第七十三章 誰が言葉を持ち帰ったのか
六月十二日。
午前。
誰かが呉順に尋ねた。
「南貨は先に出せるか?」
呉順は答えた。
「沈家に聞いてくれ」
これが、今残っている最も早い記録だった。
だが午後になると、
荷はすでに出ていた。
臨二も返却されていた。
その間に何が起きたのか。
誰にも分からない。
安生は、いちばん簡単な問いから始めることにした。
誰が沈家へ聞きに行ったのか。
⸻
まず趙徳全のところへ行った。
話を聞いた趙徳全は、首を振った。
「それは分からん」
「その日は東倉にいた?」
「いた」
「午前も?」
「いた」
「東倉から誰か出ていったか?」
「いた」
「誰?」
趙徳全は考えた。
「梁成だ」
安生が顔を上げる。
「確かか?」
「確かじゃない」
「また不確か?」
「あの日は人が多かった」
「ただ、奴が出ていったのは覚えてる」
「いつ?」
「昼前だったと思う」
「どこへ?」
「そこまでは見てない」
安生が聞いた。
「札を持っていた?」
趙徳全は首を振った。
「分からん」
「誰か一緒だった?」
「たぶん、いなかった」
安生はそれ以上聞かなかった。
ただ、書き留めた。
梁成――午前、東倉を出たことがある。
その後ろに、
小さな疑問符を付けた。
⸻
次は呉順だった。
すでに亡くなっている。
だから、呉平に聞くしかない。
呉平は父親の「臨時札雑記」を取り出した。
「お父さんは」
「誰が沈家へ聞きに行ったか、書いてないか?」
「ない」
「じゃあ」
「誰が戻ってきたかは?」
呉平は何ページかめくった。
「名前はない」
「時間だけだ」
「見てくれ」
六月十二日。
午前。
「誰かが聞く。南貨は先に出せるか。」
昼。
「返事、まだ見ず。」
午後。
「臨二、遅れて返却。」
安生は二行目を見つめた。
「返事、まだ見ず」
この四文字。
その前の、
「沈家に聞いてくれ」
と合わせると、
意味はかなりはっきりしてくる。
呉順は昼になっても、
沈家からの明確な返事を確認していなかった。
安生が聞く。
「この帳面は、その日に書いたものか?」
呉平は頷いた。
「たぶん」
「どうして?」
「親父はそういう人だった」
「その日のことは」
「その日に書いていた」
安生は、
「たぶん」を「確か」に変えなかった。
ただ、そのまま読み続けた。
⸻
「じゃあ」
「その後、誰が荷を出していいと言ったのか」
「親父は何か言ってなかった?」
呉平は首を振った。
「言ってない」
「誰かの名前は?」
「一人だけ」
安生が顔を上げる。
「誰?」
「周という姓だ」
「周長順?」
「たぶん」
「何と言ってた?」
呉平は長いこと考えた。
「こう言ってた」
「誰かが、札を渡せと言った、と」
安生が聞く。
「誰が?」
「分からない」
「親父は書いてなかった」
「じゃあ、どうしてお前はその言葉を覚えてる?」
呉平は苦笑した。
「子供の頃、親父から聞いた」
「あの日は大変だった、と」
「急かす人間がいて」
「聞きに来る人間もいて」
「それから、沈家のほうはもう知っている、と言う人間もいた」
安生はすぐに聞いた。
「『知っている』?」
「それとも『同意した』?」
呉平は一瞬、言葉に詰まった。
「分からない」
安生は頷いた。
「それでいい」
「この二つは混ぜられない」
⸻
午後。
安生は王福の家へ向かった。
「お父さんは聞いていないか?」
「六月十二日に、誰かが沈家へ聞きに行ったこと」
王福は首を振った。
「聞いてない」
「じゃあ、周長順が」
「沈家は同意した、とお父さんに言ったことは?」
「親父は、そんなこと言ってない」
「確かか?」
「確かだ」
「じゃあ、どうして六月十二日に南布を受け取った?」
王福は答えた。
「周長順に米の借りがあった」
「誰かが荷を持ってきた」
「だから親父は受け取った」
安生が聞く。
「荷を持ってきたのは誰?」
「二人」
「どちらも知らない人間だった」
「碼頭の札を持っていた」
「一人は東倉」
「もう一人は西倉だった」
「お父さんは」
「それが沈家の荷かと聞かなかった?」
「聞いた」
「相手は何と言った?」
王福は少し考えた。
「碼頭から出していいと言われた荷だ、と」
「ほかには?」
「それだけだ」
安生が聞く。
「沈家が同意したとは?」
王福は首を振った。
「誰も言ってない」
「なら、『沈家は同意した』という言葉は」
「少なくとも、親父のところから始まったわけじゃない」
⸻
安生は再び沈家へ戻った。
ここまでの話を沈砚に伝える。
沈砚は聞き終えると、尋ねた。
「じゃあ、今なら」
「父は同意していなかったと決められるか?」
安生は首を振った。
「まだ無理だ」
「なぜ?」
「今分かっているのは」
「呉順が明確な返事を受け取っていないこと」
「王家も、沈家が同意したという話を聞いていないこと」
「それだけだ」
「お父さんが周長順に個人的に伝えていた可能性は残っている」
「ただ、誰も記録していない」
沈砚は黙った。
安生は続けた。
「だから今、一番重要なのは」
「やっぱり周長順だ」
「でも、もう死んでいる」
「ああ」
「なら、当時そばにいた人間を探すしかない」
沈砚が聞いた。
「誰だ?」
安生が言った。
「馬徳順」
「もう死んでいる」
「それから梁成」
「見つからない」
「ほかには?」
安生は答えなかった。
一人の名前が頭に浮かんだ。
陸成安。
⸻
二人は再び順豊貨行へ向かった。
陸成安は話を聞き終えると、
少し複雑な表情をした。
「今度は」
「六月十二日の午前、周長順がどこへ行ったかを聞きたいのか?」
「ああ」
「それは分からない」
「じゃあ、周長順はお前のところへ来たか?」
陸成安は黙った。
しばらくして、
言った。
「来た」
安生はすぐに聞いた。
「いつ?」
「午前だ」
「何と言った?」
「沈家のほうから、もう話が来ている、と」
安生が聞く。
「そのままの言葉か?」
「だいたいは」
「『話が来ている』?」
「ああ」
「『同意した』ではない?」
「違う」
安生はさらに聞いた。
「誰から聞いたと言っていた?」
「言ってない」
「沈川の名前は?」
「出していない」
「何か持っていた?」
「何も」
「書類は?」
「なかった」
陸成安は首を振った。
「ただ、そう言っただけだ」
安生が聞く。
「それから?」
「俺が聞いた」
「何という話なのか、と」
「奴は」
「先に荷を処理してくれ、と言った」
「誰の責任だと聞いた」
「奴は」
「自分だ、と」
安生は少し間を置いた。
「沈家はもう同意した、と言ったか?」
陸成安は長いこと考えた。
「後になって」
「言った」
「後というのは、いつ?」
「午後だ」
「誰がいた?」
「俺だ」
「ほかには?」
「覚えていない」
「梁成?」
「たぶん、いた」
安生はそれ以上聞かなかった。
その「たぶん」だけで、
陸成安自身の記憶も、
完全ではないことが分かったからだ。
⸻
「じゃあ、どうしてあの時、信じた?」
陸成安は安生を見る。
「周長順だったからだ」
「それに」
「あの頃の碼頭では、そういうことが珍しくなかった」
「顔見知り同士なら、一言で済ませる」
「荷は先に動かす」
「後で問題があれば」
「その時に帳簿を直す」
安生が聞く。
「沈家の荷だと知っていた?」
「知っていた」
「それなのに、どうして出した?」
陸成安は黙った。
「周長順が」
「沈家のほうから、もう話が来ていると言った」
「俺は、もう確認したものだと思った」
安生は頷いた。
「つまり、自分で確認したわけじゃない」
「ああ」
「周長順が確認したと思った」
「ああ」
⸻
貨行を出ても、
安生はしばらく何も言わなかった。
沈砚が隣を歩く。
しばらくして、
「それで?」
と聞いた。
安生が言う。
「新しい線が出てきた」
「何だ?」
「周長順は、最初から『沈家は同意した』と言っていたわけじゃないかもしれない」
「午前、陸成安に言ったのは」
「もっと曖昧だ」
「『沈家のほうから、もう話が来ている』」
「そのあとで」
「『沈家はもう同意した』になった」
沈砚は眉を寄せた。
「じゃあ、誰がそう理解させた?」
「まだ分からない」
「周長順自身かもしれない」
「誰かから聞いたのかもしれない」
「あるいは、沈川が本当に曖昧なことを言ったのかもしれない」
「それを周長順が許可だと受け取った可能性もある」
⸻
安生が突然、足を止めた。
「もう一つある」
「何だ?」
「陸成安は言った」
「周長順は午前に来た」
「そして『同意した』と言ったのは午後だ」
沈砚が安生を見る。
「つまり」
「午前から午後の間に」
「誰かが何かを言った可能性がある」
安生は頷いた。
「そうだ」
「あるいは」
「周長順自身が決めた」
「でも今は」
「少なくとも、調べるべき時間が絞れた」
安生は紙を取り出した。
そこに書く。
六月十二日午前
周長順 → 陸成安
「沈家のほうから、もう話が来ている」
「先に荷を処理してくれ」
その下には、
大きな空白を残した。
最後に書く。
六月十二日午後
「沈家はもう同意した」
安生は、その間に残した空白を見つめた。
何も書かなかった。
沈砚が聞く。
「誰を調べる?」
安生は首を振った。
「まだ人は探さない」
「じゃあ何を?」
「この時間だ」
「誰が出ていったか」
「誰が戻ってきたか」
「誰が札を持ったか」
「誰が周長順に会ったか」
「誰が沈川に会ったか」
「まず、人間をこの時間の中に置いてみる」
「その上で」
「この時間に入れる人間が誰なのかを見る」
⸻
夕方。
安生は再び古い碼頭へ向かった。
太陽は、もうすぐ沈もうとしていた。
安生は東倉の入口に立った。
二十三年前の六月十二日を思い浮かべる。
誰かが尋ねた。
「南貨は先に出せるか?」
呉順は答えた。
「沈家に聞いてくれ」
そのあと。
誰かが出ていった。
誰かが戻ってきた。
誰かが札を持った。
誰かが荷を運び出した。
誰かが帳簿に一行を書いた。
そして一つの言葉も、
その数時間の間に、
少しずつ形を変えていった。
「沈家に聞いてくれ」
から、
「沈家のほうから、もう話が来ている」
そして、
「沈家はもう同意した」
安生は、ふと気づいた。
本当に物事を変えたのは、
誰かが突然、嘘をついたことではないのかもしれない。
一人ひとりが、
自分の聞いた一部分を、
いつの間にか、
すべての答えだと思ってしまった。
安生は長いこと、その場に立っていた。
最後に紙を取り出し、
こう書いた。
「六月十二日、午前から午後。」
「現在、最も重要な時間帯。」
その下に、もう一行。
「まず、周長順に会った者を探す。」
それを書き終えると、
安生は筆をしまった。
今度は、
次にどこへ行けばいいのか分かっている。
六月十二日の当日。
まだ生きている人たちが、
何を覚えているのか。
そこから調べる。




