第八十二章 その言葉はどこから来たのか
翌朝。
安生は周長順を訪ねなかった。
先に許家へ向かった。
許蘭は庭で洗濯物を干していた。
安生を見ると。
少し驚いた顔をした。
「また何かあったの?」
「ある。」
「六月十二日のこと?」
「そうだ。」
許蘭は手にしていた洗濯物を置いた。
「何を聞きたいの?」
安生は紙を取り出した。
「許文成は、当時帳簿をつけていた。」
「お父さんは、周長順について何か記録を残していないか?」
許蘭はしばらく考えた。
「ある。」
「どこに?」
「前に見せたものの中に。」
「ほかには?」
「たぶん、ない。」
安生はそれ以上追及しなかった。
代わりに聞いた。
「お父さんは。」
「『沈家は知っている』という言葉を書いていないか?」
許蘭は眉を寄せた。
「覚えていない。」
「じゃあ、『沈家は同意した』は?」
「それもない。」
「『沈家がうなずいた』は?」
「ない。」
安生はうなずいた。
この三つの言葉は。
許文成が残したものの中には。
どれも出てこなかった。
⸻
許家を出た後。
安生は呉平のところへ向かった。
呉平は木仕事をしていた。
安生を見るなり。
「また札を調べに来たのか?」
と笑った。
「今回は人だ。」
呉平も笑った。
「それなら、俺にはあまり手伝えないな。」
「お前の父親は、当時周長順に。」
「『沈家は同意した』と言ったことがあるか?」
呉平は手を止めた。
「知らない。」
「じゃあ、何と言った?」
「一つ覚えている。」
「何だ?」
「『返事がない』と言っていた。」
安生は一瞬、顔を上げた。
「誰が?」
「父さん。」
「いつ?」
「たぶん六月十二日。」
「具体的には?」
呉平は首を横に振った。
「そこまでは、本当に覚えていない。」
安生はそれ以上、追い込まなかった。
ただ聞いた。
「父親は、なぜ『返事がない』と記した?」
呉平は安生を見た。
「誰かが聞いたからだと思う。」
「誰が?」
「たぶん周長順だ。」
「確かか?」
「違う。」
呉平は首を横に振った。
「俺の推測だ。」
安生はすぐに「周長順」という名前を線で消した。
「じゃあ、書かない。」
呉平は安生を見る。
「今は、そんなことまで覚えてないことにするのか?」
「推測したことだから。」
「あとになって、それが証拠になるかもしれない。」
「だから、事実としては書けない。」
呉平は少し笑った。
「お前、最近ますます親父さんに似てきたな。」
安生は答えなかった。
⸻
午後。
安生は古い碼頭へ行った。
そこには、もう当時の面影はなかった。
倉庫は建て替えられていた。
杭もほとんど新しくなっている。
残っているのは。
川だけだった。
趙徳全は岸辺に座っていた。
安生を見ると聞いた。
「梁成は見つかったか?」
「見つかった。」
「何と言っていた?」
安生はすべてを話さなかった。
ただ聞いた。
「趙叔。」
「お前が最初に『沈家は同意した』と聞いたのは。」
「誰からだ?」
趙徳全は黙った。
今回は。
すぐには答えなかった。
長い時間が過ぎてから。
ようやく言った。
「周長順だ。」
「いつ?」
「六月十二日より後だ。」
「具体的には?」
「覚えていない。」
「その時。」
「ほかに誰がいた?」
趙徳全は目を閉じて考えた。
「陸成安。」
「許文成。」
「それから俺。」
安生はすぐに聞いた。
「三人とも聞いた?」
「たぶん。」
「誰が最初に言った?」
「周長順。」
「正確には何と言った?」
趙徳全は眉を寄せた。
「こうだ。」
「『沈家はもううなずいた』。」
安生は彼を見た。
「『同意した』じゃない?」
「俺が覚えているのは、『うなずいた』だ。」
「確かか?」
趙徳全は首を横に振った。
「確かじゃない。」
安生はさらに聞いた。
「じゃあ、なぜ前に俺に。」
「『沈家のほうは、もううなずいた』と言った?」
趙徳全は安生を見た。
「その後ずっと、そう言ってきたからだ。」
「なぜ?」
「みんながそう言っていたからだ。」
安生は何も言わなかった。
この言葉のところで。
長いこと止まった。
⸻
夜。
安生は何人かの証言を、もう一度並べた。
陸成安。
「沈家のほうから、もう話が来ている。」
梁成。
「周掌柜とは、もう話がついている。」
趙徳全。
「沈家のほうは、もううなずいた。」
馬成。
「周掌柜が問題ないと言った。」
その後。
「沈家は知っている。」
最後になって。
「沈家は同意した。」
安生はその言葉を見つめた。
突然、気づいた。
これは。
一本の直線ではない。
一つの言葉が。
違う人間の口を通るたび。
少しずつ形を変えている。
「話が来ている。」
それが。
「問題ない。」
になり。
「うなずいた。」
になり。
「知っている。」
になり。
最後には。
「同意した。」
安生は筆を取った。
だが。
「周長順がわざと嘘をついた」
とは書かなかった。
ただ。
こう書いた。
「要確認――変化するたびに、誰がその言葉を口にしたのか。」
⸻
翌日。
安生は順豊貨行の跡地へ向かった。
陸成安は、すでに待っていた。
「また来たか。」
「一つ確認したいことがある。」
「言ってみろ。」
「六月十二日の朝。」
「お前は周長順から聞いたな。」
「『沈家のほうから、もう話が来ている』。」
「そうだ。」
「その時。」
「『沈家は三包の貨物を米と交換していいと言った』とは言われなかった?」
陸成安は長いこと考えた。
「言われていない。」
安生は聞いた。
「確かか?」
「確かだ。」
「では、何と言われた?」
「言った。」
「『沈家のほうから、もう話が来ている』。」
「それから。」
「先に、やってくれ、と。」
安生の手が止まった。
「『先に、やってくれ』?」
「そうだ。」
「どういう意味だ?」
「俺もその時、聞いた。」
「何を?」
「誰が言ったのか、と。」
「周長順は答えなかった。」
「ただ。」
「先にやれ、と言った。」
安生はうつむいた。
また一つ。
新しい言葉が出てきた。
しかも。
これまでより重要だった。
先にやれ。
⸻
安生は顔を上げた。
「陸叔。」
「その時、おかしいと思わなかった?」
陸成安は少し笑った。
「もちろん思った。」
「なのに、なぜやった?」
「周長順が掌柜だったからだ。」
「それに、あいつは『沈家のほうから話が来ている』と言った。」
「もう確認してあるんだと思った。」
安生は聞いた。
「あとになって。」
「実際には、明確な返事がなかったと知った?」
陸成安は黙った。
「後になって知った。」
「いつ?」
「問題が起きてからだ。」
「誰から聞いた?」
「誰かに聞いたわけじゃない。」
「じゃあ、どうして分かった?」
陸成安は川のほうを見た。
「その後。」
「沈川が俺に聞いたんだ。」
安生が顔を上げる。
「何を?」
「誰があの三包の貨物を動かしたのか、と。」
安生は息を止めるようにして聞いた。
「沈川本人が聞いた?」
「ああ。」
「いつ?」
「六月十五日前後だ。」
「何と言った?」
「こう言った。」
「俺は、誰にも三包の貨物を渡していない。」
安生は黙った。
陸成安は続けた。
「なぜ今まで言わなかったのかって?」
安生は聞いた。
「なぜ、前に俺へ話さなかった?」
陸成安はため息をついた。
「二十年以上経っている。」
「昔は思っていた。」
「この言葉には意味がない、と。」
「なぜ?」
「誰が貨物を持っていったのかは証明できない。」
「周長順が嘘をついたとも証明できない。」
「ただ。」
「沈川が、その命令を出していないと言ったことしか分からない。」
安生はうなずいた。
「それだけでも重要だ。」
陸成安は首を横に振った。
「そうとも限らない。」
「お前たちが今調べているのは、古い事件だ。」
「一つの言葉じゃない。」
「一日の全部だ。」
⸻
戻ってから。
安生はすぐには沈砚に知らせなかった。
先に時間を並べ直した。
六月十二日の朝。
周長順が言った。
「沈家のほうから、もう話が来ている。」
その後。
「先に、やってくれ。」
梁成と馬成が現れる。
梁成が聞いた。
「周掌柜とは、もう話がついている。」
東倉の三包が持ち出される。
臨一。
別の人間が臨二を持つ。
午後以降。
周長順が言う。
「沈家は知っている。」
その後。
誰かの記憶の中で。
「沈家はうなずいた。」
さらに後になって。
「沈家は同意した。」
そして。
六月十二日より後。
沈川本人が陸成安に言った。
「俺は、そんなことをさせていない。」
安生は最後の一文を見つめた。
すぐには結論を出さなかった。
まだ一つ。
問題がある。
沈川の「俺は、そんなことをさせていない」が。
否定しているのは。
三包の貨物を米と交換することなのか。
それとも。
誰かが南貨を持ち出すことそのものなのか。
二つは完全には同じではない。
それに。
当時の沈川の体調も良くなかった。
六月十日。
彼の手帳には。
「足の傷、まだ治らず。」
六月十一日。
「周来る。南貨、先に処理できると言う。」
六月十二日。
空白。
六月十五日。
「九包、原帳見えず。」
安生はその数行を見つめた。
そして突然。
本当に探すべきものは。
周長順でも。
梁成でも。
あの三包の貨物でもないのかもしれない。
六月十一日。
周長順は。
沈川に何を言ったのか。
⸻
その夜。
安生は沈砚を訪ねた。
陸成安の話を聞き終えると。
沈砚の顔には変化がなかった。
ただ聞いた。
「父が本当に。」
「『俺は、そんなことをさせていない』と言った?」
「陸叔は、そう言っている。」
「確かに聞いたのか?」
「確かに聞いたと言っている。」
「ただ。」
「何を指しているのかまでは分からない。」
沈砚は黙った。
しばらくして。
「なら、父は少なくとも南貨が動いていることを知っていた。」
安生は首を横に振った。
「そこまでは確定できない。」
「なぜ?」
「『南貨は先に処理できる』という言葉は。」
「お前の父親の手帳に書かれている。」
「でも。」
「誰がそう言ったのか。」
「なぜそう言ったのか。」
「それは分からない。」
沈砚は安生を見た。
「今は、そこまで確定しないのか?」
安生は机の上の紙を見た。
「今なら分かる。」
「一つの言葉でも。」
「三人を通れば。」
「意味が変わることがある。」
沈砚はそれ以上、何も言わなかった。
⸻
夜。
安生は一人で家へ戻った。
門のところまで来た時。
安順河はまだ起きていた。
「何か分かったか?」
安生は座った。
「一つ。」
「かなり重要なことかもしれない。」
「何だ?」
「当時。」
「みんなが、同じ一言から始めたとは限らない。」
安順河は黙った。
「どういう意味だ?」
安生は紙を渡した。
「誰かは『話が来ている』と言った。」
「誰かは『問題ない』と言った。」
「誰かは『うなずいた』と言った。」
「その後、『知っている』になった。」
「最後には、『同意した』になった。」
安順河は紙を長いこと見た。
何も言わない。
安生が聞いた。
「父さん。」
「父さんが初めて『沈家は同意した』と聞いた時。」
「誰から聞いた?」
安順河は顔を上げた。
自分の息子を見た。
長い沈黙の後。
低い声で言った。
「誰かに聞いたんじゃない。」
安生は一瞬、固まった。
安順河は続けた。
「あの時。」
「俺自身が聞いた。」
「自分の耳で聞いたんだ。」
安生の表情が変わった。
「誰が言った?」
安順河はすぐには答えなかった。
ただ窓の外を見ていた。
「沈川だ。」
安生は呆然とした。
部屋の中が。
一気に静かになった。




