある。
「どうして俺、水が怖いの?」
母親はそのとき、
「小さい頃、落ちたことがあるからよ」
とだけ答えた。
その後、安生は忘れていた。
今になって思い返してみると、あの出来事はまだ終わっていなかったのかもしれない。
少なくとも、自分が知らなかったことが、少しずつ戻ってきている。
⸻
その頃、城南では。
周叔が店を畳もうとしていると、通りの向こうに趙徳全が立っているのが見えた。
二人は人の行き交う中で、一度だけ目を合わせた。
どちらも近づかなかった。
趙徳全は背を向け、そのまま去っていった。
周叔はそこに立ったまま、姿が見えなくなるまで見送った。
やがて、小さな声で呟いた。
「もう、こんなに長いことになるのか……」
そう言って、最後の一匹を桶の中へ入れた。
木の蓋を閉める。
そして、店の戸に鍵を掛けた。




