↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/110

第十章 あの夏

翌朝、安生は波止場へ向かった。


父親について行ったのではない。


一人だった。


早朝の川面には、まだ薄い霧がかかっていた。


船が岸へ着くたび、杭に水が当たり、かすかな音を立てる。


趙徳全は荷を運んでいた。


安生を見ると、手を止めた。


「どうした、こんなところへ?」


「ちょっと話したい」


趙徳全は肩に担いでいた麻袋を下ろした。


「何だ?」


安生はその前に立った。


「俺、小さい頃に一度、川に落ちたことがあるのか?」


趙徳全はすぐには答えなかった。


「知ったのか?」


「兄ちゃんに聞いた」


趙徳全は頷いた。


「そういうことがあった」


「俺を助けたのは、叔父さんか?」


「お前の父さんと一緒に川へ入った」


「父さんは?」


「お前の父さんが先に飛び込んだ」


安生は少し驚いた。


「あの頃から、父さんの体は悪かったのか?」


「今ほどじゃなかった」


趙徳全は小さく笑った。


「お前の父さんは、若い頃はお前より頑固だったよ」


安生も少し笑った。


「それで?」


趙徳全の顔から笑みが消えた。


「それで、何だ?」


「どうして家の誰も俺に話さなかった?」


趙徳全は川面を見た。


「子供だったんだ。忘れたなら、それでいいと思ったんだろう」


「でも、みんな覚えてる」


趙徳全が振り返った。


安生は初めて気づいた。


普段は粗野に見えるこの老人の目に、自分には分からないものが浮かんでいる。


恐れているわけではない。


嫌っているようにも見えない。


ただ、話していいものかどうか、迷っているようだった。


「昔のことにはな……」


趙徳全はゆっくりと言った。


「お前の父さんが、お前には知られたくないと思ってることもある」


「どうして?」


「父さんに聞け」


「話してくれない」


「なら、もういいだろう」


安生は眉を寄せた。


「みんな、そう言う」


趙徳全は少し笑った。


「俺たちは、昔のことは昔のことだと思ってるからだ」


「でも、俺は知りたい」


趙徳全は答えなかった。


しばらくして、脇に置いてあった麻縄を手に取った。


「お前が川に落ちた日、川辺にいた子供は、お前一人じゃなかった」


安生が顔を上げた。


「他に誰がいた?」


趙徳全は麻縄を巻き直した。


「それは言えない」


「どうして?」


「人と約束したからだ」


安生は言葉を失った。


趙徳全は安生を見た。


「納得できないなら、俺を恨んでもいい」


「だが、人と交わした約束を、勝手に変えるわけにはいかない」


安生は黙った。


しばらくして、頷いた。


「分かった」


「話してくれて、ありがとう」


趙徳全は安生を一度見た。


「お前も、少しは分別がついてきたな」


安生は笑った。


「俺だって、そんなに悪い人間じゃない」


趙徳全は笑わなかった。


「悪いなんて言ってない」


その言葉に、安生は少し戸惑った。


趙徳全はまた麻袋を担ぎ上げた。


「帰れ」


「うん」


安生は数歩歩いたところで、足を止めた。


「趙叔」


「まだ何かあるのか?」


「その子は、その後どうなった?」


趙徳全の動きが止まった。


「誰のことだ?」


「さっき言った、川辺にいたもう一人の子供」


趙徳全は安生を見た。


今度は答えなかった。


ただ、


「家へ帰って、父さんに聞け」


と言った。


安生は、それ以上追わなかった。


そのまま波止場を離れた。


⸻


波止場を出ると、向こうから陳二と趙順が歩いてきた。


陳二が安生を見つけて声を上げる。


「安生!」


安生は足を止めた。


「お前ら、どうしてここに?」


「お前を探してた」


陳二が近づいてくる。


「昨夜、誰かが王記の米屋へ行った」


「誰が?」


「知らない」


「また俺のことを聞いたのか?」


「違う」


陳二は首を振った。


「今度は、お前の父さんのことだ」


安生の顔から笑みが消えた。


「何を聞いた?」


「お前の父さんが昔、波止場で働いていたかって」


安生はしばらく黙った。


「誰が聞いた?」


「昨日の男だ」


趙順が横から言った。


「俺には、揉め事を起こしに来たようには見えなかった」


安生は趙順を見る。


「どうしてそう思う?」


「本当に何かしに来たなら、こんなことだけ聞いて帰らないだろ」


安生は黙っていた。


趙順が続ける。


「それに、話し方もずいぶん丁寧だった」


陳二が鼻で笑った。


「丁寧なら悪い奴じゃないってのか?」


「そんなこと言ってない」


趙順は首を振った。


「ただ、王さんと揉めた様子はなかったってことだ」


安生は通りを行き交う人々を見た。


「行こう」


「どこへ?」


「王記だ」


三人は一緒に米屋へ向かった。


⸻


店へ着くと、王福が帳面をつけていた。


安生を見ると、慌てて立ち上がった。


「安兄貴」


安生は手を振った。


「その呼び方はやめてくれ」


王福は戸惑った。


「どうした?」


「聞いてると、どうにも落ち着かない」


王福は笑った。


「分かった」


安生は帳場の前に立った。


「昨日、誰か来たか?」


王福はすぐには答えなかった。


「誰に聞いた?」


「若い男だ」


「父さんのことを聞いたか?」


「そうだ」


「何を言ってた?」


王福は少し考えた。


「たいしたことは言ってない」


「ただ、お前の父さんが昔、波止場で働いていたかって聞かれた」


「それで、何て答えた?」


「知らないって言った」


安生は頷いた。


「そいつは何て言った?」


「『分かった』って」


「それで帰った?」


「ああ」


安生はそれ以上聞かなかった。


すると王福が、ふいに呼び止めた。


「安生」


「ん?」


「あの男、帰る前に一つだけ言った」


「何て?」


王福は声を落とした。


「『安順河がまだ生きているなら、もう隠れている必要はないと伝えてくれ』って」


安生は、その場に立ち尽くした。


何も言えなかった。


陳二が安生を見る。


「お前の父さん、誰かに金を借りてるのか?」


「知らない」


「じゃあ、昔、誰かと揉めたとか?」


「知らない」


陳二はまだ何か言おうとした。


だが安生は背を向けた。


「先に帰ろう」


三人は何も話さず、家へ向かった。


⸻


家の前まで来たところで、安生は中へ入らなかった。


門の外に立った。


家の中から、父親の咳が聞こえる。


母親が何か話している。


安平もいるようだった。


安生は戸を開けた。


三人が同時にこちらを見た。


母親が尋ねる。


「どうしたの?」


安生は父親を見た。


「父さんを訪ねてきた人がいる」


父親の顔色が変わった。


「誰だ?」


「分からない」


「何と言っていた?」


安生はすぐには答えなかった。


「『もう隠れている必要はない』って」


部屋の中が静まり返った。


父親の手にしていた茶碗が、机にかすかに触れた。


母親が父親を見る。


安平も何も言わなかった。


長い沈黙のあと、父親が尋ねた。


「若い男だったか?」


「うん」


「いくつくらいだ?」


「二十歳くらい」


父親は目を閉じた。


安生は初めて見た。


父親がこんな顔をするのを。


怒っているわけではない。


怯えているわけでもない。


まるで、忘れたと思っていたことを、突然思い出した人のようだった。


「父さん」


安生が尋ねた。


「あのとき、川で何があったんだ?」


父親は目を開けた。


「どうして、そこまで知りたい?」


「みんな知ってるのに、俺だけ知らないから」


父親は黙った。


安生は続けた。


「俺に関係のないことなら、もう聞かない」


「でも、今、家まで人が来た」


「だったら、俺にも関係がある」


父親は安生を見た。


長い沈黙のあと、言った。


「お前のことじゃない」


安生は反論しなかった。


ただ尋ねた。


「じゃあ、誰のことなんだ?」


父親は答えなかった。


そのとき、安平が立ち上がった。


「父さん」


父親が顔を上げる。


安平は言った。


「もう、これだけ時間が経ってる」


父親は俯いた。


「もう少し待て」


「いつまで?」


安平の声は大きくなかった。


けれど安生は、兄がこんなふうに父親に言うのを初めて聞いた。


父親は答えなかった。


安生は二人のそばに立ったまま、ふと気づいた。


これまで家族が自分に話してくれなかったことは、自分がまだ幼かったからだと思っていた。


だが、違った。


ただ、ずっと話さなかったのだ。


そして、もう何年も隠してきた。


窓の外で、空が少しずつ暗くなっていった。


川面には、また霧が立ち始めていた。


安生はふいに、趙徳全の言葉を思い出した。


――お前が川に落ちた日、川辺にいた子供は、お前一人じゃなかった。


初めて、安生は真剣に考えた。


あの日、いったい、他に誰がいたのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。