第十一章 返せない金
あの日から、安生は二日ほど趙徳全のところへ行かなかった。
聞きたくなかったわけではない。
父親の態度を見れば、話したくないということは分かっていた。
これ以上追及しても、聞き出せることはないだろう。
それに、家にはもっと差し迫ったことがあった。
父親の薬が、もうすぐなくなる。
母親が薬瓶を逆さにして振ってみる。
中に残っているのは、二錠だけだった。
「明日、買いに行かないとね」
父親は床に腰を下ろしていた。
「まだ薬はある」
「二錠だけだよ」
「二日分はある」
母親は何も言わなかった。
安生は戸口に立っていた。
「俺が買ってくる」
父親が顔を上げる。
「いい」
「俺が行く」
「お前、金はあるのか?」
安生は懐に手を入れた。
何も言わなかった。
ここ数日で集めた金の大半は、もう母親に渡していた。
残った数百文も、以前の博打の借金を返すのに使ってしまった。
父親が安生を見る。
「金がないなら、無理するな」
安生は頷いた。
「分かってる」
⸻
翌日、安生は城西へ向かった。
そこには一軒の反物屋がある。
主人は李という姓だった。
安生は以前、何度もこの店へ来ていた。
借金を取り立てに来たこともあれば、人を探しに来たこともある。
李の主人は安生を見ると、顔の笑みを少しだけ引っ込めた。
「安生か」
「李叔」
「今日は……」
「金を取りに来たんじゃない」
それを聞いて、李の主人は明らかにほっとした。
「そうか」
安生は店の中を見回した。
「三百文、貸してくれないか」
李の主人は目を丸くした。
「金を貸してほしい?」
「うん」
「お前……」
何か言いかけて、口を閉じた。
安生も急かさなかった。
しばらくして、李の主人が言った。
「貸したくないわけじゃない」
「分かってる」
「最近、商売もよくないんだ」
「それも分かってる」
「それなら……」
「父さんの薬を買うんだ」
李の主人は黙った。
安生を見る。
「ちょっと待ってろ」
そう言って、店の奥へ入っていった。
しばらくすると、二百文を持って戻ってきた。
「これしか出せない」
安生は金を受け取った。
「ありがとう、李叔」
「礼なんていい」
李の主人は手を振った。
「金ができたら返してくれ」
「うん」
安生は店を出ようとした。
そのとき、背後から声がした。
「父さん、こいつが?」
安生は足を止めた。
振り返る。
店の奥の戸口に、十六、七歳くらいの少年が立っていた。
李の主人の顔色が変わった。
「中へ入ってろ」
少年は動かなかった。
安生を見ている。
その目に恐れはなかった。
ただ、言葉にしにくい嫌悪があった。
安生には、その少年に見覚えがあった。
去年の冬、この店へ金を取りに来たことがある。
あの日、李の主人は、今は金を用意できないと言った。
安生は店にいた何人かの店員の前で、帳場の布を引きずり下ろし、床に投げ散らかした。
結局、李の主人は金をかき集めた。
そのときの安生は、自分が何をしたところで、たいしたことではないと思っていた。
借りたものを返さないなら、取り立てる。
それだけのことだと思っていた。
だが、今、目の前の少年を見て、ふと思い出した。
あの日も、少年はそこにいた。
戸口の陰に立ったまま、ずっと何も言わなかった。
安生は、なぜそんな目で自分を見るのか、聞かなかった。
ただ、
「李叔、俺はもう行くよ」
と言った。
李の主人は頷いた。
「気をつけてな」
安生は店を出た。
かなり歩いてから、手の中の二百文が、妙に重いことに気づいた。
⸻
昼頃、安生は薬を買った。
家へ戻ると、母親が飯を作っていた。
「もう帰ったの?」
「うん」
安生は薬を渡した。
母親は薬を見た。
「この金、どうしたの?」
「借りた」
「誰に?」
「李叔」
母親は少し驚いた。
「前に、あの人と揉めたことがあったでしょう?」
安生は頷いた。
「うん」
母親は、それ以上聞かなかった。
ただ薬を受け取った。
⸻
午後、陳二が安生を訪ねてきた。
「行こう」
「どこへ?」
「城北」
「何しに?」
「金を返してもらう」
安生は首を振った。
「お前一人で行け」
陳二は安生を見る。
「どうした?」
「何でもない」
「また変なこと考えてるのか?」
安生は答えなかった。
陳二が肩を叩く。
「行こうぜ」
「今日は行かない」
「どうして?」
安生は陳二を見た。
「家にいないと」
「お前、いつからそんなに家のことを気にするようになった?」
陳二は笑いながら言った。
安生は怒らなかった。
「父さんが具合悪いんだ」
「母さんに任せればいいだろ」
「母さんも疲れてる」
陳二は安生を見た。
しばらくして、
「分かった」
と言った。
「じゃあ、俺一人で行く」
「大事にするなよ」
「分かってる」
陳二は二、三歩歩いてから、振り返った。
「安生」
「ん?」
「本当に何かあったら、俺に言えよ」
安生は頷いた。
「分かった」
陳二が去ったあと、安生は門の前にしばらく立っていた。
ふと、李の主人の息子が自分を見ていた目を思い出した。
以前なら、そんなことは気にもしなかった。
誰に怖がられようが、誰に恨まれようが、誰に嫌われようが。
金さえ取れれば、それでよかった。
だが今になって、初めて気づいた。
金の勘定が済んだとしても、
それで全部が終わるわけではないことを。
⸻
夜、母親が食事を並べた。
父親は薬を飲み終えると、少し顔色がよくなった。
安生も席についた。
家族は静かに飯を食べた。
半分ほど食べたところで、父親がふいに尋ねた。
「その金、どこから出した?」
「借りた」
「誰に?」
「李の主人」
父親が眉を寄せる。
「もう、人から金を借りるな」
「どうして?」
「借りができる」
安生は俯いて、一口飯を口に運んだ。
「金は返す」
父親は何も言わなかった。
安生は続けた。
「借りも返す」
父親が顔を上げ、安生を見た。
それ以上は、何も言わなかった。
⸻
食事が終わると、安平が食器を片付けた。
安生は庭で手を洗っていた。
安平が出てきて、その横に立った。
「今日は誰に金を借りた?」
「李の主人」
「昔、お前……」
「うん」
「それでも貸してくれたのか?」
「二百文だけ」
安平は少し笑った。
「昔、あれだけ怖がらせたのに、貸してくれたんだな」
安生はしばらく黙った。
「だから、返さないと」
「たった二百文だぞ」
「分かってる」
安生は手を拭いた。
「でも、向こうは助けてくれた」
安平は弟を見た。
「お前も昔、人を助けたことはあるのか?」
安生は少し考えた。
「たぶん、ある」
「覚えてるか?」
「覚えてない」
安平は何も言わなかった。
すると安生は、ふと一つのことを思い出した。
子供の頃、近所の家の窓を割ったことがある。
父親が弁償した。
安平も自分を庇ってくれた。
そのときは、それが当たり前だと思っていた。
その後にも一度、他人の家の鶏を追い回して川へ入れてしまったことがある。
その家の人が父親のところへ来て、父親がまた金を払った。
その後、博打で借金を作ったときには、友人が代わりに保証してくれた。
そういうことを、安生は今までまともに考えたことがなかった。
誰にも助けてもらっていなかったからではない。
むしろ逆だった。
ずっと誰かが、自分の後始末をしてくれていた。
だから、自分のやったことの多くを、大したことではないと思っていたのかもしれない。
安生は庭に立ったまま、長い間動かなかった。
安平が尋ねる。
「何を考えてる?」
安生は首を振った。
「何でもない」
そう言って家の中へ戻ろうとした。
戸口まで来たところで、足を止める。
「兄ちゃん」
「ん?」
「なあ……」
安生は少し考えた。
「昔、自分が悪いことをしても、相手がもう何も言わなかったら、それで終わったことになるのかな」
安平はすぐには答えなかった。
「誰の話だ?」
「俺のこと」
安平は弟を見た。
「何をしたかによる」
「相手が何も言わなかったら?」
「何も言わなかったからって、起きなかったことにはならない」
安生はその場に立っていた。
安平は続けた。
「でも、過ぎたことをずっと抱えて、自分を責め続ける必要もない」
「じゃあ、どうすればいい?」
「返せるものは返す」
「返せないものは?」
「考えるんだ」
安平は安生の肩を軽く叩いた。
「返せないからって、借りてなかったことにはできないだろ」
安生は何も言わなかった。
その夜、安生は初めて、ずっと昔の小さな出来事を一つずつ思い返した。
覚えているものもある。
忘れてしまったものもある。
そして、自分が誰かを傷つけたことがあるのかさえ、分からないものもあった。
自分では、とっくに過ぎ去ったと思っていた人生が、
本当は、どこにも消えてはいなかったのだ。
ただ静かに、そこに残っていた。
いつか、誰かに思い出される日を待つように。




