第七十七章 最初の一言
翌日。
安生はもう梁成を探さなかった。
代わりに、
これまで何度も話を聞いてきた男を訪ねた。
趙徳全だった。
――
「趙叔」
「もう一つ聞きたいことがあります」
趙徳全は古い椅子を直していた。
「何だ?」
「六月十二日」
「最初に『沈家のほうから話が来ている』と聞いたのは」
「いつですか?」
趙徳全の手が止まった。
「分からない」
「もう一度、考えてみてください」
「後になって聞いたんじゃないですか?」
「違います」
「俺が聞きたいのは、最初です」
趙徳全は眉を寄せた。
「どうして急にそんなことを聞く?」
「今、みんなが覚えているのは」
「『沈家は同意した』という言葉です」
「でも」
「最初に誰がそう言ったのかは」
「誰も覚えていない」
趙徳全は長いこと黙っていた。
やがて言った。
「たしか、午前中だった」
安生がすぐに顔を上げる。
「誰が言った?」
「周長順だ」
「どこで?」
「碼頭だ」
「誰に?」
「俺だ」
「他には?」
「たぶん、いない」
安生はそれ以上、急がなかった。
ただ確認した。
「あなた自身が聞いた?」
「ああ」
「その時の言葉は?」
趙徳全は目を閉じた。
記憶を探すように、
しばらく黙っていた。
「言ったのは……」
「『沈家のほうは、たぶん大丈夫だ』」
安生は動かなかった。
「『たぶん大丈夫』ですか?」
「ああ」
「『もう話が来ている』ではない?」
「違う」
「『もう点頭した』でもない?」
「違う」
「『もう同意した』でも?」
趙徳全は首を振った。
「違う」
安生はすぐに書き留めた。
趙徳全が最初に聞いた可能性がある言葉。
「沈家のほうは、たぶん大丈夫だ」
――
「いつです?」
趙徳全は考えた。
「午前だ」
「前に話していた時より、もっと早い?」
「ああ」
「どうして今まで言わなかったんです?」
趙徳全は安生を見た。
「お前が前に聞いた時は」
「周長順が『沈家は同意した』と言ったか、と聞いたろ」
安生は一瞬、黙った。
趙徳全は続けた。
「俺が答えたのは」
「『点頭した』と言っていた気がする、という話だ」
「でも今、お前が聞いているのは」
「最初の一言だ」
安生は黙った。
そこで初めて気づいた。
すべての証言が食い違っているわけではない。
時には、
聞き方が違うだけなのだ。
――
安生は聞いた。
「その時、どうして本当だと思ったんです?」
趙徳全は少し笑った。
「その頃は」
「こんな大事になるなんて思っていなかった」
「周長順が『沈家のほうは大丈夫だ』と言った」
「だから、そうなんだと思った」
「そのあと?」
「実際に荷が出た」
「だから、ますます問題ないと思った」
「その後は?」
「問題が起きた」
趙徳全は手にしていた工具を置いた。
「それで、みんなが聞き始めた」
「いったい誰が言ったんだ、と」
安生は彼を見た。
「今になって」
「周長順は、あの時嘘をついていたと思いますか?」
趙徳全は答えなかった。
しばらくして、
ようやく言った。
「分からない」
「では」
「自分でも分かっていなかった可能性は?」
趙徳全は顔を上げた。
「どういう意味だ?」
安生は言った。
「周長順自身も」
「沈家が本当に了承したと思っていた可能性です」
趙徳全は黙った。
「それもある」
「だが」
「ただ先に荷を出したかっただけかもしれない」
「その二つは」
「一緒にしてはいけない」
趙徳全はしばらく安生を見ていた。
「お前は今、昔とは違う調べ方をするな」
安生は少し笑った。
「昔は」
「誰がやったのかだけ知りたかった」
「今は?」
「その時、その人が何を知っていたのかを知りたい」
――
午後。
安生は陸成安を訪ねた。
「陸叔」
「もう一度聞かせてください」
「六月十二日の午前」
「周長順が『沈家のほうから、もう話が来ている』と言った」
「前にそう言いましたね」
「ああ」
「その前に、何か別の言葉を聞いていませんか?」
「例えば」
「『沈家のほうは、たぶん大丈夫だ』」
陸成安はしばらく黙った。
「……あったような気がする」
安生はすぐに聞いた。
「誰が?」
「周長順だ」
「いつ?」
「午前」
「ここで?」
「ああ」
「正確な言葉は?」
「全部は覚えていない」
「覚えている言葉だけでいい」
「『たぶん』」
「『大丈夫』」
安生の筆が止まった。
さらに聞く。
「そのあと、『話が来ている』と言った?」
「言ったと思う」
「そのあと、最初に『同意した』と聞いたのはいつです?」
「午後だ」
「誰が?」
「やっぱり周長順だ」
「その間に、誰か来ましたか?」
陸成安は長いこと考えた。
「いた」
「誰です?」
「梁成」
「他には?」
「もう一人いた」
「誰です?」
「知らない」
「紙を持っていた男ですか?」
陸成安はうなずいた。
「たぶん、そうだ」
――
安生はすぐに尋ねた。
「何時頃です?」
「午後になる前だ」
「周長順は、その二人に会いましたか?」
「分からない」
「二人は誰に会いに来た?」
「たぶん、周長順だ」
「そのあと?」
「周長順が一度、外へ出た」
「誰と?」
「そこまでは見ていない」
安生は聞いた。
「周長順が戻ってきてから」
「何と言いました?」
陸成安は黙った。
「『やっていい』」
「それだけ?」
「ああ」
「沈家という言葉は?」
「ない」
「そのあとに『沈家はもう同意した』?」
「ああ」
安生は、それ以上聞かなかった。
今、
一つの変化が、
少しずつ見えてきた。
「たぶん大丈夫」
そこから、
「もう話が来ている」
さらに、
「やっていい」
最後に、
「沈家はもう同意した」
ただ、
これらが同じ意味だったのか。
それを証明できる人はいない。
――
安生は住まいへ戻った。
紙に四つの言葉を書いた。
第一段階。
推測。
「たぶん大丈夫」
第二段階。
曖昧な事実。
「もう話が来ている」
第三段階。
実行の許可。
「やっていい」
第四段階。
明確な結論。
「沈家はもう同意した」
安生は最後の一文を見つめた。
ふと思った。
この言葉は、
最初から存在していたわけではないのかもしれない。
あとから現れた言葉なのかもしれない。
しかも、
実際に荷の処理が始まったあと、
すでに行われたことを正当なものに見せるために、
そういう形になった可能性もある。
だが、それもまだ推測だった。
安生はその横に、
「未確認」
と書いた。
――
夜。
沈砚が来た。
安生は紙を渡した。
沈砚は読み終えると、
長いこと黙っていた。
「お前は」
「俺の父親は、本当は同意していなかったと思っているのか?」
安生は首を振った。
「分からない」
「では、なぜここまで調べる?」
「分からないからです」
「だから調べる」
沈砚は何も言わなかった。
安生は続けた。
「今、二つのことがあります」
「一つ」
「あなたの父親が、明確に同意した証拠はあるか」
「ない」
「二つ」
「明確に拒否した証拠はあるか」
「それもない」
「だから、まだ調べる」
沈砚は紙に書かれた言葉を見つめた。
「最後まで分からなかったら?」
安生は少し考えた。
「分からなかった、と書く」
「何を?」
「分からなかったことを」
沈砚が顔を上げる。
安生は言った。
「分からないということは」
「何も起きなかったという意味ではない」
「ただ、今の俺たちには証明できないというだけです」
「無理に答えを出したら」
「それは調査じゃない」
「自分で一つの答えを作ることになる」
沈砚は反論しなかった。
しばらくして、
静かにうなずいた。
――
翌日。
安生はもう一度、茶屋の主人を訪ねた。
最後に一つだけ聞く。
「あの日」
「梁成と、あの男が出ていく時」
「何か話していませんでしたか?」
孫は長いこと考えた。
そして突然、
「ああ」
「一つ、あったような気がする」
「何です?」
「あの男が梁成に聞いた」
「『周掌柜は言ったのか?』」
安生は一瞬、動きを止めた。
「周掌柜?」
「ああ」
「梁成は何と?」
「『言った』」
「そのあと?」
「あの男がまた聞いた」
「『では、あっちは?』」
安生は眉を寄せた。
「『あっち』?」
「ああ」
「どこのことです?」
「分からない」
「梁成は?」
「『あの人はいいと言った』」
安生は、それ以上聞かなかった。
ただ、その場に立ったまま、
しばらく動かなかった。
――
戻ると、
安生はその言葉を書き留めた。
だが、
証拠としては扱わなかった。
茶屋の主人が覚えているのは、
二十三年前の会話だ。
それに、
「あっち」が何を指すのかも分からない。
「あの人」が誰なのかも分からない。
「いい」と言ったのが、
何についての「いい」なのかも分からない。
安生はその横に四文字を書いた。
「要確認。使用せず」
そして、
その言葉を一番下に置いた。
――
今、
六月十二日の午前から午後にかけて、
新しい流れが見えてきている。
午前。
周長順が言った。
「沈家のほうは、たぶん大丈夫だ」
そのあと。
梁成と、
一人の身元不明の男が現れる。
二人の間で、
こんなやり取りがあった可能性がある。
「周掌柜は言ったのか?」
「言った」
「では、あっちは?」
「あの人はいいと言った」
そして、
周長順が陸成安に言う。
「沈家のほうから、もう話が来ている」
午後。
それが、
「沈家はもう同意した」
に変わる。
安生は、
その一連の言葉を見つめた。
初めて感じた。
この事件で本当に重要なのは、
誰か一人が嘘をついたことではないのかもしれない。
曖昧な一つの話が、
何人かの間を渡るうちに、
少しずつ形を変え、
最後には確定した事実のようになった。
そして、
みんながその「事実」に従って動き始めた時には、
本当の最初の言葉を聞いた人間が、
もう誰も覚えていなかった。
安生は帳面を閉じた。
結論は書かなかった。
ただ一行だけ残した。
「まず、『あっち』が誰なのかを調べる」
そして、その下にもう一行。
「分からなければ、勝手に決めない」
窓の外は、
もう暗くなっていた。
二十三年前の六月十二日は、
ようやく、
ただの帳面の数字ではなくなってきた。
そこには時間がある。
人がいる。
言葉がある。
そして、
その言葉が、
人から人へ渡るたびに、
少しずつ姿を変えていった痕跡がある。
けれど、
最初の一言を言った人間は、
まだ見つかっていなかった。




