第十三章 兄弟
祖母の誕生日は月末だった。
家では二日前から、少しずつ支度が始まっていた。
母は肉を買い、米粉の餅を一鍋蒸した。
安平が外から戻ってきた時、その手には新しい布が一反あった。
「ばあちゃんに?」
安生が尋ねる。
「ああ」
安平は布を机の上に置いた。
「古い着物の袖口が、もう擦り切れてるからな」
母が布を見る。
「高いものを買わなくてもいいのに」
「たいした金じゃない」
「お前だって、外で金が要るだろ」
「分かってる」
安生はそばに立っていた。
ふと思いついて尋ねる。
「兄ちゃん、これからも木工を続けるの?」
安平は頷いた。
「もちろん」
「じゃあ、今回はいつまでいる?」
「ばあちゃんの誕生日が終わったら、また戻る」
安生は何も言わなかった。
母が横から口を挟む。
「せっかく帰ってきたんだから、何日かは兄ちゃんと喧嘩しないでよ」
「俺がいつ喧嘩したよ」
「子供の頃は、少なくなかっただろ」
母が笑う。
安平も笑った。
安生は口を尖らせた。
「昔のこと、みんなよく覚えてるよな」
「お前が騒ぎを起こしたことが多かったからだよ」
母はそう言って、また料理に戻った。
安生は言い返さなかった。
昼食を終えると、安平が安生を呼んだ。
「ちょっと木材屋まで付き合え」
「何するんだ?」
「受け取るものがある」
二人は家を出た。
安平は歩くのが早かった。
安生はその後ろを歩く。
「兄ちゃん」
「ん?」
「昔、なんで木工を覚えたの?」
安平は少し考えた。
「別に、理由なんてない」
「好きだった?」
「そういうわけでもない」
「じゃあ、なんで?」
「何か仕事をしないとな」
安生は笑った。
「兄ちゃんは子供の頃から、俺より物分かりがよかったよな」
安平は安生を見る。
「そうでもない」
「お前がいつも騒ぎを起こしてたから、そう見えただけだ」
安生も少し笑った。
木材屋に着くと、安平は店の中へ入って主人と話し始めた。
安生は外で待っていた。
しばらくすると、通りの角から一人の若い男が歩いてきた。
安生はその姿を見て、足を止めた。
あの男だった。
数日前、王福に尋ね、陳二にも話を聞いた男。
若い男も安生に気づいた。
今度は避けなかった。
まっすぐこちらへ歩いてくる。
「安生か?」
安生は頷いた。
「俺に用か?」
「前にも探した」
「何のために?」
若い男は木材屋のほうを見た。
「兄さんが中にいるのか?」
「ああ」
「会いたい」
安生は男の前に立った。
「その前に、お前が誰なのか教えてくれ」
若い男はしばらく黙っていた。
「沈砚という」
安生は眉を寄せた。
聞いたことのない名前だった。
「兄ちゃんに何の用だ?」
「聞きたいことがある」
「何を?」
沈砚は答えなかった。
「知らないと言ったら?」
「また別の日に来る」
安生は男を見つめた。
「お前、いったい何をしようとしてる?」
沈砚はしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「お前の父親は、昔、川辺で一人の人間を助けた」
安生の胸が動いた。
「誰だ?」
「俺だ」
安生は言葉を失った。
若い男を上から下まで見る。
二十そこそこにしか見えない。
何年も前に川へ落ちた人間だとすれば、年齢が合わない。
「お前が?」
「今の俺じゃない」
沈砚は言った。
「子供の頃の俺だ」
安生は黙った。
その時、木材屋から安平が出てきた。
沈砚の姿を見た途端、顔色が変わった。
「どうしてここに来た?」
沈砚は安平を見る。
「一つ、聞きたいことがある」
安平は答えない。
安生は二人の間に立った。
「兄ちゃん、こいつを知ってるのか?」
「知ってる」
「いつから?」
安平は安生を見る。
「家に帰ってから話す」
安生は動かなかった。
「ここで話せよ」
安平が眉を寄せる。
「安生」
「こいつ、親父が助けたって言ってる」
安平は黙った。
沈砚が口を開く。
「お前の父親だけじゃない」
安生は沈砚を見る。
「ほかに誰がいた?」
沈砚は答えなかった。
ただ、安平を見ていた。
「今日は、何かを責めに来たんじゃない」
「じゃあ、何しに来た?」
「一つだけ、はっきりさせたい」
沈砚の声は静かだった。
「当時、俺の父親がなぜ死んだのか」
安生は呆然とした。
安平の顔色が変わった。
「沈砚」
「話したくないのは分かってる」
沈砚は続けた。
「でも、俺はもう二年調べてきた」
「このことは、いつか誰かが俺に話さなきゃならない」
安平は何も言わなかった。
沈砚は安生を見る。
「お前は知らないのか?」
「何も知らない」
「なら、父親に聞いたほうがいい」
それだけ言うと、沈砚は背を向けた。
安生はその背中を見つめた。
姿が見えなくなってから、ようやく振り返る。
「兄ちゃん」
安平は答えなかった。
「知ってるんだな」
「……ああ」
「こいつの父親も知ってる?」
「知ってる」
「だったら、なんで俺に言わなかった?」
安平はうつむいた。
「親父が言うなって」
安生は苛立った。
「また親父かよ」
「じゃあ、どうしろっていうんだ?」
安平が初めて声を荒らげた。
「全部お前に話せばいいのか?」
「そうだ」
「それで、どうする?」
「どうするって?」
「知ったあと、お前は何をする?」
安生は言葉に詰まった。
安平は安生を見た。
「昔のお前は、何でもはっきりさせたがっただろ」
「はっきりさせて、その先はどうする?」
「人を探して、勘定をつけに行くのか?」
安生は黙った。
「お前は今、自分が昔何をしたのかだって、まだ全部分かってない」
安平は言った。
「それなのに、どうして他人のことまで知れば、自分でうまく始末できると思う?」
その言葉は、冷たい水を浴びせられたようだった。
安生はその場に立ち尽くした。
しばらく、何も答えられなかった。
安平は背を向け、家へ向かった。
「兄ちゃん」
安平が足を止める。
安生は尋ねた。
「兄ちゃんは、俺が何をやっても駄目だと思ってるのか?」
安平は振り返らなかった。
「昔は、そう思ってた」
安生の顔が強張る。
「じゃあ、今は?」
安平はしばらく黙っていた。
「今は、分からない」
そう言って、また歩き出した。
安生は一人、通りに残された。
初めて、兄の後を追わなかった。
昔の安生は、兄が嫌いだった。
父親がいつも兄と自分を比べるからだ。
けれど、本当に苦しかったのは、兄のほうが自分より物分かりがよかったことではなかったのかもしれない。
これだけ長い年月が過ぎても。
兄でさえ、まだ自分なら物事をきちんと始末できると、本当には信じていない。
そう思うと、胸の奥が重かった。
夕方、安生が家へ戻ると、父親が庭に座っていた。
安平はすでに戻っている。
母は台所で夕飯の支度をしていた。
安生は父親の前まで行った。
「父さん」
「ああ」
「沈砚が来た」
父親は何も言わなかった。
「自分の父親が死んだって言ってた」
父親の手が、ゆっくり止まった。
安生は父親を見る。
「お前、あいつの父親を知ってるんだな」
「知ってる」
「どうして死んだ?」
父親は答えなかった。
安生は、昔のように問い詰めなかった。
ただ言った。
「誰かの代わりに、勘定を取りに行きたいわけじゃない」
父親が顔を上げる。
「じゃあ、何がしたい?」
安生はしばらく黙っていた。
「知りたい」
父親は安生を見る。
安生はもう一言、付け加えた。
「もし、このことが俺たちの家と関係しているなら、俺は少なくとも知っておきたい」
庭は静かだった。
長い沈黙のあと、父親がようやく口を開いた。
「飯を食ったら、少し話す」
安生は、父親が受け入れるとは思っていなかった。
小さく頷いた。
「分かった」
台所から母の声が聞こえた。
「ご飯できたよ」
父親は立ち上がった。
二歩ほど歩いたところで、ふと足を止める。
「安生」
「ん?」
父親が振り返る。
「一つ、先に覚えておけ」
「何?」
父親は安生を見た。
「あの時、川にいたのは、一人じゃない」
安生はその場に立ち尽くした。
父親はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、家の中へ入っていった。
安生は庭に残った。
今度は、追いかけて聞こうとはしなかった。
いくつかのことが、ようやく語られ始めたのだと分かったからだ。
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