第八十六章 馬姓の男
安生は、すぐには馬成のところへ行かなかった。
先に王家へ向かった。
「王叔。」
「もう一度、思い出してほしい。」
「お父さんが言っていた、馬姓の男のことだ。」
「布を届けに来たのか。」
「それとも、ただ米屋に来ただけなのか。」
王福はしばらく考えた。
「布を届けに来た。」
「確かか?」
「これは、たぶん確かだ。」
「なぜ?」
「親父がそう言っていた。」
「その男は荷物を門口に置いた。」
「それから聞いたんだ。」
「ここですか、と。」
安生が聞いた。
「周長順のことを言っていたか?」
「言っていた。」
「何と言った?」
「こう言った。」
「周掌柜に頼まれて、持ってきた、と。」
安生はうなずいた。
「その男は臨時札を持っていたか?」
王福は首を振った。
「親父は記録していない。」
「二人いたか?」
「たぶん、一人だ。」
「たぶん?」
「親父が覚えていたのは一人だけだ。」
安生は、それ以上聞かなかった。
⸻
王家を出ると、
馬成のところへ向かった。
馬成は木板を鉋で削っていた。
安生を見ると、
「また来たのか?」
「聞きたいことがある。」
「六月十二日。」
「お前は王家へ行ったか?」
馬成の手が止まった。
「行った。」
安生は彼を見た。
「確かか?」
「確かだ。」
「いつ?」
「午後だ。」
「一人で?」
「そうだ。」
安生は、すぐには王家で聞いた話を伝えなかった。
ただ聞いた。
「何をしに行った?」
「物を届けに。」
「何を?」
「布だ。」
安生は黙った。
「何反?」
馬成は眉を寄せた。
「分からない。」
「数えなかった?」
「数えていない。」
「じゃあ、どうして布だと分かった?」
「運んだからだ。」
「包んであった?」
「そうだ。」
「どこへ届けた?」
「王家だ。」
安生は彼を見た。
「誰に頼まれた?」
馬成は黙った。
「言え。」
「周掌柜だ。」
「周長順?」
「そうだ。」
「どうして今まで言わなかった?」
「前は聞かれなかった。」
安生は一瞬、言葉を失った。
「聞いただろう。」
「その時お前が言ったのは、」
「梁成と茶屋へ行ったこと。」
「紙を見たこと。」
「それから、梁成が三包の荷を持っていくのを見たことだけだ。」
馬成はうつむいた。
「布を届けたことは聞かれなかった。」
安生は彼を見た。
「じゃあ、今聞く。」
「なぜ午後にもう一度、王家へ行った?」
馬成は答えた。
「周掌柜に行けと言われた。」
「何と言われた?」
「物を届けろ、と。」
「米と引き換えだと言ったか?」
「言った。」
「どれくらい?」
「一石だ。」
安生は眉を寄せた。
「三反?」
「分からない。」
「開けなかった?」
「開けていない。」
「じゃあ、どうして一石だと分かった?」
「周掌柜がそう言った。」
⸻
安生は紙を取り出した。
「前に言ったな。」
「六月十二日、お前は梁成と茶屋へ行った。」
「そうだ。」
「そのあと、別れた?」
「そうだ。」
「どこへ行った?」
「埠頭だ。」
「それから?」
「周掌柜に物を届けろと言われた。」
「何時ごろ?」
「午後だ。」
「具体的には?」
「分からない。」
「三包の荷のあとか?」
「そうだ。」
「梁成が荷を持っていくのを見たか?」
「見た。」
「じゃあ、お前が持っていった物は、」
「梁成が持っていった三包と同じものか?」
馬成は首を振った。
「分からない。」
「お前は彼が三包持っていくのを見た。」
「そのあと、お前自身も別の布を運んだ。」
「そうだ。」
「その二つの荷は、」
「同じ場所から出たのか?」
「分からない。」
「どこで受け取った?」
「西のほうだ。」
安生が顔を上げた。
「西倉?」
「たぶん。」
「確かか?」
「西側だったのは覚えている。」
「具体的に西倉だったかは、」
「断言できない。」
安生はうなずいた。
⸻
「荷を受け取った時、」
「誰から渡された?」
「周長順のところの人間だ。」
「名前は?」
「老高だ。」
安生の手が止まった。
「また老高か?」
「そうだ。」
「何を渡された?」
「二包だ。」
安生は馬成を見る。
「二包?」
「そうだ。」
「布か?」
「たぶん。」
「分からないと言ったのに、」
「なぜまた、たぶんなんだ?」
馬成は苦笑した。
「開けていないからだ。」
「触った感じでは布みたいだった。」
安生は訂正しなかった。
そのまま続けた。
「二包。」
「王家へ届けた。」
「そうだ。」
「梁成の三包も、」
「王家だったのか?」
「本人からはそう聞いた。」
「お前自身、見たのか?」
「見ていない。」
⸻
安生は紙をしまった。
「つまり、今のところ。」
「少なくとも確認できるのは、」
「六月十二日の午後、お前が確かに一度、王家へ物を届けたこと。」
「そうだ。」
「二包。」
「そうだ。」
「中身が具体的に何だったかは分からない。」
「そうだ。」
「だが、周長順から、」
「この荷は米一石と引き換えだと言われた。」
「そうだ。」
安生はうなずいた。
「じゃあ、王家の帳簿にある三反の南布は、」
「お前が届けたものだった可能性がある。」
馬成は首を振った。
「可能性じゃない。」
「なぜ?」
「覚えている。」
「俺が届けた時、」
「王家の人が言った。」
「三反か、と。」
「俺は言った。」
「分からない、と。」
「それから向こうが自分で包みを開けて、」
「三反の布だと言った。」
安生がすぐに顔を上げた。
「誰が開けた?」
「王福の親父だ。」
「お前は実際に見たのか?」
「見た。」
「なら、」
「お前が運んだ二包の中身が、」
「三反の南布だったと確定できるのか?」
馬成はうなずいた。
「そうだ。」
安生は何も言わなかった。
ようやく、
王家の帳簿に残っている三反の布に、
具体的な運び手がついた。
⸻
だが、安生はそれをすぐに梁成の三包の荷と結びつけなかった。
代わりに聞いた。
「布を運ぶ前に、」
「梁成を見たか?」
「見た。」
「どこで?」
「東側だ。」
「三包を持っていた。」
「そうだ。」
「話したか?」
「話した。」
「何と言った?」
「こう言った。」
「お前も運ぶのか、と。」
「俺は、」
「周掌柜に頼まれた、と答えた。」
「それから?」
「何も言わなかった。」
安生が聞いた。
「梁成は、」
「自分の三包も王家へ運ぶと言ったか?」
馬成は首を振った。
「言っていない。」
「つまり、」
「その時のお前は、彼がどこへ運ぶのか知らなかった。」
「そうだ。」
⸻
安生はしばらく座っていた。
それから、また聞いた。
「老高を見たか?」
「お前に荷を渡したあと、」
「梁成のところへ戻っていったか?」
「行っていない。」
「どこへ行った?」
「西倉だ。」
「それから?」
「分からない。」
「そのあと、いつまた見た?」
「王家で。」
「彼もそこにいたのか?」
「いや。」
「俺が荷を届け終わって、」
「埠頭へ戻った。」
「その時、あいつが反対側から戻ってくるのを見た。」
安生が聞いた。
「手にはまだ何か持っていたか?」
「何も。」
「一緒に誰かいたか?」
「いなかった。」
「何と言った?」
「こう言った。」
「終わった、と。」
安生は眉を寄せた。
「何のことだ?」
「分からない。」
⸻
夜。
安生は馬成の証言を書き直した。
今、
六月十二日の午後には、
もう一本の線ができた。
周長順。
↓
老高。
↓
馬成。
↓
王家。
二包。
三反の南布。
米一石との引き換え。
この線は、
梁成の線よりずっと明確になっている。
だが、まだ一つ問題がある。
梁成の三包の荷は、
どこへ行ったのか。
もし梁成も王家へ届けたのなら、
その日、王家には、
五包の荷が届いていなければならない。
ところが王家の帳簿には、
三反の南布しか記録されていない。
五包という記録はない。
安生は突然、立ち上がった。
「そうだ。」
小さく呟く。
「まだ三包ある。」
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翌日。
安生は再び王家へ行った。
「王叔。」
「六月十二日。」
「その日に受け取った布は、一批だけだったのか?」
王福はうなずいた。
「帳簿には一件だけだ。」
「三反。」
「一石。」
「ほかには?」
「ない。」
「確かか?」
「確かだ。」
「お父さんは、」
「ほかに三包の荷を誰かが運んできたと言っていなかったか?」
王福は首を振った。
「言っていない。」
安生は黙った。
ならば、
梁成の言う、
「王家へ届けた」
には、
二つの可能性がある。
一つ。
彼が記憶違いをしている。
二つ。
届けた先は王家ではなかった。
そして、三つ目もある。
その三包は、
確かに王家まで来た。
だが、
帳簿には入らなかった。
安生は、そのどれも選ばなかった。
ただ、
「梁成の行き先に関する記憶は、要確認」
と書いた。
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午後。
安生は再び梁成を訪ねた。
「最後に一度だけ聞く。」
「六月十二日。」
「その三包の荷。」
「結局、どこへ運んだ?」
梁成は眉を寄せた。
「王家だ。」
「自分で運んだのか?」
「そうだ。」
「王家の誰が受け取った?」
「老人だった。」
「王福の父親か?」
「分からない。」
「会ったことはあるか?」
「ある。」
「証明になるものを渡されたか?」
「ない。」
「その場で精算したか?」
「していない。」
「米一石という話は出たか?」
「出ていない。」
安生が聞いた。
「なら、なぜ王家だと覚えている?」
梁成は黙った。
「途中で誰かに聞いたからだ。」
「誰に?」
「老高だ。」
「何と言われた?」
「王家へ届けろ、と。」
安生が顔を上げた。
「自分では確認しなかったのか?」
「しなかった。」
「じゃあ実際には、」
「王家まで行っていない可能性もある?」
梁成は黙った。
長い沈黙のあと、
言った。
「ある。」
安生は何も言わなかった。
これは梁成が初めて、
自分から、
自分の記憶が間違っている可能性を認めた瞬間だった。
⸻
安生は紙をしまった。
「では、あの時。」
「三包の荷を王家が受け取るところを、実際に見たのか?」
「見ていない。」
「三包の荷が開けられるところを、実際に見たのか?」
「見ていない。」
「三包の荷が三反の布になったところを、実際に見たのか?」
「見ていない。」
「なら、お前が証明できるのは、」
「三包の荷を自分が運んだことだけだ。」
梁成はうなずいた。
「そうだ。」
安生は立ち上がった。
「それで十分だ。」
梁成が聞いた。
「十分?」
「証明するには十分だ。」
「お前が、その三包の荷の最終的な受取人ではなかったことを証明するにはな。」
「その後どこへ行ったのかは、」
「引き続き調べる。」
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家に戻ると、
安生は二本の線を書いた。
一本目。
梁成 → 三包 → 行き先不明。
二本目。
馬成 → 二包 → 三反の南布 → 王家 → 米一石との引き換え。
そして二本の線の上には、
ただ一人、
共通する名前があった。
周長順。
安生はその名前を見つめた。
だが、
その先には筆を走らせなかった。
今では、ますますはっきりしてきた。
周長順が二つの荷を手配したこと。
そして、
二人にそれぞれ別の仕事をさせたこと。
そこまでは分かる。
だが、
なぜそうしたのか。
それはまだ分からない。
この二つの荷が、
同じ沈家の南貨だったのか。
それも分からない。
そして、もっと重要なのは、
周長順がいったい何を理由にして、
それぞれの人間に、
自分にはその荷を処理する権限があると信じさせたのか。
安生は紙の上に、
最後の一文を書いた。
「次は、荷を調べない。」
「周長順が、当時、誰にどんな借りがあったのかを調べる。」




