第七十六章 あの紙ではない
翌朝早く。
安生は古い碼頭の倉庫へ向かった。
今では、もう使われていない。
扉には、当時ついた傷がまだ残っている。
安生は馬成林を見つけた。
「お父さんは、昔ここを管理していた」
「ああ」
「六月十二日」
「倉庫には、専用の出庫票があったのか?」
馬成林は首を振った。
「ある時もあった」
「ない時もあった」
「どういうこと?」
「顔なじみの荷なら」
「札一枚で済ませることもあった」
「臨時の荷なら」
「紙に記録する」
安生は聞いた。
「では、誰かが紙を一枚持っていたら」
「お父さんは見るか?」
「見る」
「普通、何が書いてある?」
「荷物」
「数量」
「どこから来たか」
「どこへ行くか」
「誰が同意したか、書くことは?」
馬成林は少し考えた。
「少ないな」
「荷主が、他の人間に処理させることを認めた場合は?」
「本来なら書く」
「でも、昔はそこまで厳しくなかった」
安生はうなずいた。
この言葉は、
もう何度も聞いている。
本来なら、ある。
だが当時は、
必ずしもそうなっていなかった。
――
安生はさらに尋ねた。
「六月十二日、お父さんは何か残していませんか?」
馬成林は首を振った。
「俺が見つけたのは木札が一つ」
「それと古い紙が何枚かある」
「見せてもらえますか?」
馬成林は家の中へ戻った。
しばらくして、
古い布包みを持ってきた。
中には、
黄ばんだ紙が何枚か入っていた。
安生は一枚ずつ目を通した。
そのうちの一枚。
六月十二日。
その下に、
「南貨二」
さらにその下に、
「西倉」
そして一番下に、
一文字。
「梁」
安生の手が止まった。
「これは、お父さんの字ですか?」
「たぶん」
「確かですか?」
「そこまでは言えない」
「お父さんは、梁成を『梁』とだけ書くことがありましたか?」
「昔は、そういうこともあったと思う」
「思う?」
「人を記録する時」
「姓だけを書くこともあった」
安生は紙を見続けた。
裏には何もない。
印もない。
沈家の印もない。
「抵米」という文字もない。
安生は聞いた。
「この紙は何です?」
馬成林は首を振った。
「分からない」
安生は紙を戻した。
「この紙は」
「昨日、話していた紙とは違います」
「なぜ?」
「書式が違います」
――
午後。
安生は呉平を訪ねた。
そして、その紙を見せた。
呉平は一目見るなり言った。
「これは倉庫の記録だ」
「臨時札の記録ではない」
「どうして分かる?」
「父が昔、見ていた」
「こういう紙は、何に使う?」
「いろいろ書く」
「誰が持っていったか」
「誰が運んできたか」
「いつ倉庫に入ったか」
「いつ出たか」
安生は尋ねた。
「『梁』は梁成ですか?」
「断定できない」
「なぜ?」
「父は人を記録する時」
「名前を書くこともあれば」
「姓だけのこともあった」
「その日に梁という姓の人間が一人だけだったとしても?」
「それでも、可能性がある、としか言えない」
安生はうなずいた。
そして、また聞いた。
「なぜ札の番号がない?」
呉平は紙をしばらく見た。
「これは出庫を許可する札じゃないからだ」
安生が顔を上げた。
「確かですか?」
「臨時札なら」
「普通は札の番号を書く」
「少なくとも、何らかの印が残る」
「これはない」
安生はゆっくりと紙をしまった。
ということは、
昨日追っていた「あの紙」は、
出庫の許可を示すものではなかった可能性がある。
――
夜。
陸成安もその紙を見た。
しばらく見てから、
首を振った。
「見たことがない」
「確かですか?」
「確かだ」
「六月十二日に周長順があなたに見せた紙」
「これではない?」
「違う」
「どんな紙だった?」
陸成安はしばらく考えた。
「これより大きかった」
「三行あった」
「一行目は荷」
「二行目は数量」
「三行目が……」
そこで言葉が止まった。
安生は聞いた。
「三行目は?」
「姓のようだった」
「何という姓?」
「確信はない」
「沈?」
「たぶん」
「なぜ確信がない?」
「墨が濃かった」
「それに、紙は半分しか残っていなかった」
安生は聞いた。
「その紙は今、どこに?」
陸成安は首を振った。
「もうない」
「いつなくなった?」
「分からない」
「誰が持っていった?」
「分からない」
「その後、周長順は探しに来なかった?」
「来ていない」
――
安生は黙った。
最初は、
あの紙さえ見つければ、
すべてが分かると思っていた。
だが今になって分かった。
紙は一枚ではない。
どの紙も、
それぞれほんの一部しか証明できない。
安生は住まいに戻った。
机の上に、
今日見つけた紙を並べた。
一枚。
六月十一日。
「南貨三……」
一枚。
六月十二日。
「南貨二」
「西倉」
「梁」
そして、
呉順の記録。
「臨二、遅れて返却」
安生はそれらを見つめた。
そして、ふと気づいた。
すべてに共通していることがある。
どの紙にも、
はっきりとは書かれていない。
「沈家が同意した」
――
翌日。
安生はもう一度、趙徳全を訪ねた。
「昔の碼頭では」
「荷主が別の人間に荷を受け取らせる場合」
「一番簡単な方法は何だった?」
趙徳全は少し考えた。
「管事に伝える」
「あるいは、紙に一筆書く」
「それか」
「顔の知れた人間に取りに来させる」
「では、言葉だけなら?」
「それでも出すことはある」
「誰が言う?」
「管事」
「倉庫の人間」
「それとも荷主本人」
「では、誰が責任を持つ?」
趙徳全は少し笑った。
「問題が起きたあとで」
「覚えている人間を探すしかない」
安生も少し笑った。
「だから二十三年も経ってから調べることになった」
趙徳全は笑わなかった。
「時には、誰も忘れていない」
「ただ、一人一人が自分の見たところだけを覚えているんだ」
安生は一瞬、言葉を失った。
その言葉を書き留めた。
――
昼。
安生はもう一度、陸成安に会った。
「もう一度聞きます」
「六月十二日」
「周長順が最初にあなたを訪ねてきた時」
「あなたが聞いた言葉を、そのまま思い出せますか?」
陸成安は目を閉じた。
長いこと考えた。
そして、ようやく言った。
「言ったのは」
「『沈家のほうから、もう話が来ている』だ」
安生は聞いた。
「『沈家が同意した』ではない?」
「違う」
「確かですか?」
「確かだ」
「では、そのあと?」
「午後だ」
「もう一度言った」
「『沈家はもう同意した』と」
安生は尋ねた。
「その間に、何がありました?」
陸成安は首を振った。
「分からない」
「では、なぜ信じた?」
「周長順だったからだ」
「それに、あの頃は」
「碼頭のことは、あいつが取り仕切っていた」
安生は聞いた。
「もし、あいつが間違っていたら?」
陸成安はしばらく黙った。
「そうしたら」
「誰にも分からない」
――
安生は、それ以上聞かなかった。
戻ると、
紙にこう書いた。
午前。
周長順。
「沈家のほうから、もう話が来ている」
午後。
周長順。
「沈家はもう同意した」
その間に、
何が起きたのか。
今も分からない。
だが、少なくとも一つは整理できる。
これまで見つかった数枚の古い紙は、
沈川が明確に許可を出したことを証明していない。
同時に、
沈川が明確に拒否したことも証明していない。
安生はその文章を見つめた。
そして、書き加えようとした。
「起きなかったことは証明できない」
だが、
一度線を引いた。
消す。
書き直した。
「現存する資料からは、証明できない」
しばらく見つめる。
そのほうが正確だった。
――
夕方。
沈砚がやって来た。
「何か分かったか?」
安生は数枚の紙を彼の前へ押し出した。
「少しだけ」
「何が?」
「俺たちがずっと探していたもの」
「決定的な一枚の紙ではないのかもしれない」
「何枚かの、普通の紙なんだ」
「どういうこと?」
「誰かは荷を記録した」
「誰かは札を記録した」
「誰かは米を記録した」
「誰かは、自分が聞いた言葉を書いた」
「でも」
「その全部を一つにつなげて書いた人はいなかった」
沈砚は紙を見た。
「それで?」
安生は言った。
「だから今のところ」
「お前の父親が同意したとは証明できない」
沈砚は黙った。
「同時に、同意していなかったとも言えない」
「ああ」
「では、周長順は?」
安生はすぐには答えなかった。
「今のところ」
「あいつが故意に嘘をついたとも証明できない」
沈砚が顔を上げた。
「では、何を調べる?」
安生は彼を見た。
「その時、あいつが何を知っていたのか」
「どこまで知っていたのか」
「いつ知ったのか」
「そして、なぜ他の人間に信じさせることになったのか」
「それを調べることと」
「最初から人を騙そうとしていたかを調べることは」
「同じじゃない」
沈砚は長い間、黙っていた。
やがて、うなずいた。
――
夜。
安生はその日の記録を整理した。
そして、
六月十二日の時間の流れを、
もう一度書き直した。
午前。
周長順。
陸成安。
梁姓の男。
東倉。
昼。
茶屋。
午後。
臨時札。
西倉。
荷の出庫。
「沈家はもう同意した」
最後の一文を見つめる。
安生は、ふと思った。
本当の問題は、
もう、
「沈家は本当に同意したのか」
ではないのかもしれない。
「六月十二日、
いったい誰が、
みんなに『沈家はもう同意した』と思わせ始めたのか」
こちらのほうが、
はるかに難しい。
探さなければならないのは、
一つの言葉ではない。
最初に発せられた、
最初の一言だ。
安生は筆を取った。
紙に書く。
「まず、『沈家のほうから話が来ている』と言った最初の人間を探す」
書き終えて、
少しだけ筆を止めた。
その下に、
もう一行。
「一番大きな声で言った人を探すのではない」
「一番早く言った人を探す」
窓の外を、
川がゆっくり流れていた。
二十三年前の六月十二日。
ぼやけた古い帳面の中から、
ようやく一つの時間帯が、
少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
けれど、
本当に流れを変えた人間は、
まだ見つかっていなかった。




