↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/110

第十二章 昔の勘定

翌朝早く、安生は城東へ向かった。


そこに小さな雑貨屋があるのを覚えていた。


主人は孫という姓だった。


店は大きくない。軒先には干した唐辛子が何束か吊るされ、その脇には米を入れる木桶が二つ置かれている。


安生は店の前でしばらく立っていた。


「入らんのか」


孫掌柜が箒を手にして掃除をしていた。


安生を見ると、その手がわずかに遅くなった。


「孫叔」


「ああ」


安生は店の中へ入った。


「何を買う?」


「買い物じゃない」


孫掌柜が顔を上げる。


「じゃあ、何だ?」


安生は懐から紐でまとめた銭を取り出し、帳場の上に置いた。


「これ、返しに来た」


孫掌柜は目を丸くした。


「何の金だ?」


「去年、俺が持っていった米の分」


「もう払っただろう」


「その時に払ったのは米代だ」


安生は言った。


「そのあと、二斤持っていった。帳につけておいてくれって」


孫掌柜はしばらく考えていた。


「そんなこと、あったか?」


「あった」


「覚えてるのか?」


「最近、思い出した」


孫掌柜は帳場の上の銭を見た。


手を伸ばそうとはしなかった。


「もういい」


「どうして?」


「一年も前のことだ」


「それでも、俺の勘定だ」


孫掌柜は小さく笑った。


「お前、いつからそんな勘定をするようになった?」


安生は答えなかった。


孫掌柜は彼をしばらく見ていた。


やがて、銭を手に取った。


「分かった」


「ありがとう、孫叔」


安生が背を向けかけると、孫掌柜が呼び止めた。


「安生」


「ん?」


「あの頃、お前が米を持っていった時な。俺は、けっこうお前が怖かった」


安生は足を止めた。


「知ってる」


「今は?」


安生は少し考えた。


「今だって、たいして変わらないよ」


孫掌柜は声を上げて笑った。


「正直な奴だ」


安生も少し笑った。


「でも、これからは嫌だと言われたら、もう持っていかない」


孫掌柜は頷いた。


「そうしてくれ」


安生は雑貨屋を出た。


通りには、もう人が増え始めていた。


家には戻らず、そのまま城北へ向かった。


陳二が賭場の前で待っていた。


「どこ行ってた?」


「勘定を返してた」


「何の勘定だ?」


「昔のだ」


陳二は眉を寄せた。


「また誰かに金を借りたのか?」


「金じゃない」


陳二は安生を見た。


「お前、最近ほんとに変だぞ」


「どこが?」


「前は誰かが金を取り立てに来たら、それだけで鬱陶しがってた」


「それが今じゃ、自分から人のところへ金を持っていく」


「しかも、自分が借りた金でもない」


安生は笑った。


「放っておけよ」


陳二も笑った。


「分かった。放っておく」


そう言って、一枚の紙を差し出した。


「王掌柜からだ」


安生は受け取った。


紙には何行か書かれていた。


城北の米屋の勘定だった。


「来月また来てくれって」


安生は頷いた。


「分かった」


陳二は安生の顔を見る。


「今日は取りに行かないのか?」


「行かない」


「どうして?」


「来月って言ったんだから、待つ」


陳二は眉をひそめた。


「騙されてたらどうする?」


安生は紙を折った。


「その時は来月考える」


陳二はしばらく安生を見つめた。


「本当に変わったな」


安生も陳二を見る。


「人は変わるだろ」


「前のお前なら、そんなこと言わなかった」


「前は前だ」


陳二は、それ以上言わなかった。


二人は並んで歩いた。


路地の入口まで来たところで、十歳ばかりの男の子が突然、安生にぶつかった。


安生は反射的に手を伸ばし、少年の服をつかんだ。


少年の顔が、さっと青ざめる。


「ぼ、僕、わざとじゃない」


安生は手を放した。


「いい」


少年はうつむいたまま、走っていった。


陳二がその背中を見る。


「いつからそんなに気の長い男になった?」


「わざとじゃないんだから」


「昔のお前なら、わざとかどうかなんて関係なかっただろ」


安生は答えなかった。


二人はそのまま歩き続けた。


何十歩か進んだところで、安生がふいに足を止めた。


「陳二」


「ん?」


「お前、昔も俺の代わりにいろいろやったことがあるよな」


陳二は目を瞬いた。


「何のことだ?」


「俺が起こしたことだ」


「そんなの、いくらでもある」


陳二は笑った。


「自分で忘れたのか?」


「たぶんな」


「子供の頃、お前が喧嘩した時、俺が代わりに一発殴られただろ」


「そのあと、お前が人と縄張りを取り合った時も、俺が相手を探しに行った」


「それから……」


陳二の言葉が止まった。


「どうした?」


「いや」


安生は陳二を見る。


「言えよ」


「もういい」


「言え」


陳二はしばらく安生を見た。


それから言った。


「李家の犬、覚えてるか?」


安生は眉を寄せた。


「何の犬だ?」


陳二は小さく笑った。


「やっぱり忘れてる」


「何があった?」


「お前、あの頃酔っ払ってたんだ。石を投げて、あそこの犬に当てた」


安生の顔から、少しずつ笑みが消えた。


「そのあと、どうなった?」


「死んじゃいない」


陳二は言った。


「ただ、足が悪くなった」


安生はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。


「李家って、どこだ?」


「城西」


「今もそこに住んでるか?」


「たぶん、いると思う」


安生は何も言わなかった。


陳二が顔を見る。


「まさか、行くのか?」


「ちょっと見てくる」


「何年前の話だと思ってる?」


「知らない」


「七、八年は経ってるだろ」


「それなら、なおさら行ったほうがいい」


陳二は止めなかった。


ただ、言った。


「俺も行く」


「いい」


「どうして?」


「俺がやったことだから」


陳二は安生を見た。


「分かった」


安生は一人で城西へ向かった。


半刻ほどかけて、ようやく李家を見つけた。


庭の門は、いつの間にか一度取り替えられていた。


門の前に、一人の老婆が座っている。


安生は立ち止まった。


「すみません……」


老婆が顔を上げる。


安生を見る。


「誰を探してる?」


「ここには昔、黒い犬がいませんでしたか?」


老婆の顔がわずかに強張った。


「お前は……」


「俺は、安生です」


老婆の表情が変わった。


安生を長いこと見つめている。


「何をしに来た?」


安生は中へ入らなかった。


「昔、俺があなたの家の犬に石を投げました」


老婆は何も言わない。


「そのあと、どうなったのか聞きたくて」


老婆はうつむいた。


「死んだよ」


安生は立ったまま聞いた。


「いつですか?」


「次の年の冬だ」


「俺のせいですか?」


老婆が顔を上げる。


「お前は、どう思う?」


安生は答えられなかった。


老婆は彼を見る。


「あの年、足を折られてから、ずっとびっこを引いてた」


「そのうち寒くなって、傷が化膿した」


「一度、医者にも連れていった」


「でも、助からなかった」


安生はうつむいた。


「いくらかかりましたか?」


老婆は眉を寄せた。


「何が?」


「その時の治療費です」


「ずいぶん昔のことだ。誰が覚えてる」


「俺が払います」


老婆は安生を見た。


しばらくして、首を横に振った。


「もういい」


「どうして?」


「金を返しても、犬は戻ってこない」


安生は何も言い返さなかった。


老婆が立ち上がる。


「もう帰りな」


「分かりました」


安生は背を向けた。


数歩歩いたところで、老婆が後ろから呼んだ。


「安生」


振り返る。


「お前、子供の頃はこんな子じゃなかった」


安生は戸惑った。


「俺を知ってるんですか?」


「小さい頃、よくこの辺で遊んでたろ」


老婆は安生を見る。


「あの頃は、お兄さんも一緒だった」


安生は黙っていた。


「それから、お前は人とつるむようになった」


「だんだん、昔のお前とは違っていったよ」


安生はその場に立っていた。


しばらくして、言った。


「すみませんでした」


老婆は何も答えなかった。


安生はそのまま歩き出した。


路地を出ても、すぐには家へ帰らなかった。


通りの端に腰を下ろし、長いこと座っていた。


昔の安生にとって、「すまない」という言葉は簡単なものだった。


殴ってしまえば、謝ればいい。


金を間違えて取れば、謝ればいい。


誰かに迷惑をかければ、謝ればいい。


けれど、今日その言葉を口にした時、思っていたよりずっと重かった。


世の中には、謝るだけでは元に戻せないことがある。


起きてしまったことを、起きなかったことにはできない。


夕方、安生が家へ戻ると、母親が庭で野菜を選っていた。


「今日はどこへ行ってたの?」


「城西」


「何しに?」


安生は持っていた物を置いた。


「人に会ってきた」


母親は安生を見た。


それ以上は聞かなかった。


安生は隣に腰を下ろした。


しばらくして、口を開く。


「母さん」


「何?」


「俺、子供の頃、よく問題を起こしてた?」


母親の手が一瞬止まった。


「どうして急にそんなことを聞くの?」


「知りたい」


母親はうつむき、また野菜を選り始めた。


「子供の頃は、確かにやんちゃだったよ」


「ほかには?」


「いろいろあった」


母親は少し笑った。


「窓を割ったこともある。人の家の果物を勝手に取ったこともあるし、人と喧嘩もした」


安生は尋ねた。


「母さんが、全部代わりに弁償したの?」


母親はしばらく黙っていた。


「弁償できるものは、したよ」


安生は黙っている。


「できないものは?」


母親は顔を上げた。


「母さんにも分からない」


庭は静かだった。


安生はうつむいた。


「これからは、もう俺の代わりに弁償しなくていい」


母親は驚いたように安生を見る。


「どうして?」


「俺のことは、俺が始末する」


母親は安生を見つめた。


しばらくして、静かに頷いた。


「分かった」


日が暮れかけた頃。


安生は門のところまで歩いた。


通りの向こうを、一人の若い男が通り過ぎていく。


二人はすれ違った。


若い男は足を止めなかった。


安生は振り返って、その背中を見た。


この男が誰なのか、安生には分からない。


なぜ自分の父親のことを尋ね続けているのかも分からない。


それでも、今度は追いかけなかった。


人の秘密を知る前に。


自分にはまだ、片づけきれていない昔の勘定が、いくつも残っている。


そう思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。