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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第十四章 川の水

夕食を終えると、母は食器を片づけた。


安平は自分の部屋へ戻らず、居間に座ったままだった。


手には茶碗を一つ握っている。


安生は父親の向かいに座った。


父親は長いこと黙っていた。


やがて、口を開いた。


「その年、お前は七つだった」


安生は頷いた。


「夏だった」


「ああ」


「その日、お前は何人かの子供と川へ遊びに行った」


父親はうつむいたまま話した。


「渡し場の下まで行った」


「そこは流れが速かった」


安生は黙って聞いていた。


「それで、お前が足を滑らせて川へ落ちた」


父親は一度言葉を切った。


「俺はその時、波止場で荷を運んでいた」


「誰かが叫んだ。それで駆けつけた」


安生が尋ねる。


「趙徳全もいた?」


「ああ」


「沈砚の父親は?」


父親はすぐには答えなかった。


「……いた」


安生は眉を寄せた。


「名前は?」


「沈川」


その名前を、安生は初めて聞いた。


父親は続けた。


「その時には、お前はもうかなり流されていた」


「俺が川へ飛び込んで、お前をつかもうとした」


「趙徳全も横から入った」


「沈川も入った」


安生は黙って聞いていた。


「最後に俺を引き上げたのは、父さん?」


「ああ」


父親は答えた。


「だが、あの二人がいなければ、俺も戻ってこられなかった」


安生は何も言わなかった。


「そのあと、どうなったの?」


父親の声が低くなった。


「お前を引き上げたあと、沈川は戻ってこなかった」


部屋の中が静まり返った。


安生は呆然とした。


「どういうこと?」


「死んだ」


安生は父親を見る。


「俺を助けたから?」


父親は答えなかった。


今度は安平が口を開いた。


「そんな簡単な話じゃない」


安生は兄を見る。


安平は静かに言った。


「その時、川には貨物船が一隻いた」


「流れに押されて、お前が船のそばまで流された」


「沈川がお前を引き寄せようとした」


「その時、船の綱が突然切れた」


「沈川は流された」


安生は尋ねた。


「それで、どうして死んだの?」


「岩にぶつかった」


父親が答えた。


安生はうつむいた。


長いこと、何も言わなかった。


「だから、沈砚はずっとこれを調べてるの?」


父親が頷いた。


「お前のせいだと思っている」


安生は顔を上げた。


父親は安生を見る。


「間違ってはいない」


安生は固まった。


「どういう意味?」


「お前を助けるためでなければ、沈川は川に入らなかった」


安生の顔色が少しずつ変わった。


「でも……」


「分かってる」


父親が遮った。


「お前は七つだった」


「何も知らなかった」


安生は黙っていた。


母が台所の入口に立っていた。


手にはまだ布巾を持っている。


母は安生を見る。


「父さんは、あのことをずっと沈家に申し訳ないと思ってる」


安生が尋ねた。


「じゃあ、どうして俺に言わなかったの?」


母は答えなかった。


父親が言う。


「お前は子供だったからだ」


「言ったところで、何ができる?」


「自分のことさえ、まだろくにできなかった」


安生はうつむいた。


その言葉に、腹は立たなかった。


反論もできなかった。


七歳の自分に、何ができたというのか。


「沈砚は、どうして今になって来たの?」


父親が答える。


「昔は知らなかったんだろう」


「じゃあ、どうやって知った?」


「大きくなって、自分で調べた」


「何を調べたの?」


「お前のところまで辿り着いた」


安生は黙った。


「だから、俺に勘定をつけに来たの?」


「分からん」


父親は首を横に振った。


「だが、俺は沈家に一つ、人の命を借りたままだ」


安生は顔を上げた。


「父さんだって、俺を助けたじゃないか」


父親は安生を見る。


「それとは別だ」


「違う」


安生が言った。


「父さんがあの時助けなかったら、俺も死んでた」


「だから、沈川が俺を助けたことと、俺がその命を借りていることは、同じ話じゃない」


安生には、その意味がすぐには分からなかった。


父親も、それ以上は説明しなかった。


代わりに安平が言った。


「父さんが言いたいのは、人の命をそういうふうに勘定できないってことだ」


安生はうつむいた。


しばらくして尋ねる。


「じゃあ、沈川の家には?」


父親が答えた。


「あとでいくらか金を渡した」


「誰が?」


「波止場のほうで」


「それで足りた?」


父親は答えなかった。


安生は父親を見る。


「父さんも、足りないと思ってる?」


「金で何が埋められる」


父親の声は低かった。


「人が一人いなくなれば、その家から一人減るんだ」


安生は、それ以上何も言わなかった。


ふと、子供の頃のことを思い出した。


あの日、目を覚ました時、母はずっと枕元にいた。


父親は戸口に座っていた。


兄は小さな飴を一つ、安生の手に握らせた。


あの時、安生が覚えていたのは、飴が甘かったことだけだった。


けれど、自分が眠っている間に。


あの日を境に、二度と家へ帰らなかった人がいた。


安生は長いこと座っていた。


やがて尋ねた。


「沈砚は、俺を恨んでるのかな」


父親は答えなかった。


「俺だったら、たぶん恨むと思う」


母がそばへ歩いてきた。


「安生」


「ん?」


「七歳だったお前に、全部の責任を背負わせなくていい」


安生は母を見る。


「でも、俺が原因だったのは確かだ」


「そうだね」


母は否定しなかった。


「でも、お前が原因だったことと、全部がお前のせいだということは違う」


安生は黙った。


初めて分かった。


世の中には、「どちらが正しいか」「どちらが悪いか」という言葉だけでは片づけられないことがある。


一人の子供が川に落ちた。


その子を助けようとして、一人の男が死んだ。


生き残った者は、そのことを背負って長い年月を生きる。


そして、死んだ者の家族もまた、その日を背負って生きていく。


誰にも、あの日をやり直すことはできない。


夜。


安生は一人、庭に座っていた。


安平が出てきた時も、まだ部屋へ戻っていなかった。


「まだ考えてるのか?」


「ああ」


「分かったか?」


「分からない」


安平は安生の隣に座った。


安生が尋ねる。


「兄ちゃん」


「ん?」


「どうして、あの時ずっと俺に言わなかった?」


「父さんが言うなって」


「兄ちゃん自身は?」


安平はしばらく黙っていた。


「お前が知ったら、自分が人を死なせたと思うんじゃないかって怖かった」


安生は何も言わない。


「お前は子供の頃から、よく騒ぎを起こした」


「もしあのことまで知ったら……」


安平は首を振った。


「今のお前とは、違う人間になってしまう気がした」


安生は苦笑した。


「でも、今だって、たいしていい人間じゃない」


「少なくとも、お前は変わり始めてる」


安生は兄を見る。


「そう思う?」


「分からない」


安平は言った。


「でも、昔のお前なら、あんな昔の勘定を返しには行かなかった」


安生はうつむいた。


「兄ちゃん」


「ん?」


「沈砚が俺を探しに来たら、どうすればいい?」


安平は安生を見る。


「まず、話を聞け」


「そのあと?」


「そのあとで考えればいい」


安生は頷いた。


「分かった」


夜は少しずつ深くなっていった。


家の中では、皆もう眠っている。


安生は布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。


父親の言葉が、何度も頭の中に浮かんだ。


人の命は、そんなふうに勘定できない。


そして、沈砚のことを思った。


幼い頃から、父親の死を背負って生きてきた人間。


安生は初めて思った。


人の人生は、自分がしたことによっても、しなかったことによっても、大きく変わることがある。


たとえ、その時の自分が何も知らなかったとしても。


起きたことまで、なくなるわけではない。


安生は目を閉じた。


窓の外から、川の音が聞こえてくる。


一度。


また一度。


まるで、あの夏の日からずっと。


川だけが、何も知らずに流れ続けているようだった。

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