第七十二章 誰が「点頭した」と言ったのか
翌日。
安生は碼頭へは行かなかった。
周長順の古い帳簿を探しにも行かなかった。
向かったのは、馬成林の家だった。
昨日。
趙徳全から、ある名前を聞いたからだ。
馬徳順。
⸻
馬成林は庭先で薪を割っていた。
安生を見ると、手を止めた。
「また親父のことを調べるのか?」
「ああ」
「親父が死んで、もう何年になると思ってる?」
「分かってる」
「それでも、まだ聞きたいことがあるのか?」
安生はすぐには答えなかった。
代わりに聞いた。
「お父さんは昔」
「『沈家が点頭した』って言ってなかったか?」
馬成林の手にしていた斧が、ゆっくり下りた。
「言ってた」
安生は顔を上げた。
「いつ?」
「具体的な日は覚えてない」
「じゃあ、何を覚えてる?」
馬成林は腰を下ろした。
しばらく考えてから言った。
「親父が一度、帰ってきた」
「少し酒を飲んでた」
「周長順は今度、ずいぶん大胆なことをしたって言ってた」
安生が聞く。
「どうして?」
「こう言ってた」
「沈家のほうは、もう点頭したって」
安生はすぐには何も言わなかった。
初めてだった。
「点頭した」という二つの言葉が、直接出てきた。
「お父さんが聞いたのは、周長順からそう言われたということか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「あの頃は俺もまだ若かった」
「覚えているのは」
「親父が、周長順が沈家は点頭したと言っていた、と話していたことだけだ」
安生はすぐに聞いた。
「お父さん自身が沈川に会ったわけじゃない?」
「違う」
「確かか?」
「確かだ」
「親父は沈川と、そこまで親しくなかった」
「少なくとも、沈家を代表して話せるほどではなかった」
安生は頷いた。
それから聞いた。
「お父さんがその話をしたのは、いつ?」
「六月十二日より後だ」
「何日後?」
「分からない」
「でも、荷が出たあとだった?」
「たぶん」
「どうして『たぶん』なんだ?」
「その頃、親父はずっと倉にいた」
「帰ってきてから話したからだ」
安生はそれ以上、聞かなかった。
⸻
馬家を出た安生は、趙徳全のところへ向かった。
「前に言ったな」
「『沈家のほうは問題ない』と聞いたって」
「ああ」
「誰が言った?」
趙徳全は黙った。
「覚えてるのは馬徳順だ」
「確かか?」
「確かじゃない」
安生は彼を見る。
「昨日も」
「『たぶん』と言ってた」
「今日も、たぶんか?」
趙徳全は苦笑した。
「二十年以上前のことだ」
「お前に聞かれたからって」
「記憶を帳簿みたいに正確にするわけにはいかん」
安生は頷いた。
「その言葉も記録しておく」
「何を?」
「記憶は帳簿じゃない」
「大まかなことは覚えていても」
「大まかな記憶で、空白を埋めることはできない」
趙徳全が笑った。
「お前、最近ますます親父さんに似てきたな」
安生は答えなかった。
そのまま聞く。
「『点頭した』という言葉は聞いたことがあるか?」
「ある」
「誰が言った?」
「周長順だ」
安生はすぐに顔を上げた。
「自分の耳で聞いた?」
「ああ」
「何と言った?」
趙徳全は少し考えた。
「こう言った」
「沈家のほうは、もう点頭した」
安生が聞く。
「いつ?」
「六月十二日」
「午前か午後か?」
「午前だ」
「確かか?」
「だいたいは」
「どこで?」
「碼頭の東倉だ」
「ほかに誰がいた?」
趙徳全は眉を寄せた。
「たしか、馬徳順がいた」
「それから梁成も」
安生は何も言わなかった。
この三人の名前が、
初めて一つの記憶の中に並んだ。
だが、それでもこれは、
二十年以上経った今の趙徳全の記憶にすぎない。
そのまま完全な事実として扱うことはできない。
⸻
「本当に」
「周長順が『沈家は点頭した』と言ったのか?」
趙徳全は頷いた。
「その言葉は覚えている」
「どうして覚えている?」
「俺がそのとき聞いたんだ」
「沈家は本当に同意したのか、と」
「そしたら奴が言った」
「点頭した、と」
安生はすぐに聞いた。
「じゃあ」
「誰が点頭したのかは聞かなかった?」
趙徳全は一瞬、黙った。
「聞かなかった」
「どうして?」
「あの頃は」
「誰も、この話がおかしいとは思ってなかったからだ」
安生は何も言わなかった。
この言葉は、
もう何度も聞いている。
誰も、おかしいと思わなかった。
⸻
家に戻ると、
安生は新しく分かったことを書き留めた。
一つ目。
馬成林の記憶。
父親が、
周長順は「沈家が点頭した」と言っていた、
と話していた。
二つ目。
趙徳全の記憶。
六月十二日の午前、
周長順が、
「沈家は点頭した」
と言った。
三つ目。
趙徳全は、
そのとき自分が、
「沈家は本当に同意したのか」
と尋ねたことも覚えている。
周長順は、
「点頭した」
と答えた。
四つ目。
沈川自身の記録。
六月十一日。
周来。
南貨、先に処理できるか。
問。
不明。
安生の手が止まった。
この四つを並べると、
明らかな食い違いが見えてくる。
もし沈川が六月十一日に、
はっきり同意していたのなら。
なぜ彼の記録には、
「問」
と
「不明」
しか残っていないのか。
ただし、それだけで、
沈川が口頭で同意していなかったとは証明できない。
沈川自身が、
口頭での返事をすべて記録していなかった可能性もある。
安生は、その横に書いた。
「記録がないことは、事実が存在しなかったことを意味しない。」
そして、その下にもう一行。
「しかし、現在残っている記録も、同意があったことを証明してはいない。」
⸻
午後。
安生は沈砚のところへ行った。
新しく分かったことを、すべて話した。
沈砚は聞き終えても、
すぐには口を開かなかった。
しばらくしてから、
「お前は、父が本当に点頭したと思うか?」
と聞いた。
安生は首を振った。
「今は分からない」
「今あるものだけを見るなら」
「お父さんの記録は、明確に同意したようには見えない」
「でも、口頭で答えた可能性までは消せない」
沈砚は低い声で言った。
「じゃあ、どうする?」
「まだ探す」
「誰を?」
「当時、東倉にいた人間を」
沈砚は眉を寄せた。
「趙徳全の話では」
「周長順、馬徳順、梁成がいた可能性がある」
「馬徳順はもう死んでいる」
「梁成も、今どこにいるか分からない」
「ほかに誰がいる?」
安生はすぐには答えなかった。
六月十二日の記録を見る。
東倉、三包。
臨時札一。
そのとき、ふと思い出した。
呉順の記録。
「東倉、三」
「臨時札一」
「西倉、二」
「臨時札二」
「札、すべて返却」
「同じ事ではない」
「呉順」
沈砚が聞いた。
「もう死んでいるだろ」
「ああ」
「でも、息子がいる」
「呉平」
「親父さんは、ほかに何か残してないか?」
沈砚は首を振った。
「もう調べただろ」
安生も首を振る。
「帳簿じゃない」
「習慣だ」
「習慣?」
「呉順は臨時札を記録していた」
「誰が札を持っていったかは、書かなかったかもしれない」
「でも、誰が札について聞きに来たかは書いていたかもしれない」
沈砚が少し驚いた。
「どうして分かる?」
「昔の記録に、そういうものが残っていた」
「札が遅れて返された理由」
「誰かが、もう荷は届けたと言ったこと」
「そういうことのほうが」
「人の名前より残りやすい場合がある」
⸻
その日のうちに、
二人は再び呉平の家へ向かった。
話を聞いた呉平は、
長いこと黙っていた。
「親父には、確かに小さな帳面があった」
「帳簿じゃない」
「前には見せなかった」
「なぜ?」
「役に立たないと思っていた」
「どこにある?」
「探してみる」
半刻ほどして、
呉平は梁の上から布包みを一つ取り下ろした。
中には、
薄い帳面が一冊だけ入っていた。
最初のページを開く。
そこには、
「臨時札雑記」
と書かれていた。
安生の胸が一瞬、高鳴った。
だが、すぐにはページをめくらなかった。
「お父さんのものか?」
「ああ」
「どうして今まで出さなかった?」
「誰も聞かなかったから」
安生は頷いた。
その言葉が、
また出てきた。
誰も聞かなかった。
⸻
六月十二日。
そこに、ようやく記録があった。
書かれていたのは数行だけだった。
「臨一、東倉、三。」
「臨二、西倉、二。」
その下に、もう一行。
「午前、誰かが聞く。南貨は先に出せるか。」
安生の手が止まった。
沈砚も黙った。
安生はさらに下を見る。
小さな字で、
もう一行あった。
「答:沈家に聞く。」
二人とも何も言わなかった。
安生はもう一度、その文字を読んだ。
「沈家は同意した」
ではない。
「沈家は点頭した」
でもない。
「沈家に聞く。」
安生はゆっくり腰を下ろした。
もしこの記録が正確なら、
六月十二日の午前。
少なくとも誰かが呉順に、
南貨を先に出せるかと尋ねた。
呉順の答えは、
「沈家に聞く」
だった。
つまり少なくとも呉順のところでは、
その時点で、
沈家の許可がすでに確認されているとは扱われていなかった。
そしてこの記録は、
その後、周長順が人に話した、
「沈家はもう点頭した」
という言葉と明らかに違っている。
それでも安生は、
すぐに誰かが嘘をついたとは言わなかった。
ただ、さらにページをめくった。
最後のページ。
六月十二日午後。
そこには一行だけあった。
「臨二、遅れて返却。」
名前はない。
理由もない。
ただ、その下に三文字。
「荷、出済み。」
安生が顔を上げた。
「呉さんは、いつ書いた?」
呉平は首を振った。
「分からない」
「その日か?」
「たぶん」
「確かか?」
「分からない」
安生は頷いた。
そしてもう一度、紙に目を落とした。
そのページを書き写した。
⸻
呉平の家を出る頃には、
もう空は暗くなっていた。
沈砚が聞いた。
「それで?」
安生はゆっくり歩いていた。
「少なくとも、分かったことがある」
「六月十二日の午前」
「誰かが聞いた」
「南貨を先に出していいか、と」
「呉順は、いいとは言っていない」
「沈家に聞け、と答えた」
「午後」
「臨二が遅れて返っている」
「そして」
「荷はもう出ている」
沈砚が聞いた。
「じゃあ」
「誰かが呉順を飛ばして荷を出したということか?」
安生は首を振った。
「それは言えない」
「なぜ?」
「呉順は札を管理していただけだ」
「荷の所有者じゃない」
「沈家に聞けと言った」
「それは、呉順が許可を確認していなかったことを示すだけだ」
「ほかの誰かが別の形で許可を得ていた可能性までは消せない」
沈砚は黙った。
安生は続けた。
「でも」
「一つだけ、だんだんはっきりしてきた」
「何が?」
「『沈家はもう同意した』という言葉は」
「最初から存在していた事実じゃない」
「少なくとも、いくつかの段階を経ている」
「最初に、誰かが聞いた」
「次に、『沈家に聞く』と言われた」
「そのあと、荷が出た」
「さらにそのあと」
「誰かが『沈家は点頭した』と言い始めた」
「最後には」
「『沈家はもう同意している』になった」
川から風が吹いてきた。
安生は帳面をしまった。
「今、探すべきなのは」
「最後にこの言葉を言った人間じゃない」
「誰が最初に」
「『沈家に聞く』を」
「『沈家はもう点頭した』に変えたのか」
そこまで言って、
安生は一度、足を止めた。
そして付け加えた。
「この二つの言葉の間にあるのは」
「いくつかの言葉の違いじゃない」
「一人の人間がした、ひとつの判断だ」




